みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「宮澤先生を追つて(二)」より

2019-02-24 12:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

 では今度は前に戻って「宮澤先生を追ひて(二)」の方を見てみたい。次のようなことが述べられている。
千葉恭の帰農と研郷會
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
 家に歸ることについては先生は非常に喜んでくれました。家には年寄ばかりで朝から晩までせつせつと働き續けるのを見てはぢつとしてはゐられなくなり、私は元氣を出して働き出したのです。田舎の朝の空氣一番先に胸一杯吸ふのはやつぱり百姓だ!私もその百姓として先生の教へを乞ひつゝ働きつゞけて美しい農民の生活に入つて行こうと決心したのです。鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。…(略)…
 村で農學校を卒業して働いてゐる青年は三十二名もありましたので、稲作も濟んだある夜役場に集まつて、何とか農村日本の美風を保つて行きたいと相談しました。その結果先づ農村は味氣なく殺風景だから、文化による向上で農民の土に親しむ道を講じ、それと共に農會の機能を活發に活動するやう促進させることであると、各人担當研究員として組織し農會を盛り立てゝ行くことゝしました。そして實地農業技術の透徹であり、農業経営の理想化と自然に親しむ芽生えの昂揚であることを強調しました。それでこれを組織化する必要に迫られ、研郷會と云ふ名稱の下に組織して水稲関係は水稲の担任者の意見、副業関係は副業担任者意見によつて、農民の働く力を増進させること、それと共に一方靑年によつて農民劇を、子供には童話會を開催して文化により土に親しみ土地を去る心をおさへることに腐心しました。
    研郷會規則
一、この會は農村の隆盛と技術の向上により理想化し親しみのある農民の集合である。
二、この會は研郷會として事務所を會長宅に置く。
三、この會は事業の遂行のために左のことを行ふ。
 1.各種目の研究を担當する
 2.研究會・座談會・普及會・農民劇・童話會・農事視察・農事調査を開始する
 3.その他必要なる事項
四、この會には農民の誰もが入りうる。
五、この會の事業は奉仕的にやり役員を必要とする。
 1.会長 一名 2.専任役員 四名 3.研究員 三十名 4.修養員 十名 5.幹事 若干名
六、この會は互いに随時集まり必要なる問題につき研究討議するものとす。
七、この會は理想農村の完遂までつゞくること。…(略)…
 かうした方法で色々の問題が解決して行き、靑年の離村も苦い顔もなくなり、水稲其他の収穫等も多くなり模範村となつたことだけは記して置きます。
           <『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
 さて、千葉恭が述べているこの回想に関して次の二つのことをここでは述べてみたい。
〝一ヶ年の親交〟とは?
 その一つ目は、「親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました」の部分の解釈に関してである。これに続けて「昭和四年の夏…とうとう役所を去ることになりました」と千葉恭は語っているわけだから、素直にこれを受け止めれば彼が役所を去ったのは昭和4年の夏ということになろう。とすればこの、〝一ヶ年の親交〟の〝一ヶ年〟とは〝昭和3年の夏~昭和4年の夏の一ヶ年〟ということになるはず。
 ところが、賢治は昭和3年の8月初旬には発病してそれ以降は豊沢町の実家に戻っているはずだから下根子桜には居らず、この期間を〝親交の一ヶ年〟という表現をする訳にはいかない。この〝昭和四年〟は明らかにおかしいことになる。
 では次に、〝親交の一ヶ年〟を〝昭和四年の夏〟と切り離して、〝親交の一ヶ年〟の部分だけに焦点を当てて考えてみることにしよう。〝親交の〟といえば直ぐに思いつくのは彼が賢治と一緒に暮らしていたと考えられる大正15年の二人の関係である。ところが、彼自身はその期間を約半年と言っているから大正15年頃の一ヶ年も〝親交の一ヶ年〟とは考えにくい。
 すると、〝親交の一ヶ年〟とは一体いつの期間のことなのだろうか。そしてどのような〝親交〟だったのだろうか。はたまた、役所を辞した時期はそもそもいつで、それと〝親交の一ヶ年〟どんな関係があったのだろうか…。理解に苦しむところである。このことは今後の大きな課題の一つとして残る。
『研郷會』を組織
 述べたいことの二つ目は千葉恭が『研郷會』なるものを組織したことである。松田甚次郎と同じ様に彼もまた地元に戻って帰農した、盛町の実家に戻って農業に専心したということになる。さらには、水沢農學校を卒業して働いている地元の青年32名を誘って『研郷會』を組織し、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと腐心したことになる。千葉恭は松田甚次郎同様まさしく「賢治精神」を実践しようとしたのだと、私には二人がダブって見えて来るのだった。
 もしここに書いてあるとおりに千葉恭が実践したのであればそれは誰にも出来るものではない。松田甚次郎の『最上共働村塾』と同様、規約を設けた組織を設立し、農業技術や農村生活の改善・向上、農村文化の振興などに努めたことになる。もちろん農民劇や童話会も企画していたようだ。さらにはこの様な実践活動により実際それ相応の成果を上げたようだから、私はそのことに敬意を表したい。わけても、そのことにより村の青年が離村することのない未来ある農村になったといえるような実績を上げたということに、千葉恭もなかなかやるじゃないかと今さらながらエールを送りたくなる。

