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これが賢治の行った「稲作指導」か(改訂版)

2016-06-08 17:00:00 | 「羅須地人協会時代」の真実
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、
 昭和3年8月10日 心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す。
が賢治の「下根子桜撤退」の「通説」だと私は認識しているのだが、実はこの時期(懸案の「残された一ヶ月強の間」)に、
 ・気候不順に依る稲作の不良もなければ
 ・風雨の中を徹宵東奔西走するような気象だったこともない。
ことが先に明らかになったから、どうやらこの期間に賢治が「農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走」する必要性は客観的にはなかったということになる。にもかかわらず、ではどうして巷間このように云われてきたのだろうか。

 そこで今一度この「残された一ヶ月強の間」を概観してみると、『新校本年譜』によれば、
七月五日(木) あて先不明の書簡下書(書簡241)
七月一八日(水) 農学校へ斑点の出た稲を持参し、ゴマハガレ病でないか調べるように堀籠に依頼。イモチ病とわかる。
七月二〇日(金) <停留所にてスヰトンを喫す>
七月二四日(火) <穂孕期>
七月 平来作の記述によると、「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した為、先生を招き色々と駆除予防法などを教へられた事がある。…(投稿者略)…」とあるが、これは七月一八日の項に述べたことやこの七、八月の旱魃四〇日以上に及んだことと併せ、この年のことと推定する。
八月八日(水) 佐々木喜善あて(書簡242)
八月一〇日(金) 「文語詩」ノートに、「八月疾ム」とあり。下根子桜から豊沢町の実家に戻る。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>
となる。

 そこで少しくそれぞれの項目について以下に考察してみたい。まず、「あて先不明の書簡下書(書簡241)」とは、
拝復
貴簡拝誦 仰に従て七月十五日午前十時迄に参上可仕 拝見の分は
一、品種
二、肥料反当用量
三、田植期日
四、其他特種時項
御書付置奉願候
敬具
   七月五日
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)より>
というものであり、これを元にして東奔西走したとまではもちろん言えないだろう。
 では次の「ゴマハガレ病でないか」に関してだが、どうして賢治は最初「イモチ病」を疑わず「ゴマハガレ病でないか」と思ったのかを推理してみると、この年この時期はたしかに「七、八月の旱魃四〇日以上」が続いたので普通ならば一般にイモチ病は蔓延しないと判断したからであろう。ちなみに、この病気は〝いもち病  Pyricularia oryzae〟によれば、
 いもち病菌は菌糸の発育適温が25℃と低いこと、多湿の場合は胞子形成が盛んになること、日照不足や窒素過多では稲体が罹病しやすくなることなどがその理由である
ということであり、この年のこの時期にイモチ病蔓延の必要条件「多湿」は考えられなから、賢治は「ゴマハガレ病」を疑ったのだろう。ただし実際はイモチ病だったので、この場合の原因は窒素施肥過多によって発生したものであったということの方が蓋然性が高いので、賢治はそのことを懸念したからであったという可能性を否定できない。また、イモチ病がこの年に蔓延したとは言えないし、実際なかったのだから賢治がその対策のために「東奔西走」することもなかったであろう。
 では次は<停留所にてスヰトンを喫す>と<穂孕期>だが、それぞれその中身は以下のとおり。
     停留所にてスヰトンを喫す        一九二八、七、二〇、
   わざわざここまで追ひかけて
   せっかく君がもって来てくれた
   帆立貝入りのスイトンではあるが
   どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
   この玻璃製の停留所も
   なんだか雲のなかのやう
   そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ
   この田所の人たちが、
   苗代の前や田植の后や
   からだをいためる仕事のときに
   薬にたべる種類のもの
   除草と桑の仕事のなかで
   幾日も前から心掛けて
   きみのおっかさんが拵えた、
   雲の形の膠朧体、
   それを両手に載せながら
   ぼくはたゞもう青くくらく
   かうもはかなくふるえてゐる
   きみはぼくの隣りに座って
   ぼくがかうしてゐる間
   じっと電車の発着表を仰いでゐる、
   あの組合の倉庫のうしろ
   川岸の栗や楊も
   雲があんまりひかるので
   ほとんど黒く見えてゐるし
   いままた稲を一株もって
   その入口に来た人は
   たしかこの前金矢の方でもいっしょになった
   きみのいとこにあたる人かと思ふのだが
   その顔も手もたゞ黒く見え
   向ふもわらってゐる
   ぼくもたしかにわらってゐるけれども
   どうも何だかじぶんのことでないやうなのだ
   ああ友だちよ、
   空の雲がたべきれないやうに
   きみの好意もたべきれない
   ぼくははっきりまなこをひらき
   その稲を見てはっきりと云ひ
   あとは電車が来る間
   しづかにこゝへ倒れやう
   ぼくたちの
   何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
   しづかにこゝへ倒れて待たう

