はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵4回目-8

2013-11-19 05:43:16 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              60番目(46番) 水落地蔵堂(城壕用水)
 国分寺を出てからサテどうしようと迷ってしまった。実は次の予定の水落地蔵堂も場所が分からなかった。
百地蔵のHPにも何も書いてないし、ネットでもヒットしなかった。ただ水落は御器屋町と違い水落町の地名は
今も残っているので兎も角そこに行くしかない。一先ず駿府城の外堀に出て堀沿いに水落交番まで歩いてみよう。

 この水落という地名は駿府城の堀の水が横内川に流れ落ちる場所の事で、現在の水落交番の場所だという。
私の手元に「城壕用水沿革誌」という分厚い本がある。これは駿府城の堀の水の水利権を有していた城壕用水
土地改良区が、その水利権を静岡市に譲渡したのwp記念して発行した本で、かなり気になる事が書いてあった。
 駿府城の堀の水源は安倍川から引いていたと思っていたが、沿革誌によると
「駿府城は唯、単なる軍略的城郭として存在したのではなく、家康が治世を忘れなかった証として、自然湧水
する城壕の用水を、府中近郷の農民に水利権と認めている」
と書いてある。
堀の中に水が湧いていとは、安倍川の伏流水が湧きだしていたのだろうか。さらに「城壕に蛙が繁殖して、
家康公は眠れない一夜を送った」
とは、まさに堀と田圃が直結していた証だろう。

 この城壕用水は田畑の用水だけでなく運河の水としても利用していて、駿府城二の丸には全国的にも珍しい
船(水)櫓門があった。これは海から直接駿府城に物資を運び込むための櫓で、ここから二の丸水路を経て
外堀に出て、さらに外堀から水落を通り横内川に入る。そして上土の巴橋付近で巴川に繋がっていた。
巴川の河口には清水湊があるので、駿府城から駿河湾は水路で結ばれていたいえる。
ただ水落から巴川の間を流れれる横内川は、川幅が狭く小舟しか通れなかったため、拡幅工事を行ったが
「水多くして掘られ間敷」と江戸時代に書かれた「当代記」には書かれている。
麻機沼を源にした巴川は、河口の清水湊までの高低差が、わずか7メートルしかなく、「九十九曲り」とも称され
ていたようだ。このため巴川は各所で蛇行していて、流域は湿地帯が多く幾度もとなく氾濫したという。
運河の水は欲しいが、多すぎても困ったのだろう。

 もう一つ駿府城について紹介する。城壕用水沿革誌によれば駿府城の別名は「浮島城」とか「霧隠城」と称されて
いたとある。その理由は「麻機沼と賎機沼、谷津山や有度山を要障とにし、安倍川の本流、支流を西南北に廻らした
地形にあった」
とある。現在駿府城を眺めても、地図で見ても、とても浮島とは思えないが、治水工事が思うように
出来なかった時代はそんな状態だったのか。それにしても駿府城が浮島城とか霧隠城とは初めて聞いた。

 
               駿府城二の丸水路                            駿府城外堀水落付近
      水落交番の地図
 本題に戻ろう。御器屋町と違い水落は現に地名が残されているのだから少しは探さなければと、常葉学園の間の
道を入ってみた。この常葉学園はピンクレディーがデビューしたとき在校していた高校だ。当時に比べ倍以上大きく
華美になっているのを見ると、あれで入学生が増えたのだろうか。
余り先に進むと水落町を出てしまうので、途中で右折した。水落公園があったが地蔵堂は勿論、地蔵像も無かった。
突き当りを右折して、さらに右折して歩くが住宅ばかりで緑地も無い。きっとこの辺りも戦災で焼野原になったので
探すのは無理かもしれないと、水落町の隣にある大田町の来迎院に向かった。

