みちのくの山野草

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『村塾建設の記』の出版

2019-02-24 10:00:00 | 甚次郎と賢治
《『土に叫ぶ人 松田甚次郎 ~宮沢賢治を生きる~』花巻公演(平成31年1月27日)リーフレット》

 さて、前回の最後に、その後の松田甚次郎の仕事ぶりを年譜から拾ってみると、
昭和16年1月    『村塾建設の記』出版
昭和16年3月    「新しき生活の建設」山形放送局より全国放送
昭和16年8月    農村演劇講座開催
昭和16年9月28日  共働村塾10周年記念式挙行  
昭和17年3月    『野に起て』出版
昭和17年12月15日 『続・土に叫ぶ』出版
            <『「賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)の年譜より>
となった。
 そこで今回は、昭和16年1月1日に「実業之日本社」から出版された『村塾建設の記』について少し報告したい。
【Fig.1『村塾建設の記』】

 その中身は、
村塾の再建まで
起ち上がる力
銃後と農村
野に伏して
の四章で構成されている。
 興味を惹くのは「起ち上がる力」であり、その中には、
    一、宮澤先生の墓に詣でて

    四、宮澤先生の近況
という節があった。
 前者「一、宮澤先生の墓に詣でて」については、先に〝新国劇で上演、大当たり〟において、「(昭和13年)十一月十三日夜行列車で山形から花巻に向かい、黎明の六時半に花巻駅に着いた」と述べており云々」というように少し触れたが、もう少し詳しく紹介すると以下のようなものである。
 一、宮澤先生の墓に詣でて
 穫入れも一段落をつげて忙しい春から夏、夏から秋と待ちに待つた私の恩師宮澤先生の墓參りの日は一昨年十一月十三日に、たうとう惠まれて秋雨に打たれて冬圍ひ冷たい手を暖めて時を惜しんで夜行列車に身を託したのであつた。山形より佐藤同信と同行し…十年振りの南部の鄕に訪れたのは黎明の六時半で二十數名の同人に迎へられて花巻驛に不眠のままに安着したのであつた。…(投稿者略)…
 羅須人協會たりし萱ぶきの先生の小屋はもう姿なく、一目に北上川の清流が靜かに旭光に輝いて流れ往く。何といふ淋しさ、十年振りで訪れた今日先生も居らない住居も見えない。只丈餘の石碑が小松林の間に、北上川に向いて、ここは陸中の國、松の林の野原であるというて建つて居る。
 …(投稿者略)…
 一同宮澤先生の実弟清六氏の司會にて、私は一歩進んで、今は亡き先生の碑前にて拙著『土に叫ぶ』の報告をなし、靜かにお祈りと参拝合掌をなし向後生涯末代迄先生の大教訓を遵守することを誓つて一同と共に焼香したのである。
 …(投稿者略)…
 午後は私を圍んでの座談會七十餘名の一般であるが、學校の教員、農村靑年、町の有力者宮澤先生の教師、花巻農學校の卒業生、花巻町の人々も見えられて中々盛會であつた。宮澤先生の話は澤山出たが私に訊ねられたことから述べるが、宮澤先生を知つた動機はといふから、岩手日報で知つたと答へたら二三の弟子達は我々は何年も弟子にして何も成さずで申譯ないと私を通じて先生に詫びて居つた。私は此の十餘年一日だつて忘れたことはないそれに『眞理』に童話が掲載され、童話硏究の誌や『婦人の友』まで掲げられるとたまらない心に打たれてゐると語つたのである。…(投稿者略)…
 十一月十四日…有名な六原靑年道場を見學し更に盛岡の母校を訪ね、母校の学生四百と先生方に私の十二年と宮澤先生について三時間語り…(投稿者略)…
 十一月十五日…(投稿者略)…石川啄木の碑に參つた。…(投稿者略)…
 嚴かに岩手山を仰ぎ北上川を啄木は左岸より宮澤氏は右岸より眺め、日本の藝術界に大きな永遠の流れを示したとは、何といふ意味深いことであらうか。冷害や津波で稗を食ふことに依つてのみ知られる岩手南部の國こそ、日本が新しく生んだ天才と行者、今その宗教と藝術と科學が新しい日本を導く大きな力となつて居ることを深く知らねばなるまいと思ふのである。
 宮澤先生逝いて六年、弟子として何をしたか何をしてるかをいつも反省して行かねばなるまい、そして先生が幾億の天才の上に大きく咲き生えられる樣に念ずるものである。
 先生のいはれた
 世界(ママ)全體幸福にならないうちに(ママ)は個人の幸福はあり得ない
                      ――農民藝術論――
 さうだ日本の聖戰はそこにあるのだ。今我が國民は絶対に信じ、絶対に實現せねばならない今事變の戰鬪に必勝すること自身は右の言葉に綴られるのではあるまいか、我等同信の精進は又右の言葉に納まるのではないだらうか。
            <『村塾建設の記』(松田甚次郎著、実業之日本社)103p~>
 実は、甚次郎については「時流にのり、国策におもねた」とか「戦争協力者となった」などと誹る人もいるという。それは例えば、この文章の最後の部分、
世界全体幸福にならないうちには個人の幸福はあり得ない――農民芸術論――さうだ日本の聖戦はそこにあるのだ。今我が国民は絶対に信じ、絶対に実現せねばならない今事変の戦闘に必勝すること自身は右の言葉に綴られるのではあるまいか、我等同信の精進は又右の言葉に納まるのではないだらうか。
などを読んだ人達が、そうしたのであろうか。
 そしてまた、そのようなことがより懸念されるのが例えばこの「銃後と農村」であろうか。というのは、この章「銃後と農村」の中には、
一、銃後と農村
五、戰時農村を往く
六、生産戰線を語る
八、戰地の兄弟へ
というような項目、つまり「時流にのり、国策におもねた」と受け取られかねないような項目があるからである。

 しかしこの当時は、例えば或る人は、
 宮澤先生は、別の文章では、
 「世界に對する大なる祈願をまづ起せ」
と、いはれました。そのためには、
 「つよく、正しく生活せよ、苦難を避けず直進せよ。」
です。何百年としひたげられて來た、大東亞共榮圏の中の、よはい、たくさんの民族を、病氣の子どもや、つかれた母と見ることは、少しもさしつかへないのであります。まことに、
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸はあり得ない。」
のであります。米英が、アジアから去らないうちは、アジアの幸はあり得ないといはれませう。これは、こじつけといふものではありません。えらいひとのことばは、いろいろに考え讀むべきものであります。
というように、子ども向けの本で書いている。
 つまり、このことに関しては次回の〝『續 土に叫ぶ』の出版〟でもう少し具体的に述べるが、あの戦時下では殆どの人々はこのような書き方をしていたのであり、松田甚次郎独りだけがそうだったわけではない。
 
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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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