みちのくの山野草

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千葉恭の下根子桜別宅寄寓

2015-04-11 09:30:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
千葉恭の下根子桜別宅寄寓開始
 千葉恭なる人物がいる。彼は次のように語っている。
 私が賢治と一しよに生活してまいりましたのは私自身百姓に生れ純粹に百姓として一つの道を生きようと思つたからでした。そんな意味で直接賢治の指導を受けたのは或は私一人であるかも知れません。
 賢治と私との関係は私が十九才のとき、花巻の穀物検査所に就任しこれで生活しようと考えておつた時代で、当時賢治は花巻の農学校の先生をしておられ、年令からすると凡そ十才もちがつていたでしようか。その年は豊作で立派な米が出来、賢治が穀物検査所にこれは何等米だとか、米の食生活に及ぼす関係とかでまいつたことがございます。私も学校をでたばかりで、これは何等米だという米の等級づけの理由をきかれ、肥料成分の如何によるものだいえば、それはどういうわけだといろいろ質問され、とうとう質問攻めにされ終いにはは怒つてそんなことには返答しないといつてしまつたことがあり、この実習教師は生意気な奴だと思つておりました。
 勿論私は賢治であることは知つておらずただの実習教師であろうぐらいに思つておりました。そのようなことがあつた次の晩に私のところに電話があり、宿直だから学校に遊びに来るようにとの電話でしたが、下宿のおばさんにお聞きして宮沢先生であろうということをしつて出かけていつたものでした。そんな関係からぼつぼつ賢治と知り会うようになりました。
 実際彼も変りものでしたし、私も少し変りものでしたので、むしろよろこんでうけいれてもらい、したしくなつてまいりました。それから宿直の度毎に電話があり、でかけて種々話をしてまいりました。二人の語らいというものは殆ど百姓の問題ばかりでありました。
 その中に賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になつて来たのでしよう。私のところに『君もこないか』という誘いがまいり、それから一しよに自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実にみじめなものでありました。…(投稿者略)…
 一担(ママ)弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導をうけました。これは自分の考えや気持を社会の人々にうえつけていきたい、世の中をよくしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会をみていく場合つねに私を叱咤するようになつてまいりました。
             <『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
 つまり、巷間「独居自炊」といわれている2年4ヶ月の「羅須地人協会時代」に、賢治と「一しよに生活してまいりました」と語った千葉恭なる人物がいたのである。そして実際、千葉が穀物検査所を一旦辞めた日は大正15年6月22日であることが確実であることを私はあるルートから知ることができたので、
 千葉が賢治と一緒に暮らし始めたのはほぼこの大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日<*1>までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
と言えることがわかった(このことについては、『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』で実証したところである)。

千葉恭開墾も手伝う
 また、千葉は
 朝食も詩にあるとほり少々の玄米と野菜と味噌汁で簡単に濟ませ、それから近くの草原や小さい雑木のあつた處を開墾して、せつせつと切り拓き色々の草花や野菜等を栽培しました。私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しましたが、実際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。
              <『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
というように、「私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しました」と証言しているから、かつての私は下根子桜での開墾は賢治が一人でしたものとばかり思っていたが、どうやら千葉に手伝って貰っていたようだ。
 ただ、それにしても理解しがたいのは、「本統の百姓」になると言っていたのに賢治は「色々の草花や野菜等を栽培」はしたが肝心の「稲作」はなぜしなかったのだろかということだ。泥にまみれて汗水垂らしながら自分の田んぼで稲を作らないようでは貧しい農民の本当のところを賢治は汲み取ることができなかったのではなかろうかと、私はついつい危惧してしまう。素朴に素直に考えれば、賢治が「本統の百姓」になるということは、そのような「色々の草花や野菜等を栽培」することなどではなかったのではなかろうかと私はどうしても思ってしまう。少なくとも少し前までの私は、そんなことをするために賢治は農学校を辞めたはずなどないと思いたがっていた。開墾などせずに、まずは松田甚次郎にそう迫ったように賢治は小作人になるべきだったのではなかろうかと。だから逆に言えば、賢治が自分の田んぼで稲を作らずに「開墾」に拘ったことにこそ、当時の賢治の本音を知る有力な手がかりの一つがありそうだ。

