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おわりに(テキスト形式)

2024-03-20 16:00:00 | 賢治渉猟
おわりに

最後に述べたいことが二つある。
 今から一年前の平成27年3月、ある大学の卒業式で学部長の石井洋二郎氏は次のようなことを式辞の中で述べ、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
と危惧し、それを防ぐために、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
<「東京大学大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞(東京大学教養学部長石井洋二郎)より>
と警鐘を鳴らし、卒業生に訓辞を述べたという。
 翻って、本書の「はじめに」で紹介したように、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味の恩師岩田純蔵教授(賢治の甥)の「嘆き」が、私をして退職後今まで約九年の間少しく賢治のことを調べさせた主な理由である。そして、実際に賢治のことを調べれば調べる程その検証結果は巷間云われている賢治の「通説」とは異なるもの、果ては真逆なもの少なからずあるということを知って驚いた。また同時に、賢治にまつわる知られざる真実や誤認等のいくつかも明らかにできたと思っている。まさにそれらが「おいそれとは喋られなくなってしまった」具体事例なのだと腑に落ちたところでもある(これで恩師に幾ばくかの恩返しができたと今私は安堵してはいる)。
 さりながら、かつての私の賢治像がどのようして出来上がったかというと、それは「通説」を少しも疑わずに素直に信じてきたことによるから、正直一時期は、裏切られたという思いを禁じ得なかった。だからもちろん、このような嫌な思いをするのは私だけで十分であり、そのような思いを未来あるこれからの若者たちにはもう味あわせたくはない。
 しかし現実には、石井氏が危惧しているような状況が「賢治研究」においてもあるような気がしないでもない。そこでもしそれが実態であるとするならば、私たちは石井氏の訓辞を対岸の火事と思っていてはならないし、解決すべき喫緊の課題があるということになる。はたして現状はどうであろうかと問いかけたい。これがその一つ目である。
 二つ目は次のことである。ある座談会で吉本隆明が、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。<『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)18p >
と語っていた。そして同じようなことを、羅須地人協会の隣人で会員でもあった伊藤忠一が、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全くたいしたもんだと思う。       <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p >
と言い残している。
 しかも当の賢治自身も、伊藤に宛てた書簡(258)の中で、
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡 本文篇』(筑摩書房)>
と「羅須地人協会時代」のことを伊藤に詫びている。
 したがって、賢治を含むこの三人の「羅須地人協会」の活動に対しての評価はほぼ一致していると言えるのだから、この賢治の心情の吐露に私たちはもっと素直に耳を傾け、冷静に評価すべきだと思う。つまり、賢治が「羅須地人協会時代」に実践したことはそれ程のものではなかった、という事実を私たちはそろそろ受け容れてもいいのではなかろうか。吉本や伊藤が言っているように賢治の魅力はそんなところにあるのではないからであり、私もつくづくそう思い知らされたからである。
 そこで、賢治が亡くなって80年以上も過ぎたことでもあり、もうそろそろ《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》移るべき時機だと言いたい。さもないと、「創られた偽りの宮澤賢治像」が未来永劫「宮澤賢治」になってしまいかねない。
 これでやっと、私はここまでなんとか辿り着けたので自分の気持ちが整理でき、真実の賢治は身近で愛すべき人間だったのだと心底思えるようになったし、賢治の作品の多くがやはり素晴らしいものだったと改めて確信できた。そしてもちろん、創られた虚像の賢治よりはこのような真実の賢治の方が遥かに私にとっては魅力的だし、未来ある若者たちにとってはなおさらにであろう。
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 最後になりましたが、本書の出版に際しましてご指導やご助言、そしてご協力を賜りました阿部千鶴子氏、阿部弥之氏、石川博久氏、伊藤博美氏、入沢康夫氏、岩手県立図書館様、岩手日報社様、大内秀明氏、加藤藍氏、菊池忠二氏、桜地人館様、signaless5氏、社会福祉法人 二葉保育園様、新庄ふるさと歴史センター様、鈴木修氏、鈴木友氏、高橋輝夫氏、故千葉嘉彦氏、tsumekusa氏、遠野市立博物館様、宮沢賢治記念館様、宮手敏雄氏、望月善次氏、盛岡地方気象台様の皆様方には深く感謝し、厚く御礼申し上げます。
 平成28年3月3日(松田甚次郎誕生日)
鈴木 守
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