みちのくの山野草

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第三章 伊藤ちゑと高瀬露(テキスト形式)

2024-03-20 14:00:00 | 賢治渉猟
第三章 伊藤ちゑと高瀬露
 
 まずは、『宮沢記念館通信第112号』に載せてもらった拙論「伊藤ちゑからみた賢治」を以下に転載する。

 「伊藤ちゑから見た賢治」
 意外なことに、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)の中には次のようなことが述べられている。
 それは、伊藤ちゑと宮澤賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対してちゑは、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とか、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
という哀願や批難を森宛書簡の中に書いてあるということが、である。
 しかもそれだけではなく、まだあまり広く世に知られてはいないのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中においても、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋(〈注十七〉)花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
というように、ちゑは嘉藤治に対しても似た様な懇願をしている。
 したがってこれらのことから、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということがもはや否定できない。巷間、賢治が結婚したかった〈聖女〉ちゑと云われているというのに何故だったのだろうか。
 実は、当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながらそれらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていた。ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。
 そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに『同園八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
 そして、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、同島の新聞『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
 あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していたちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があるという。
 ところで、昭和3年6月の大島訪問以前に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったわけだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知なかったことによる誤解だった。
 なぜなら、このような『二葉保育園』でスラム街の子女のためのセツルメント活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという心優しい〈聖女〉の如きちゑからは、当時の賢治がどのように見えたかということを推考してみれば、その一つの可能性が浮かび上がってくるからである。
 すなわち、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、そう捉えるとあくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。
 例えば、そのような心身の状態にあった賢治と大島で再会したちゑは賢治の「今」を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたと。ちなみに、そのようなちゑの認識の一つの現れが、先に述べたきつい一言であったと考えられる。
 またそれゆえに、先の森宛書簡に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」とちゑは書き記したと解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、とも。
 そして、もしこのような解釈の仕方が実はその真相であったと仮にしても、それは《創られた賢治から愛すべき真実の賢治》により近づくことであり、何ら悲しむべきことではないと私は思う。