     穂孕期          一九二八、七、二四、
   蜂蜜いろの夕陽のなかを
   みんな渇いて
   稲田のなかの萓の島、
   観音堂へ漂ひ着いた
   いちにちの行程は
   ただまっ青な稲の中
   眼路をかぎりの
   その水いろの葉筒の底で
   けむりのやうな一ミリの羽
   淡い稲穂の原体が
   いまこっそりと形成され
   この幾月の心労は
   ぼうぼう東の山地に消える
   青く澱んだ夕陽のなかで
   麻シャツの胸をはだけてしゃがんだり
   帽子をぬいで小さな石に腰かけたり
   みんな顔中稲で傷だらけにして
   芬って酸っぱいあんずをたべる
   みんなのことばはきれぎれで
   知らない国の原語のやう
   ぼうとまなこをめぐらせば、
   青い寒天のやうにもさやぎ
   むしろ液体のやうにもけむって
   この堂をめぐる萓むらである

              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
 これらの二篇に従えば、たしかに賢治はこの時期「農民たちに対しての稲作指導のために奔走」していたであろうことが考えられる。また、この時期賢治の体調はかなり思わしくなかったであろうこともである(なお、これらが『春と修羅 第三集』の最後の二篇である。そしてこの後、賢治の詩から日付はぷっつりと消えてしまっている。ということは、この時期に賢治の中で何か大きな変化が起きていたということはほぼ確実であろう。しかもそういえば、これらの詩の前に詠んだ〈台地 一九二八、四、十二、〉以降賢治はそれまで付けていた「作品番号」さえも付けなくなってしまったからなおさらにだ)。
 そして、次の「七月 平来作の記述によると……この年のことと推定する」に関してだが、まさしくこれは推定であり、検証されたものではない。だから私などは、「七月一八日の項に述べたことやこの七、八月の旱魃四〇日以上に及んだこと」をその裏付けとするのははたして妥当なのだろうか、それどころか羅須地人協会時代にイモチ病が稗貫等で蔓延したのは前年の昭和2年であり、まずはその年のことを検討すべきだとついつい心配してしまう。
*******************以下が新たに付け加えた個所である****************
 あるいはまた、大正15年の稗貫や紫波郡はヒデリの年だったから田植えの時期が遅れたし、逆に7月下旬からは雨降りが続いたから、まさに「又或る七月の大暑当時非常に稲熱病が発生した」はこの年のことかもしれない。それは実際に、大正15年8月18日付『岩手日報』には次のような記事も載つているからである。
 稗貫郡下に稻熱病發生
  被害水田約十町餘 氣候が最大原因
(花巻)本年は気候に激變が多かつた關係上か稗貫郡内の水田中に稻熱病がポツポツ發生し被害水田約十町餘 氣候が最大原因模樣である。郡農會あたりの調査によると宮野目村が最も多く、ついで、八幡、八重畑、花巻川口町下根子附近に發生してゐる、郡農會の伊藤技手は
先月の二十日前に非常に暑かつたがその後雨が多くつづいて、曇天と來て居るから第一に氣候が最大原因をなしてゐる樣だ。それからかん魃のために苗代から本田に移植する時季がおくれたので早苗中に既におかされて居たものもあつた。
しかも、この発生地域としては「花巻川口町下根子附近」とあるし、「大暑」とはまさに7月下旬の初め頃だから、大正15年の場合をなおさらにである。 
*******************以上が改訂個所である****************************
 そして最後に「佐々木喜善あて(書簡242)」についてだが、その書面の写真を見た限りでは、それ程この時点では賢治は重篤であったとはその筆致からは窺えないが、いずれこの翌々日にかつてであれば「遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥す」ことになる。

 以上今回のここまでの考察の結果、「農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走した」賢治であったということの一端がこの「残された一ヶ月強の間」において具体的に窺えた(ただし、もともと詩というものは安易に還元できないから、これらの賢治の詩の内容を裏付ける賢治以外の証言や資料があればそれは更に「窺えた」以上のものとなるだろうが残念ながらそのようなものは今のところ見つからない)。そしてこの一端が「これが賢治の行った「稲作指導」か」ということである程度納得はできた。さりながら、ここまでの検証によればそのようなことがたしかにあったということは今までは言えなかったから、今回のことだけで羅須地人協会時代の賢治が巷間「農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走した」と云われていることの妥当性があるとまでは言い切れないということが、私の判断である。 
 なお、後に賢治は澤里武治宛書簡(243)で、
やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
というように述べているから、とりわけ「七月…村を歩いたり」という記述などからついつい「東奔西走」ということも連想したくなるが、賢治以外のものでそれを裏付けるものが見つからない。

 というわけで、現時点では、
 少なくとも、羅須地人協会時代の賢治が農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走した、ということを断定できるほどの根拠<*1>は私には見つけられなかった。
というのが結論である。
 ただし一方で、
 羅須地人協会時代の賢治が貧しい農民たちに対しての稲作指導のために東奔西走したということはまずなかった。
ということについては、なぜか確信してしまった。どうやら、賢治が行ったことは皆「中農」以上の農民たちに対してだからである。

<*1:註> このような根拠になり得るものが賢治宛来簡だと思うので、もうそろそろそれを公にしてもいいのではないか。そうすれば、「賢治研究」が更に発展するし、より確かなものとなることは明らかなのだから。

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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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