《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
「演習」とは「陸軍大演習」のことだったならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。
〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)〉という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)〉と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
「アカ狩り」への対処のための「自宅謹慎」
また周知のように、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している。そして、この時の上述のような凄まじい「アカ狩り」によってその労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われたともいう。
しかも高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、その将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない「アナーキスト?」と認識していた」と言えるくらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治も警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のその8月であったことからも窺える。
そこへもってきてあの人間機関車浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していたことを偶然知った私は、次のような
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家で自宅謹慎していた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明が付くことに気付いた。そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習が終るころ」までは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」とは時期的にピッタリと重なっていることだ。その上、この反例は一つも見つからなかったから仮説の検証がなされたことになる。よって今後その反例が見つからない限りは、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったと、そして、賢治は重病だということにして実家にて「自宅謹慎」していたというのが「下根子桜撤退」の真相だったとしてよいことになった。
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《鈴木 守著作案内》
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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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