〈注十七:本文92p〉伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が最近一人歩きしつつあるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。
*****************************************************
 以上が、平成27年3月31日発行『宮沢賢治記念館通信第112号』に載ったものである(一部変更あり)。
 思考実験「悪女にされた切っ掛け」
 その後、私は賢治研究家B氏から、
 伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった。
と宮澤清六が直接B氏に証言したということを教えてもらった(平成27年9月20日、花巻F館にて)ので、これと先のちゑの藤原嘉藤治宛書簡の記述とを併せて考えれば、
 伊藤兄妹が賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ断定できるだろう。そしてそれは奇しくも、
(賢治先生から)昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p >
と高瀬露が遠野時代の同僚に証言しているが、その「下根子桜」訪問を遠慮し出した直後のことであったということになる。
 したがって、この見合いの時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持つ。それは蓋然性の高いあることに気付かせてくれたからだ。
 さて、先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだが、賢治研究家M氏から過日、
 露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうね。
と問われた。
 たしかに、拙論で検証したみたところでは、露が〈悪女〉であるという客観的な根拠は何一つ見つからないから彼女は巷間言われているような悪女では決してなく、それどころかどちらかといえば聖女の如き人だったということを同拙論で実証できたものの、現実には巷間そうされていているわけだからその「理由」は必ずあるはずだ。しかし私はそれは見出せていなかったので、その問いに対して、
   その点に関してはわかりませんでした。
とお答えするしかなかった。
 実際、この点に関しては誰一人として公には言及していないはずだ。そして実は私もそこに踏み入るつもりはそれまではあまりなかった。露が巷間言われているような〈悪女〉でないということは、ある程度賢治と露のことを識ってしまえば常識的に明らかなことだったからそれを仮説として、その検証をし、できれば実証したいという一心だったからだ。
 しかしそれをやり遂げた今、その「理由」を賢治研究家から問われて無責任だったかなと反省してみた。少なくとも拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上は、その点に関しての私見を一つぐらいは持っておくべきかなと考え直して、あれこれ考えてみた。
 そんな時にたまたま教えてもらったのが上述の清六の証言だが、そのことを知ってあることに気付かせてもらった。それは、先に引用したように、
 露が「下根子桜」に賢治を訪ねていたのは昭和2年の夏までであった。
ということと、
 伊藤ちゑが賢治との見合いのために花巻を訪れたのはほぼ昭和2年10月であると言える。
ということの時間的な推移から示唆されることである。
 ***************************************************
 では、ここからは思考実験に切り替える。
 巷間、賢治は高瀬露を拒絶するために幾つかの奇矯な言動をしていたと云われている。しかも、昭和2年10月に見合いのためにちゑが花巻を訪れたとなれば、それ以前に見合いの話は既に進んでいたと考えられる。すると、この時間的な流れはあまりにもタイミングが合いすぎているので、普通に考えて、
 昭和2年の夏頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていたのだが、賢治はちゑとの見合い話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するためにそのような奇矯な言動をするようになった。
ということの蓋然性が高い。
 ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
 大島では、肺病む伊藤七雄氏のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかつた。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)>
というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
   私は(伊藤ちゑさんと)結婚するかも知れません――
とほのめかし、ちゑのことを
 ずつと前に私と話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)104p~>
と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを当時真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていたと言えそうだ。
 ちょうどその頃のちゑは、二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていて、まるで聖女の如き女性であり、しかもモダーンでかなりの美人でもあったということだから、東京に住むそのようなちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もないとも考えられる。
 しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合いのために花巻に一度は行ったものの(〈注十八〉)、この章の始めの「伊藤ちゑから見た賢治」で明らかにしたように、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になってやっと初めて覚ったと考えられる(まさに昭和6年10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒)。
 とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対するその背信行為等を恥じ、昭和7年に露に詫びに行ったようで、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』という意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという。このことについては、露の遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人K氏から教わった(平成26年7月14日、遠野市)ことであり、彼は、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると語っていた。(これらの詳細については拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい)。
 またもちろん、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったとしても、賢治は露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共になかろう。それは、賢治は露とは少なくともある一定期間オープンでとてもよい関係にあったし、なにしろ賢治は露からいろいろと世話になっていたからである。だからそうではなくて、賢治周辺の誰かが、賢治のために良かれと思って露を〈悪女〉に仕立てたのだろうが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を傷つけ人格を貶めてしまったという、到底許されざる行為があったということなのだろう。
 おそらくその「誰か」が、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像にはそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。
 あるいは、父政次郎からも厳しく叱責されたという賢治のその幾つかの奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない〈悪女〉に仕立てるしかなかったのである。だから、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で露は犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪だ。
 ***************************************************
 以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的な理由も根拠もないままになぜ露がとんでもない〈悪女〉にされたのかの切っ掛けの説明がつく。言い換えれば、有力な次のような仮説〝○☆〟がここに立てられる。
 高瀬露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」は伊藤ちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。……○☆
 とはいえ、この仮説の実証は容易ではない。このことを裏付けてくれそうな証言も資料もまず思い付かないからだ。ただし一つだけその方法論として私が思い付くのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとかたって『校本全集第14巻』が公にした、一連の「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」があるが、これに対応する「賢治宛の露からの来簡」が実在しているというのであればそれを用いる方法である。
 ところで、同巻はその「新発見」の際に、
 本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
と34pで述べているが、残念ながらそこにはその根拠も理由も明示されていないから私だけのみならず、一般読者(〈注十九〉)にとっても全く判然としていない。さりながら、それらが全くなくてそう嘯いて活字にするようなことを『校本全集』がするわけがないはずだから、そこには何らかの典拠があってのこと。
 というのは以前、賢治が「下根子桜」で一緒に暮らした千葉恭に関するあることについて、どうして「賢治年譜」にその記載がないのかと私が関係者に訊ねたところ、『それは一人の証言しかないからです』という回答だったし、それはもちろん尤もなことだ。そこでこの回答の論理に従えば、当然、「書簡下書」だけで判然としているなどと言えるはずがない。
 すると私に考えられることは唯一、前述したような「賢治宛の露からの来簡」が存在していて、その「内容」に基づいて同巻は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したということである。
 もしそうであったとしたならば、先の仮説〝○☆〟の検証のためのみならず、こちらの「判然としている」の根拠という観点からも「賢治宛の露からの来簡」の果たす役割は大きいと言える。となればその存在や如何?