帰農後の千葉恭と賢治
「宮澤先生を追つて(二)」は続けて次のように述べている。
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。…(略)…そして農民の最低生活を基準に農村を研究し指導しなければならないと、強調されて私にも時々聞かされました。「今迄の農民又は其他の問題でも指導する指導者が間違つてゐた。農民の生活には巾があり、その中間平均を指導の基準として、最低生活者を指導し又最高生活者を指導するのも同じだ。眞劍に指導せんとするには總ての最低生活者を基準として指導すべきである。そして早く進めみんなと近づけて行き、一人ひとりの幸福を滿してはじめて世界の幸福がひらけるのだ!」<*1>私にはこの言葉こそ未だに忘れ得ぬものとして胸に烙印となつてゐます。…(略)…私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。…(略)…
           <『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
 ここでは千葉恭帰農後の、賢治との付き合い方を千葉恭は語っている。下根子桜の寄寓を解消して実家に戻ってしまった彼ではあるが、その後も時々下根子桜にやって来ては賢治の指導を受けていたということになる。
<*1>もし賢治がこのとおりに言っていたとすると、それは農民芸術概論綱要の序論で『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』と高らかに宣言した内容とは全く逆になる。

盛町から花巻への来訪
 それにしても千葉恭は頑張るよなと私はつくづく思ってしまう。千葉恭は大船渡の盛町出身であると佐藤成氏は言っているが、その盛町から花巻まで時々訪ねて来るということは生易しいことではない。盛町から直線距離でも60㎞以上は優にある花巻下根子桜の賢治の許まで、交通の便が悪かった当時に度々訪ねて来ていたということになるからだ。
 では、具体的にはどのような経路と方法で千葉恭は盛町から花巻へ通ったのだろうか。ちょっとシミュレートしてみたい。彼が通ったのは昭和初期と考えられるから、たまたま手許にあった昭和10年12月1日時点での『岩手縣内自動車便』を見てみると、そこには
・盛→遠野については 盛発6:30、7:30(所要時間2時間30分)
・遠野→盛については 遠野発12:30、14:30(所要時間1時間50分)
            <『昭和10年版岩手縣全図』、和楽路屋>
と記載されていた。その他には便利で使えそうな交通手段はなさそうだから、当時千葉恭はこの自動車便を使って遠野~盛間を往き来し、おそらく遠野からは、遠野~花巻間は軽便鉄道にでも乗ったのだろう。いずれ当時にすれば大船渡盛町~花巻下根子桜間は所要時間もかなり要したであろうからそう簡単に往き来出来る訳ではない。にもかかわらず千葉恭が「農業に従事する一方時々先生をお訪ねし」たということは、「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展に掛ける彼の意気込み、そして彼と賢治の親密な師弟関係をそこから読み取れるのではなかろうか。
なぜ語られぬ千葉恭のこと
 なお、こうなるとますます気になることがある。千葉恭は約半年間賢治と一緒に生活し、彼が穀物検査所を辞めてからも時々こうやって下根子桜に来訪していたことになる。そしてその場合の彼は盛町~花巻間を一日のうちに往復はしなかったはず。というのは前述したバスの所要時間等を考えれば明らかで、時間的に無理だったろうし、その上「夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ」と証言しているのだから、この当時も時々彼は下根子桜に泊まったはずである。
 したがっておそらく、下根子桜の別宅に集った人達はこの熱心な賢治の弟子、約半年間寝食を共にしその後も時々盛町からはるばる訪ねてやって来る弟子の千葉恭のことは良く知っていたはずだし、一目置いていたに違いない。なのに何故なのだろうか、彼等は千葉恭のことを公には一切語っていないようだ。なぜかくも千葉恭のことが語られていないのだろうかということがますます気になるのである(なお、このことについては、後に千葉恭は大船渡の「盛町」出身ではなくて、水沢の出身だったことが明らかになることによって解消する)。

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