はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

初歩き:湖北五山初詣5

2017-01-23 14:05:43 | 寺社遍路
歩行記録   H29-1-6(金)
歩行時間:6時間40分   休憩時間:2時間15分   延時間:8時間55分
出発時刻:7時10分     到着時刻:16時05分
歩  数: 40、707歩(推定距離28.9km)    GPS距離29.4km
行程表
 天浜線金指駅 0:15> 初山(しょさん)宝林寺 0:25> 実相寺 0:30> 井伊家発祥の井戸 0:04> 龍潭寺(りょうたんじ) 0:01>
 井伊谷(いいのや)宮 0:10> 妙雲寺 0:04> 渭伊(いい)神社 0:01> 天白磐座遺跡 0:30> 竜ヶ岩(りゅうがし)洞入口 1:00>
 奥山方広寺入口 1:20> 風越峠 0:45> 三ケ日人骨出土の地 0:25> ミカンの里資料館 0:15> 大福寺 0:25> 摩訶耶寺
 (まかやじ) 0:15> 初生衣(うぶぎぬ)神社 0:05> 浜名惣社 0:10> 三ケ日駅

                                     湖北五山概略図



                         方広寺入口から風越峠への地図
◎道案内12
 ・方広寺から出たら広場を越し一番左にある県道68号を南西の方向に下る。
  あとは風越峠まで県道を歩く分りやすい道が続く。

         
                     ミツマタ(三椏)                                   カヤ(榧)?

 次の大福寺には総門から門前通りの入口まで戻り、県道68号を風越峠まで歩く事になる。
この道は一旦下ったあとヘアピンカーブを登る今日のコースの中で一番きつい箇所になる。本当なら新東名の近くに平坦な(?)道が
あるらしいがまだ歩いた事はない。一度確認したいと思っていたが、何しろここは道探しをしながら歩くにしては遠すぎて、行ったり
来たりしていると明るいうちにゴールの三ケ日駅まで到着することが出ない。それを恐れて結局歩かずじまいになってしまった。

 今回も舗装道路をテクテクあるのだが救いは交通量が少ない事だ。この県道は道幅が狭いため大型車が通行禁止なのも影響して
いるのか、風越峠までは数台の車にしか出会わなかった。
道端にミツマタが蕾を付けていた。蕾と云っても一見花のように見え黄色の花を見てない人は、これが花だと勘違いするだろう。
オッ今度は何だ? 葉の形がカヤのように見えるが、カヤって幹が細かく枝分かれしていったけ? 分からない。

         
             青面金剛像                                  石仏安置

 ここにも青面金剛像があった。右には六地蔵、左には秋葉山の常夜灯に小さな社がある。
これが地図にある “六所大明神” なのだろうか、これも分からない。

こんな事にでも気を紛らわさないと飽きてきてしまう。

 
             新東名が下に見えた                               ヘアピンカーブ

 一旦下った県道が登り始めると新東名が見えてきた。民家も見えているので多分あの辺りに風越峠に行く道があるのだろう。
地図ではヘアピンカーブは2ヶ所しか書いてないが実際は4ヵ所程度はある。その内の1ヶ所をシュートカットしたら疲れる事といったら
なかった。今まだ順調に来ていたのにハーハー息切れがして左足首が痛くなってしまった。
今日は平に慣れていた足が急に斜めになり足首を痛めたのか、くだらない事をしてしまったと、その場限りの後悔を。


                             風越峠から三ケ日人遺跡までの地図
◎道案内12
 ・風越峠で県道と別れて左の車道に入る。太い道を道なりに下る。
 ・県道308号に合流したら右折して下っていく。
 ・以前は県道に入り最初の右側への分岐を右折する近道があったが、今はフェンスで立入禁止になっているので県道をそのまま下る。
 ・(道が太くなった左側に公衆便所がある?)。そこが三ケ日人骨出土遺跡の入口で遺跡は20mほど中に入る。

       
               句 碑                                   風越峠

 「涼しさや 休む風越し 富士を見て」 と彫ってあるらしいが所々しか読み取る事ができない。白っぽいゴツゴツした岩に彫ってある
ので字が見にくいのです。折角の句碑なのだから彫跡に墨でも入れてくれれば読めるのだが。
そんな文句は良いが、この句碑を見るたびに感じるのは、ここから富士山が見えるだろうかという事。今は気が邪魔して見えないが
木が無ければ見えるのだろうか?