賢治と玄米食
 それから、昭和29年12月21日に行われた「宮沢賢治の会」の例会で千葉恭が講演し、その後の質疑応答で、
 賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
と千葉が述懐していることが『イーハトーヴォ 復刊5』(宮沢賢治の会)に載っているから、千葉は桜の別宅に寄寓したわけだから煮炊きをすることはまああり得ただろうが、この証言が正しいとすれば少なくと下根子桜桜時代の約半年間は、賢治は「独居」していたわけでも、「自炊」していたわけでもなかったということになる。しかも、千葉は賢治から「毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたこと」がとても困った(投稿者:おそらくその意味は辛かった)と述懐していたことになる。
 ところが一方で、『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)によれば、
 すると賢治は、「御飯は三日分炊いてあるんス」と、母をおどろかした。お母さんが、「どこに。あめてしまうべ」と言うと、「ツボザルさ入れて、井戸にツナコでぶら下げてひやしてあるンス―」と答えた。
ということだから、千葉が寄寓していた頃は彼に米を毎日買いに行かせていた賢治なのに、賢治自身が御飯を炊くときには三日分をまとめて炊いていたということになるが、賢治は毎日炊きたての御飯を千葉に食べさせたかったからそうしたわけでもなさそうだから、ここにも賢治のダブルスタンダードが垣間見られて微笑ましくなる。賢治も案外人間的じゃないかと。
 あるいはまた、『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)の中の「書簡の反古」という章があり、そこには次のような賢治の書簡下書も載っている。
 いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゆうやりました。母のさとから宣傳されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることに氣付きませんでした。氣付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやつたのでやつとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほうたうの生活へ物を言ふことじつに生意気です。
             <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版)104p~より>
この下書は、『校本全集第十三巻』によれば〝昭和七(1932)年 419 六月一日 〔森佐一あて〕 下書〟となっているから、「三年玄米食(七分搗)をうちぢゆうやりました」ということからは、賢治は昭和4年6月~昭和7年6月の3年間玄米食を摂っていたということになる。別の見方をすれば、賢治は下根子桜時代には玄米食をしていなかったという可能性がすこぶる高いということになる。ついつい、『雨ニモマケズ』の中の「一日玄米四合」から賢治は下根子桜時代に玄米食をしていたとばかりに私は思っていたが、どうやらそうとも言い切れなさそうだ。

平來作の証言の信憑性
 ところで不思議なことがある。それは、賢治も含めて周縁の人たちの誰一人として千葉恭という人物が賢治と一緒に暮らしていたという証言や資料を残しておらず、千葉以外にそのことを証言している人がいなかったからだ。そう訝っていた頃に、『拡がりゆく賢治宇宙』の中に
 楽団のメンバーは
    第1ヴァイオリン 伊藤克巳
       …(略)…
    オルガン、セロ  宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
               <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)79pより>
という記述があることを知った。つまり、例の楽団に時に千葉も加わっていた可能性が高いことをこの資料は教えてくれている。言い換えれば、誰かが千葉はあの楽団のメンバーの一人だったということ、つまり下根子桜の賢治の許に時に来ていたようだということを証言していた、ということをこの記述は示唆している。そこで私は、その出版元『イーハトーブ館』に問い合わせた、この出典はなんですかと。するとその答えは、あれは間違いです、というものだった。
 ならばと思って、私は次にこの部分の執筆者を探してその人AN氏に訊いた。すると彼はこう言った。
 あれは、私が平來作から直接聞いたことです。ところが、千葉恭については他の人の証言がないからということで、『賢治年譜』には載っておりません。
そこで私は思った。そうか、流石『賢治年譜』、資料として載せるか否かの判断は厳しいんだと。実際、『新校本年譜』を見てみると
 しかし音楽をやる者はほかにマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり、時によりふえたり減ったりしたようである。
             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)314pより>
となっていた。一体、平來作や渡辺要一の場合にはどんな他人の証言等があって載ったのかは知らないが、肝心の千葉恭の名前だけがすっぽりと抜け落ちている。
 とはいえども、実は千葉のご子息から直接聞いた(平成22年12月15日)ことだが、『父はマンドリンを持っていました』ということだったから、先の『拡がりゆく賢治宇宙』の件の記載内容はまず間違いないと判断できる。したがって、千葉は時に下根子桜に確かに来ていたということを平來作は実質的に証言していたことになるだろうし、平來作のこの証言の信憑性はかなり高いということがわかる。

<*1:註> この「昭和2年3月8日」については、拙ブログの“「賢治と一緒に暮らした男(30)」 29. 賢治から甚次郎がどやされた日”を参照されたし。

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