《創られた賢治から愛される賢治に》
岩手県無産団体第一回協議会上田仲雄氏の論考「岩手無産運動史」の中に、昭和3年4月26日に岩手県無産団体第一回協議会が行われ、運動方針として話し合われた問題の中に次のようなこともあった述べられている。
(2) 無産運動に凶暴な弾圧が加えられたことである。五月以降〝I〟盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員の金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は勾留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭した〝T〟盛岡警察署長により無産運動家の大拘束(26)が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向(27)が生じ、岩手無産運動の一つの転期(ママ)を孕んで来た。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~より、イニシャル化は投稿者>やはり、昭和3年の陸軍特別大演習を前にして岩手県下では徹底した弾圧が行われていたことは紛れもない事実であった、ということになりそうだ。
労農党への弾圧
・註釈(26)の中には
一日内外~一週間の検束処分を受けた者の中に
花巻署 川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ)
盛岡署 横田忠夫
とあって、川村尚三も八重樫賢師も横田も検束処分を受けていたことはたしかなようだ。花巻署 川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ)
盛岡署 横田忠夫
・註釈(27)については
労農協議会に属し、最も戦斗的な小舘長右ェ門が八月無産運動により逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
<ともに『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~より>したがって、最も戦闘的だったという小舘も、八重樫賢師同様北海道へ奔ったということのようだ。しかも、平井直衛が盛中を追われたのが昭和3年の8月、この小舘が北海道小樽に奔ったのも同じくその8月であることがわかった。ということは、ほぼ間違いなく、
岩手県の昭和3年8月とは労農党に対して凄まじい弾圧が行われた時期だった。
ということになろう。
さすればおそらく、八重樫賢師が北海道函館に奔ったのも同じ頃、昭和3年8月という可能性がすこぶる高い。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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