 
                 尉ヶ峰登山口                            県道と合流

 と思いながら峠から県道から林道に入ると、オッ!尉ヶ峰の登山道が禿山になっている。あの上からなら富士山が見えるだろうか。
タイミング良くトラックから作業員と思しき人が降りてきたので
 「あの上から富士山は見えますか?」 と聞くと
 「私ら大阪から来ているので良く分からない」 だって。多分見えないのだろう。

 県道68号と308号を結び道は林道なのかどうかは分からないが、県道と同等の車道だが車には1台も出合わなかった。
308号と合流したら場所 “巨人の足跡” があるのだが、今は案内板も剥げかけて読む気にもなれない。足跡はと云っても・・・・・
勿論巨人とは 「ダイダラボッチ」 の事ですが、ここではダイダラボッチの事を 「大多良法師」 としてあるが、成程それも面白い。
カタカナの伝来ジャイアントが日本の大男になったようだ。

 
               ウワー!通れない                               ミカン畑ばかりだ

 県道の最初の右への分岐を入ると、正しく 「ウワー!通れな」 だった。農道の入口はフェンスで閉じられてていて、そのフェンスは
県道の下の一面のミカン畑をグルリ囲んでいるようだ。
フェンスの入口は2ヶ所ひもで縛られているが、これを外して中に入っても良い物なのか? フェンスの目的は鹿や猪対策だろうが
それ以外にもミカン泥棒も兼ねているのかもしれない。ウーン!どうしよう。
これまでも獣の進入禁止の柵は何カ所も出くわしたが、そこには注意書きが有ったり、人間なら簡単に開閉できる入口だったので
柵を開けて入っていた。だがここの入口は何となく入るのに抵抗を感じる。縛り方が獣対策と云うよりなにか人の情に訴えるように
 「本当に入るのですか?」
と云っているようだ。

 今日は寺社巡りの遍路でもあるのだから人に言い訳しなければならない事は止めておこう。とトボトボ県道を下りました。

       
                              三ケ日人骨出土遺跡

 三ケ日人骨出土遺跡の入口は看板が無くて分かりにくかった。県道を下ってきて集落に入り右に小高い丘の手前で道が太くなっている。
そこのミカン畑の間の舗装された道を入るのだが、前回の記録を見るとその場所にはトイレがありその横を入ることになっていた。
しかし今回はそのトイレに気が付かなかった。多分トイレは無かったと思うが自信はない。
小高い丘は地図に “新明宮” とある場所です。

       
                              三ケ日人骨出土遺跡

 ここの遺跡は正規には 「只木遺跡」 と呼ぶようです。でも “三ケ日原人” の意識が強い私にとっては “三ケ日” の言葉が入らないと
ピンとこないのですよね。
三ケ日原人がいつの間にかに三ケ日人に格下げされてしまったが、私たち年代の教科書には三ケ日原人の名で載っていました。
そのあたりの経緯を案内板は教えてくれます。それらを要約すると
 「昭和33年に当地の石灰石採石場で人骨と獣骨の骨片の化石がが発見された。獣骨の中には縄文時代には既に絶滅していた
アオモリゾウなどの化石骨と共に発見されたので、人骨も縄文時代に人骨と推定され、三ケ日原人と命名された。
平成12年人骨化石を新しい鑑定法で計測すると、その人骨は縄文時代のものと判明し三ケ日原人は三ケ日人に格下げになった。」


       
                             三ケ日人骨出土遺跡

 人骨や獣骨の化石はこの穴の中から発見されたのだろうか? 化石と云うのだから穴の中にポツンとあったわけではなく、岩の間に
あったの思うし、石灰岩の採石場で発見ともあるが、以前はこの辺り全体が採石場で人骨が出た場所だけ残したのだろうか、疑問は多い。
更に疑問なのは時代の異なる獣骨と人骨がどうして同じ場所から発掘されたのだろうか? もう少し詳しい説明が欲しいところだ。
そして最後の疑問は、ここには石灰岩の採石場があってチャートの採石場ではない。ミカンに適した土壌はチャートだとこのあと訪れる
ミカンの里博物館の方は説明してくれたが、ここは一面ミカン畑なのだが・・・・・・・

