はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

駿河百地蔵4回目-11

2013-11-22 16:45:54 | 寺社遍路
  41番目 ~ 70番目 地蔵                              歩行月日2013/09/23

歩行時間:9時間14分 休憩時間:1時間46分 延時間:11時間00分
出発時間:6時05分   到着時間:17時05分
歩  数:  48、000歩   GPS距離:35.8km
行程表
 静岡駅 0:15> 41番 0:07> 42番 0:07> 43番 0:07> 44番 0:13> 45番 0:15> 46番 
 0:33> 47番 0:32> 48番 0:13> 49番 0:42> 50番 0:05> 51番 0:50> 52番 0:16> 53番
 0:10> 54番 0:05> 55番 0:13> 56番 0:08> 57番 0:20> 58番 0:43> 59番 0:10> 60番
 0:08> 61番 0:17> 62番 0:25> 63番 ~0:10>~ 69番 0:45> 70番 0:25> 草薙駅

              64番目(49番) 天昌寺(厄除地蔵)
 長源寺を出て谷津山から離れ、また北街道を横断して北の平野部にある天昌寺に向かう。
次に行く寺は天昌寺と言うより 「上足洗の厄除地蔵さん」として親しまれているお寺だ。
この厄除地蔵の謂れはHPにはこんな風に紹介してある。
「弘法大師の作と言われている厄除地蔵尊は、伝承によれば地蔵尊が連歌師宗長の夢枕に立ち、自分は今、
河原に埋もれているが、丁重に供養すれば福寿円満を授けるだろうと語った。そこで宗長は駿河国の中を捜し
回ったが、地蔵尊は見つからない。諦めて河原に佇ずんでいると、突然足元に瑞雲がたなびき、石の中から
地蔵尊が現れた。
その後、この地蔵尊は足洗村の有力者だった酒屋半左衛門の屋敷の平見堂に祀られた。半左衛門は慶安4年
由井正雪の乱に加担した罪で処刑された人物で、その後、彼の屋敷も廃墟になったという。
ともあれ、平見堂は明治26年に取り壊されて、地蔵尊は長源院に遷された。しかし、長年この地蔵尊を尊崇
してきた上足洗の人々の要望で、大正5年、地蔵尊は改めて天昌寺に遷座された。
なお、この厄除地蔵尊は見られることが嫌いだとの理由で、秘仏とされている。これは、あらゆる人を区別せず
救うという、地蔵の慈悲の表れである。そのため地蔵尊は晒に幾重にも巻かれ、厨子の中に安置されている」


 弘法大師の作の地蔵尊は川原に埋もれ、連歌師宗長に発見され、由比正雪に加担した人に祀られる。
更に地蔵堂は倒壊されて他所の寺に移され、漸く大正の時代になって天昌寺で祀られるようになった。
こんな話を聞けば、地蔵尊が厄を一身に引き受けたようなものだが。ようは地蔵が信者の厄を一切引受けて
くれるという事なのか。身代地蔵と同じだな。

 境内は工事中でガタガタしていてゆっくりできない雰囲気だった。だが所詮秘仏の厄除地蔵は見る事は
出来ないのだから、境内にあった「水掛地蔵」で我慢しておこう。

 
                  天昌寺                                  水掛け地蔵?
      天昌寺の地図
 天昌寺を出て唐瀬通りに出る。この唐瀬通りを左に行けば前回歩いた麻機街道に合流する。また、右に行けば
静岡市立高校の横を通り北街道と合流する。その合流地点にある蓮永寺には、勝海舟の母親や妹、徳川家康の
側室お万の方の供養塔がある。また、私立高校の南門は徳川家達の屋敷の門を移築した物だという。
どちらも見たかったが、今、時間は3時を回ってしまった。あと5寺を廻って草薙駅に出る予定なので時間的に
厳しくなってきた。蓮永寺と田安門は今日は諦めるしかないな。

 実は市立高校の門は、今まで15代将軍徳川慶喜の屋敷の門だとばかり思っていた。
だが今日の事前調査で門の事を再度確認すると、私の勘違いだということが分かった。
「駿府藩主に任じられた徳川家達は直ちに駿府城に入ったが、翌明治2年藩籍奉還により藩知事に任命された。
公私の別をつけるために家達は城を出て、西草深町の屋敷に移り住んだ。市立高校の南門として移築されている
門は徳川家屋敷の貴重な遺構である。なお家達が田安家の出身であったことから、門は田安門と称されている」

では何故私が慶喜の門と勘違いしていたかは
「慶喜は慶応4年から静岡の宝台院で謹慎生活を続けたが、明治2年に勤慎を解かれて、紺屋町の駿府代官屋敷
(現・浮月楼)に移り住んだ。明治21年にかつて家達が住んでいた西草深町に引っ越した」
とある。
慶喜も同じ屋敷に住んだため、家達と慶喜がゴチャゴチャになってしまったのだろう。

              65番目(67番) 松龍院(愛宕)
 市立高校の裏を歩いて、またまた北街道を渡り谷津山の東端にある愛宕山霊園の中を歩く。
名前に愛宕山が付くのなら、愛宕神社が近くにあるのではないかと地図で探すと、谷津山東端のピークに
愛宕神社があった。神社は徳川家康が、京の愛宕神社から勧請されたとあるので、きっと駿府を火事から
守る火伏のために勧進したのだろう。
だが駿府も静岡もたびたび大火に見舞われ、第2次大戦では戦火にあい焼野原にされている。してみると
この神社、余りご利益はないようだ。(アッご免なさい)

 共同墓地の愛宕霊園の先は、それこそ寺の団地と行ってもおかしくないくらい寺が密集していた。
太い通りに面し11軒のお寺が建ち並んでいる。普通なら地名は寺町と名付けそうだが、まさか愛宕町か、
慌てて寺の住所を見ると「沓谷」だった。これが愛宕町だったら神仏混淆になるところだ。

 松龍院の隣にある浄祐寺の地蔵堂が、通りに面していたので覗いてみた。正面の台座の上に安置された
地蔵尊は、像全体が赤い布に覆われていて、黒光りした顔だけを見る事とが出来た。その周りには小さな
鉄製のような地蔵が何体も並べられている。
近くに張ってある紙を見ると 「水子とうば供養料 四千円 匿名の方は-----」とある。
ここも今はやりの水子地蔵なのだ。

 
       寺町通りと云いたくなるほどお寺がある                        浄祐寺の地蔵堂

 松龍院の境内の地蔵堂には、新しい子安地蔵尊と、その周りには何体かの地蔵像が祀られていた。
この子安地蔵が百地蔵かどうか分からないが、私は地蔵堂の隣にあった。座像の地蔵像を百地蔵としたい。

 
                    松龍院                           松龍院の地蔵堂
      松龍院の地図

66番目(66番) 新善光寺
 アッ私の参拝順序と百地蔵の札所番号が一致した。何か良い事でもあるかと期待したが、残念!
境内に入っても何も見る物は無く、早々に出てしまった。
通りに出ると隣の寺の三重塔が、やけに立派に見えた。

 
                    新善光寺                          蓮長院の三重塔
      新善光寺の地図

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