〈注十八:本文95p〉森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御樣子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つ御存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
〈注十九:本文97p〉これは私のみならず、次のような方の指摘もある。
 例えば、 Web上でtsumekusa氏が管理されているブログ〝「猫の事務所」調査書〟の平成20年11月16日付「「手紙下書き」に対する疑問」において、次のような疑問が呈されている。
 …この下書きは文中に相手の名前もなく、内容を読んでみれば相手は女性であるらしいことは判りますが、 誰に宛てて書いていたのか全く判りません。
 そんな下書きが「高瀬露宛て」とまで断定できる理由は何なのでしょうか。
1.「特別な愛」「この十年恋愛らしい……」
  「独身主義をおやめに……」等恋愛や結婚に関する話が出てくるから
2.「慶吾さん(引用者注・高橋慶吾氏のこと)にきいてごらんなさい」という一文があるから(252系下書きその1)
3.「「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。」という一文があるから(252c)
 考えてもこれだけしか理由が挙がってきません。これだけの理由で高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
     …(筆者略)…
 この下書きを「高瀬露宛て」と断定したのは上記理由のみなのか、それとも他に「高瀬露宛て」とできる決め手となった理由があったのか、そういったことを今からでもきちんと公表して頂きたいと思います。
 あるいは、signaless5氏が管理されているブログ〝りんご通信〟の平成21年8月25日 付「書簡 252a,b,c について」においては、
『新校本宮澤賢治全集・第14巻』掲載の書簡252a,252b,252c は、【あて名不明】の下書きであり、昭和52年発行の校本によって初めて高瀬露宛てと判断されたものです。
 252aには他に5点,252cには他に15点の比較的短い下書き群があり本文とされたものと合わせると計22点にも及びます。
 しかし、私はこれらの下書きが、「高瀬露あて」と断定されていることに大いに疑問を持っています。
 新校本に於いてもこれらは、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と書かれているだけでその根拠はひとつも述べられてはいません。
と指摘している。つまりこのお二方とも、「判然」などしておらず、その根拠も明らかでないと断じている。