 
                 新明宮                                平地に来てもミカン畑だった

 三ケ日人遺跡の西側に木々がこんもり茂った丘は神社の森だった。参道の階段の横に建つ社号標には 「村社 新明宮」 とある。
村社なら大した事はなく神社の位からからいけば一番低い位置にある。
因みに神社の位は官幣大社から始まり、国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社などの官社があり、その下に
府県社>郷社>村社がある。
だがその割には清浄な雰囲気を湛えて何か伝説でもありそうな雰囲気もある。調べてみると伝説こそ無かったがこの神社は式内社
だと分かった。道理で由緒ありげに見える佇まいだ。
そうそう式内社とは延長5年(927年)にまとめられた 「延喜式」 に記載されていた神社の事で、全国で2861社が指定されている
由緒正しき神社のことです。
尤も延喜式には神明社としての名称ではなく “弥和(みわ)山神社” と旧称で載っているようです。


                             三ケ日人遺跡から大福寺までの地図
◎道案内13
 ・三ケ日人遺跡期から県道308号を下り橋を渡ると県道68号に合流する。
 ・合流したら左折して県道を下って行くと道の左にミカンの里博物館がある。
 ・博物館から更に県道を西に向かって行くと火の見櫓と消防団の建物があるのでそこを右折する。
 ・右折して最初の角を左折すれば大福寺の仁王門が見えてくる。

 
             ネットを被せたミカン畑                            みかんの里博物館

 みかんの里博物館は今まで来た時は閉館続きだったが今日はタイミング良く開いていたので、チョッとお邪魔してみます。
お年寄りの男性が受付で座っていたので声を掛けて中を見学した。古い農機具などが陳列されいるだけで余り面白くはない。
味見用の三ケ日ミカンもないので出ようとしたら 「チョッと説明させてもらっていいですか」 と話しかけてきた。
受付けの人にいろいろ説明してもらったけど記憶に残ったのは
 「三ケ日ミカンは早生は興津早生で、晩ては青島ミカンと決まっていて、それ以外は三ケ日ミカンではない」 との事だけだった。
そこでミカンには関係ないが以前から気になっていた赤いっぽい石垣の事を訪ねると
 「あの石はチャートと云って、三ケ日ミカンの旨さの秘訣はあのチャ-トにあります。お隣の愛知県に三ケ日と同じような気候の蒲郡と
云う町があるが、そこでも三ケ日ミカンに負けないようなミカンを作ろうと挑戦続けてきたが、どどうしても作れなかった。そこで学者に
調べてもらったら三ケ日と蒲郡の違いはチャートが有るか無いかだった。チャ-トがどうしてミカンを旨くさせるのか分からないが、
蒲郡ではそれで路地ミカンは諦めてハウスみかんに力を入れるようになった。」
との事です。
ウーン大事なことを聞いた気がするが、これからこの地方を歩くたびに石灰岩とチャートには悩むだろう。

 
                勿体ないなー                               大福寺仁王門

 流石三ケ日だけの事はある。何処に行ってもミカンのオンパレード。それにしてもこの摘果は何だろう? 勿体ないなー

 大福寺の仁王門に着いたがここから本堂までは大分歩かなければならない。昔はこの参道の両横に塔頭(たっちゅう)が建ち並び
七堂伽藍の境内に続く道であっただろうが、今はただ太いだけの道で昔をしのぶ物もない。
仁王門に建つ案内板によれば
 「貞観17年(875)扇山(富幕山)に幡教寺(ばんきょうじ)を開創した。その後現在地に移し、土御門天皇から勅額を下賜されて
大福寺と改称した。」
とある。
紹介はされていないが、この仁王門は県の文化財に指定されているという。
また仁王門の扁額の 「大福寺」 文字は土御門天皇が下賜された勅額だそうです。(寺の字が読めなかったが)

