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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「宮澤先生を追つて(三)」より

2019-02-24 08:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

 ここでは時系列を考慮して先に「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」の方を先に見てみたい。その内容は大正15年の、下根子桜における賢治のたたずまい等に関わる次のようなものである。
下根子桜の朝の賢治
 「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」
 大正十五年の春、先生は農學校を退いてから、花巻町の南端大櫻というに移りました。…(投稿者略)…春雨が長く續き北上川の水が増して、水音は何んとなくどんよりとした空に響き合ひいひ知れない音を立てゝ流れてゐます。先生はその音をたゞだまつて聽いてゐました。何を聽いてゐたのでしょうか?
 北上川をへだてゝ北上山脈は目の前に展開しています。夏の暑い眞晝むくむくと湧き上がる入道雲を、頭上に押して來る時もだまつて見てゐました。この建物の前の雑木林が赤くなる秋の夕映へもだまつて見てゐました。また裏の杉林を北風が少しの隙を急いで通り過ぎる音もだまつて聽いてゐました。
 かうして四季の景色の變つて行くのを眺めながら、先生は黙々と考へてをられたやうでした。たゞ先生は一番その家に居て嬉しかったのは、四季ともに共通に晴れた朝を北上山脈の頂上から、新しい空を破つて静かにのぼる太陽を見た時です。その時は何をやめてもまばたき一つせず、ぢつと見つめ朗々とした聲を張り上げて法華経を讀上るのでした。静かな朝の新しい空氣に響いて北上川を越へ杉林を渡り流れていくのです。そして初めてここかしこに鶏の聲はあがり、遠く路を行く荷車の音が聞こえて來るのでした。
             <『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 この部分からは、下根子桜での賢治のたたずまいがありありと目に浮かんでくる。下根子桜の別宅に寄寓していた千葉恭は賢治のことをじっくりと観察していたのだろう。
下根子桜での賢治の目的
 引き続き「宮澤先生を追つて(三)」を見てみよう。
 大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的でしたので、台所は裏の杉林の中の小さい掘立て小屋を立て、レンガで爐を切り自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその邊の雑木林の柴を取つて來ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです、私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。…(投稿者略)…
 朝食も詩にあるとほり少々の玄米と野菜と味噌汁で簡単に濟ませ、それから近くの草原や小さい雑木のあつた處を開墾して、せつせつと切り拓き色々の草花や野菜等を栽培しました。私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しましたが、実際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行つて、杉葉を掻き集めては湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡單な食事で土の香を一杯胸に吸ひながら働いたその氣分は何ともたとへやうのない愉快さでした。開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きでなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。先生が大櫻にをられた頃には私は二、三日宿つては家に歸り、また家を手傳つてはまた出かけるといつた風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。
             <『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 この部分からは、私は新たに次の3点を知ることが出来た。
 その一つ目は、一般に賢治が下根子桜で自炊農耕生活しようと思った理由やその目的は今一つはっきりしていないのではなかろうか今まで思っていたが、彼が賢治から聞いていたであろうそれは〝最低生活をするのが目的〟だったということを知ったことである。宜なるかなと思った。たしかに、下根子桜での生活はまさしくそのとおりのようだったからである。
 二つ目は、「私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しました」ということだから、それまで私は下根子桜での開墾は賢治一人でしたものとばかり思っていたが、賢治は彼に手伝ってもらっていたということである。
 三つ目は、千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間の寄寓の仕方が分かったことである。長期間連続して寝食を共にしていたわけではなく、下根子桜の別宅に二、三日泊まっては彼の実家に戻って家の仕事を手伝い、また泊まりに来るという繰り返しであったということのようだ。  
断りの使者
 ところで、賢治は白鳥省吾の訪問を許諾しておきながら千葉恭に断りに行かせたということがあったと聞いていたが、そのことがここでは引き続いて次のように語られている。
 ある年の夏のことでありましたが朝起きると直ぐ
「盛岡に行つて呉れませんか」
私は突然かう言はれて何が何だか判らずにをりますと、先生は静かに
「實は明日詩人の白鳥省吾と犬田卯の二人が訪ねて來ると云ふ手紙を貰っているのだが、私は一應承諾したのだが―今日急に會ふのをやめることにしたから盛岡まで行って斷はつて來て貰ひたいのです」
そこで私は午後四時の列車に乗つて盛岡に出かけることにしました。車中で出る前に聽いた先生の言葉が、何んだかはつきり分からずに考へ直してみたのでした。
…(投稿者略)…控室に案内されて詩人達に會はして貰ひました。そして「私は宮澤賢治にたのまれて來た者ですが、實は先日手紙でお會ひすることにしていたのださうですが、今朝になつて會ひたくない―斷つて來て下さいと云はれて來ました。」田舎ものゝ私は率直にかう申し上げましたところ白鳥さんはちよつと驚いたやうな顔をしましたが、しばらくして、「さうですか、それは本當におしいことですが、仕方ありません―」
   …(投稿者略)…
「濟みませんが先生が私達に會はないわけを聞かして下さい」
私はちよつと當惑しましたが、私の知つていることだけもと思ひまして
「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから先生の今の態度は農民のために非常に苦勞しておられますから―」
私はあまり話せる方でもないのでさう云ふ質問は殊に苦手でしたし、また宿錢も持つてゐないので、歸りを忙ぐことにしたのでした。盛岡を終列車に乗って歸り、先生にそのことを報告しました。私は弟子ともつかず、小使ともつかず先生に接して來ましたが、詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しそうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
              <『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 さてこの断りの使者としての千葉恭の心境は如何ばかりだったであろうか。一旦会うことを約束していたのに、「急に會ふのをやめることにしたから」と約束していた前日に賢治から言われて、その旨を断りに行くのが千葉恭であれば気が進まなかったのは当然であったであろう。その心理が「小使ともつかず先生に接して來ました」という表現をさせているに違いない。
賢治と千葉恭の共同生活期間
 ここまで千葉恭のことを調べて来てすっきりしないことの一つに、千葉恭は下根子桜の別宅で賢治と一緒に生活していた期間等を明らかにしていないということがある。穀物検査所で賢治と初め出会った月日とか、初めて豊沢町の賢治の家を訪れた月日ははっきり判るのに、である。千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していたのはこの年(大正15年)の前半の半年らしいが、一体いつ頃からいつ頃までは寄寓していたのだろうか。前述のとおり「春雨が長く續いたために増水した北上川の流れの音を賢治はたゞだまつて聽いてゐました」と千葉恭が述べていることから、この頃既に彼は下根子桜の別宅にもう寝泊まりしていたと考えて良いのだろうか。
 そこでとりあえずここままで探ってきた事柄から次のようなことが言えるのではなかろうか。
・千葉恭は大正15年7月25日の朝起きると直ぐに断りの使いを頼まれ、その夕方盛岡に来ていた白鳥省吾に断りに行った。そして下根子桜に帰ったのがその日の深夜と考えられるから、これは彼が賢治と一緒に暮らしていた時期の出来事と見なして間違いなかろう。
・更に、前述のように大正15年、春の長雨で増水した北上川の流れ、真夏の入道雲そして雑木林が赤くなる秋の夕映えの下根子の様子を詳らかに述べているから、少なくともこの期間つまり大正15年の春から晩秋の間は、千葉恭は下根子桜に寝泊まりしていたと考えらる。
 一方で『イーハトーヴォ復刊5号』でも触れたように、千葉恭自身が「私が煮炊きをし約半年生活をともにした」と言っているのだから、このことも合わせ考えれば、
   千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間は大正15年の 春からの半年間である。 
ということがとりあえず言えそうだ。

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