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3194 「昭和3年賢治自宅謹慎」のまとめ

2013-04-10 09:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛される賢治に》
 では、ここまで述べてきたこのシリーズをまとめ、現時点での結論を述べてそろそろその終わりにしたい。
「演習」と「陸軍特別大演習」
(1) 以前から私は、賢治の澤里武治宛昭和3年9月23日付書簡「243」の中の
   演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)259pからより>
が気になっていた。この「演習」とはなんぞやと。
(2) それがあるとき気付いた、これではなかろうかと。それは『啄木 賢治 光太郎』で述べられていた
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
に出てくる昭和3年に花巻でも大々的に行われた「陸軍(特別)大演習」のことではなかろうかと。
(3) なぜならば、この文中の人物川村尚三とは、昭和2年の夏から秋にかけて賢治と「交換授業」をやっ人物でもあったからである。そして、翌昭和3年10月の「陸軍特別大演習」を前にして「県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた」際にこの川村尚三が刑務所に放り込まれたことになる。
(4) そしてもう一人、八重樫賢師なる若者がいた。
 八重樫賢師君とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇行幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
という人物であった。
(5) さらに、この「陸軍特別大演習」を前にしてもう一人の人物平井直衛は「社会主義の種をまく 赤の名で盛岡中学校を追われる」ということで、昭和3年8月に盛岡中学の教師の職を奪われていることも知った。
帰納的推理による帰結
 となれば、これらの(1)~(5)から帰納的に推理すれば、この「陸軍特別大演習」を前にして行われた「すさまじい「アカ狩り」」の際に賢治も特高等からマークされない訳はない、ということは必然的な帰結であろう。
 まして、小館長右衛門によれば
 宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。
ということだし、川村尚三が刑務所に放り込まれ、八重樫賢師が函館に追われ、平井直衛が昭和3年8月にその職を追われたとすれば、川村尚三と接触し、八重樫賢師に託して運営費を出していた賢治が特高から圧力を受けなかった訳はない。そしてこの小館にしても、労農協議会に属していて最も戦闘的な活動家だったがこの8月の凄まじい「アカ狩り」によって、北海道は小樽に奔らざるを得なかった人物である。<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~より>

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