 
                     阿                                     吽

 阿吽の仁王は鎌倉時代の作とか。雨風が強ければもろに影響を受けそう所にあるのに、よく今までもったものだ。
バックの朱色が仁王をより力強く感じさせているようでした。

 
              新東名三ケ日JCT方面                        新東名浜松いなさIC方面

 参道の途中に新東名を跨ぐ大福寺橋がある。左側は三ケ日JCTを経て東名に合流するので上りと下りの車線が離れていく。
片や右側はその車線が合体する所だが何れにしても交通量が少ない。それでも今は1台だけだが走っている車も見えるが、新東名が
愛知県まで延長したらここ走る車はどうなるだろう。多分激減してしまい1日数台なんて。まさかそんな事はないと思うが勿体ないなー。

 
         新東名の跨線橋から浜名湖が見えた                          庫裡の入口

 跨線橋を振り返ると今日初めての浜名湖が見えていた。このコースで海が見える場所はここだけです。
此の門を潜った先には浜名湖を借景した回遊式庭園があるそうですがまだ入った事はありません。勿論今日もパスします。

 
          石段の四国八十八霊場石仏                          四国八十八霊場一番石仏

参道の階段脇には四国霊場札所の順番に二体ずつの石仏が並べて安置してある。その一体はどれもが丸彫りの僧形の石仏で、
これは弘法大師を表しているのだろう。もう一体は各札所の本尊だと思うが正確なことは分からない。
例えば一番札所霊山寺のご本尊は釈迦如来だが、私には阿弥陀如来のようにも見えてしまう。           

                         
                    正面        板碑(いたび)か石幢(せきどう)か      横面

 余り見かける事のない石仏は板碑(いたび)とか石幢(せきどう)と呼ぶのだろうか。その石碑の正面は4段に分かれていて
下3段にそれぞれ4体の仏像が彫られ、最上段には3体彫られているので計15体の仏像が彫られている。
更に右側面にも9体が彫られている。
すでに大分風化しているので定かではないが、一目では分かるのは右手を頬に当てて歯痛をこらえている如意輪観音で、これは
正面にも側面にも彫られていました。

 
                  本 堂                                  浜名(大福寺)納豆

 本堂前の桜がチラホラ咲きだしていて春遠からじを思わせる。前回来た時は桃の花が満開で丁度弘法大師の御開帳の日に当たり
地元の方に接待してもらった。だが今境内にいるのは私一人だけで初詣客もいない。この五山は初詣の人気は無いのだろうか。

 三ケ日に来た時に買うのは、三ケ日名物浜納豆ですが、この納豆について仁王門の前の案内板には
 「大福寺伝製の浜名納豆は明(中国)の僧から伝来されたもので、日本の納豆の元祖である。足利七代将軍、今川義元、豊臣秀吉、
徳川家康以下歴代の将軍に献上し、ご朱印の外に納豆除地を下符せられた。豊臣時代は唐納豆と言ったが、徳川中期から浜名納豆と
言っている。浜松市教育委員会」
 と紹介しています。
だがこの納豆の名前は浜納豆、大福寺納豆、浜名納豆となどがあるが家康の命名した浜名納豆は余り使われないらしい。
大体本家本元の大福寺でも浜名納豆の名前は使わず大福寺納豆と言っているのだからまさに家康さん地に落ちたりですな。

 そんな事はどうでもよいのですが大福寺の庫裡の入口には 「大福寺納豆 800円」 のポスターが張ってある。
初回の来た時はたかが納豆に700円は高いと思って買わなかったのだが、三ケ日駅近くの酒屋へ氷結を買いによると大福寺納豆が
500円で売っていた。店主が 「大福寺で製造した納豆です」 と云うので1袋買ったがこれで十分でした。
それ以後大福寺では買わずに酒屋で買っていますが、今回は案の定500円が600円と寺と同じように値上げされていました。

納豆の包装紙に書かれた「寺」 という字は、大福寺の仁王門に掲げられている土御門天皇の書いた勅額と同じ文字でした。
それにしてもあれで “寺” と読ませるのですかねぇ。

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