              61番目(47番) 来迎院(宮城野・信夫)
 水落町から適当に来迎院方向に向かうと来迎院の裏に出た。併設された幼稚園の横を通り来迎院の山門から
中に入る。早速駿河百地蔵の標札の張られたお堂が目に付き中を覗くと、中央に不動明王を配し、脇には2列に
渡り、色々な仏像を祀ってある。釈迦如来、大日如来、普賢菩薩、阿弥陀如来等々。名札が付いていたので分か
るだけで、後列にある仏像の名は分からなかった。その中に地蔵菩薩があるのかな?
中央の阿弥陀如来の前に「由比民部之助正雪公之霊位」と読める。ここで由比正雪の名が出てくるとは思いも
しなかった。境内にあった寺の由来には「十三仏堂は、もと安倍川の畔にあった正念寺から移したもので、由比
正雪をめぐる宮城野・信夫の物語を伝えています」
と紹介されていた。
これでこのお堂が十三仏堂だと分かり、十三仏とは「冥界の審理に関わる13の仏で、十三回の追善供養を、
それぞれ司る仏様」
だそうだ。尤もこれは後追いの知識で見ているときはそんな事は知らなかった。
更に宮城野・信夫なんて初めて聞く名前だったが、調べてみると人形浄瑠璃「碁太平記白石噺」の通称で、その
主人公姉妹の名前だった。この話が中々面白いので紹介します。

「仙台藩領白石逆戸村に与太郎という百姓がいました。ある日与太郎は二人の娘を連れて田の草をとっていました。
そのとき侍の志賀団七が通りかかりました。たまたま妹信夫が投げた田の草が、団七の袴に当たってしまいました。
団七は烈火のごとく怒り、信夫を切り殺そうとしました。与太郎は土下座して娘が悪かったと謝りました、団七は聞く
耳を持たず、その場で与太郎を切り殺してしまいました。姉妹は命からがら我家に逃げ帰り、病気の母親にその話を
すると、母も与太郎の後を追うように亡くなってしまいました。

 姉妹は親の恨みをはらすため、団七を討ち取る決心をして、一流の剣術家に武術を習うことにしました。
そこで二人は親の形見の土地を売って、江戸の剣術家、由井正雪を訪ねました。
 最初姉妹を相手にしなかった正雪でしたが、玄関払いを何度もしても、願い出る姉妹の熱心さに心が動かされ、
話を聞いて弟子にしてくれました。正雪は姉を宮城野、妹を信夫(しのぶ)と命名し3年の間に仇討をさせることを
約束しました。

 その日から、正雪は宮城野に鎖鎌と手裏剣、信夫に薙刀を指導しました。そして5年間の修行の末、姉妹は
門弟の中で一番に成長して、ついに仇討をするため、門弟3人に付き添われ、白石へと向かいました。

 白石に着いた姉妹は「父母共に亡き今、生きる術もないので、団七様のお手に掛かって死にたい」仙台藩に
申し出ると、団七の無道ぶりを知っていた藩では、伊達家を通じ幕府に伺いいをたてました。
普通ならば認められない仇討でしたが、幕府も孝女であると特別に認めてくれました。

 寛永17年(1640)春まだ浅い2月。白石川六本松河原が仇討の場所となりました。仙台藩の侍150人が周りを
囲い、見物客は1000にもなりました。
 深とした緊張した空気が張りつめた中、宮城野・信夫は正雪から贈られた着物を着て、鉢巻をきりりと締め
前に出ました。一方、志賀団七は2尺5寸の大刀を帯び、華やかな出で立ちで登場しました。

 ドーン、ドーンという太鼓の合図で立ち会いが始まりました。
まず、信夫が薙刀で戦いましたが、勝負がつかず、続いて宮城野が戦いました。宮城野は鎖鎌の分銅を振って
戦いました。その鎖が団七の腕にからまったとき、信夫の薙刀が団七の両腕を切り落としました。
姉妹は、「父母の無念をはらしたまえ」と声高く叫び、団七の首を切り落としました。

 姉妹は、親の仇とはいえ、武士を切った罪を詫びるため、その場で死のうとしました。それを止めようと
する人々の声によって思いとどまった姉妹は、髪を切り駿府の弥勒寺のそばに庵を建てました。
宮城野62才、信夫64才で亡くなるまで、仏に仕えました。」


 由比正雪の出身の地駿河に住まいながら、この話を聞くのは初めてだった気がする。
安倍川橋の袂にある安倍川緑地に、この話を紹介した案内板はあるのだろうか。
この話はもっと静岡県民に知ってもらいたい気がする。

 振り返ると山門の横に地蔵堂があった。5段になった棚には大小の同じ形の地蔵像が並べられている。中央
上段の大き目な地蔵像に「水子地蔵」と書かれているのを見ると、他の地蔵は信者が奉納したようだ。
では百地蔵の本尊はどれか? マーいいか。面白い話を知っただけでも、この寺に寄った甲斐があった。

 
                  来迎院                             地蔵堂と道祖神
       来迎院の地図 

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