 賢治宛来簡が実は存在している
 私には、賢治に関して以前からずっと疑問に思っていたことの最たるものの一つとして次のことがある。
 それは、賢治の書簡は下書、いわば反古までもが残っていて公にされているというのに、来簡が一切公になっていないというアンフェアな状態にあるということだ。そしてこの状態は、往簡だけで、場合によってはその下書だけで賢治に関わることを一方的に解釈してしまうことを招きがちだから、それでは正しく物事を理解できていないことが当然危惧されるから好ましい状態ではない。
 にもかかわらず、「賢治宛来簡が一切ない」という現状が近々解消されるという話も聞かない。そしてそもそも、今までにこのことが真剣に公的に論議されたことがあったのだろうか。管見故か、私はせいぜい次のようなことしか知らない。
S 賢治あての手紙が残されているとすれば、来簡集のようなものを編みたいのですが…。
T それはあるらしいですね。なかば公然の秘密みたいな囁かれ方をしていますが。
I よくわかりませんけど、実際問題としては、公にすることを聞いたことは一度もないです。
<『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)185p>
 とはいえ、これでは始めからこの件に関しては逃げ腰であるとしか私の眼には映らない。ただし、このやりとりからは逆に、賢治宛来簡がないわけではなさそうだということだけは窺える。
 一方このことに関連しては、北条常久著『詩友 国境を越えて』の中に次のようなことが述べられている。それは昭和8年9月26日、宮澤賢治の初七日に合せて花巻に向かった草野心平が、夕刻花巻に着きその足で宮澤商会を訪れ、そこで賢治の遺品と遺作に対面した時のことに関してであり、
 蓄音機やレコードはもちろん、山登りの道具、採取した岩石も整理、保管されていた。…(筆者略)…
 そこには、心平に出されるはずであった手紙やハガキの反故が十枚ほどあった。
 心平への宛名だけの封筒、心平宛のハガキで一行だけのもの、このように書き損じも捨てずに保存されている。
 賢治自身が、それらを捨てなかったのはもちろんであるが、誰かがそれらを丁寧に保存していたことは確かである。次第に分かってきたが、この見事な保存と整理は弟清六によっておこなわれているのである。
 心平が初七日に来るというので、清六が、心平の反古を取り出しておいたのである。
 賢治が反古にした手紙は山ほどあるはずで、その中から草野心平への反古の手紙をより分けておくことが短期間でできるのは、日頃から保存と整理が日常化していたからに違いない。
<『詩友 国境を越えて』(北条常久著、風濤社)204p>
ということである。そうすると、宮澤家宛(父政次郎宛や弟清六宛等)の賢治書簡が残っていてしかもそれらは公になっているのだから、この北条氏の記述とを併せて常識的に考えれば、賢治宛来簡も少なくとも何通かは大切に保管・整理されているとやはり思いたくもなる。
 それからこのことに関連してもう一つ述べておきたいことがある。実は、あの『生徒諸君に寄せる』がはじめて公表されたのは昭和21年4月号の「朝日評論」上にてであることが『校本全集第六巻』で述べられていて、「朝日評論」編集部の解説文には、その発見の経緯等が、
 故宮沢賢治作〝生徒諸君に寄せる〟の詩一篇は、岩手県稗貫郡花巻町の故人の生家に住んで、その作品の整理紹介に畢生を献げてゐる令弟清六氏の手によつてこのほど空爆で罹災した書類のなかから発見されたものである。草稿は故人が晩年、技師として招聘された東北砕石工場との往復書簡の堆積の底から発見されたバラバラのノートの頁何枚かの裏表に、赤インクで書かれてゐる。用紙、筆蹟などから見て一九二七年(昭和二年)の作品らしく、作品番号一〇九〇前後のものと推定される。
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)785p>
と紹介されているからである。
 つまり、昭和20年8月10日の空爆による火災で賢治の生家が焼けてしまった後にも「東北採石工場との往復書簡の堆積」が存在していたことになる。ということは、「東北採石工場からの賢治宛来簡」が存在していたということだから、他の人たちからの賢治宛来簡が残っている可能性もありそうだ。そこで、機会があれば当事者に直接このことを問うてみたい、と思っていた。
 そこへ持ってきて、前述したように「賢治宛の露からの来簡」が露に関する懸案事項を解決する可能性があるということを知ったのでなおさらにそう思うようになっていた。
 その矢先、「念ずれば通ず」という諺がピッタリで、私は盛岡のとある会合で宮澤賢治の血縁のC氏と同席できた(平成27年10月11日)のである。私は小心者であるが、一世一代の勇気を振り絞ってずばりお願いをした。
 賢治の出した手紙はお父さん(政次郎)宛を含め、下書まで公になっているのに、賢治に来た書簡は一切公になっていない。賢治研究の発展のために、しかも来年は賢治生誕120年でもあり、そろそろ公にしていただきい。
と。するとC氏からは、
 来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
という意味のご返事を頂けた。
 したがって、やはり、
   賢治宛来簡はないわけではなかった。今でもある。
ということがこれで100%確かなものとなったと言ってよいだろう。
‡‡‡‡‡‡‡ 
 そこで筑摩書房及び関係者に次のことをお願いしたい。
 現存している「賢治宛来簡」を全て公にしてほしい。
と。それは、『校本全集第14巻』が、
 本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としている
として「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」を、「新発見」と銘打って活字にしたわけだが、一般読者にとては全く判然としておらず、そのモヤモヤを解消できる有力な方途となり得るからである(言い方を換えればそれは筑摩書房の社会的な責務であろう)。そしてまた、前述したように仮説〝○☆〟を裏付ける可能性があるからである。
 聞くところによると、現在『宮沢賢治記念館』が所蔵している賢治書簡の本物は、それこそ賢治が柳原昌悦に宛てたいわゆる「最後の手紙」が唯一だという。だからなおさらに、
 本年の賢治生誕120年のイベントの際に、この柳原に宛てた最後の書簡と、それに対応する柳原からの賢治宛来簡を「往復書簡」のセットで展示公開していただきたい。
ということを私はまず懇願したい。
 もしこのようなことが生誕120年を機に実現できたとするなばどれだけ素晴らしいことだろうか。考えただけでも胸がわくわくする。そしてその後は、所蔵している賢治宛来簡を随時公表していってほしい。そうすれば、賢治研究の飛躍的な大発展をもたらすことは火を見るより明らかである。私はそれを切に願い続ける。

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