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みちのくの山野草

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大正15年賢治は6月頃何をしていたのか

2015-04-10 09:30:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
大正15年6月の賢治
 それでは、賢治にはその後下根子桜ではどんな営為があったのだろうか。『新校本年譜』から6月分について抜き出してみるとそれは以下のようなものであった。
六月三日(木) 県知事あての「一時恩給請求書」提出
六月一八日(金) <疲労>
六月二〇日(日) <〔道ベの粗朶に〕><蛇踊>
六月下旬 菊池信一下根子桜の別宅に来訪。
六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
 伊藤清一によると国民高等学校での講義「農民芸術論」のタイトルによるものであった。賢治はこれらをもとにして文辞を練り上げ、一応草稿を完成したわけである。
 ちなみに、<疲労><〔道べの粗朶に〕><蛇踊>の中身は以下のとおりの内容である。
<疲労>
七一四      疲労        一九二六、六、一八、
   南の風も酸っぱいし
   穂麦も青くひかって痛い
   それだのに
   崖の上には
   わざわざ今日の晴天を、
   西の山根から出て来たといふ
   黒い巨きな立像が
   眉間にルビーか何かをはめて
   三っつも立って待ってゐる
   疲れを知らないあゝいふ風な三人と
   せいいっぱいのせりふをやりとりするために
   あの雲にでも手をあてゝ
   電気をとってやらうかな
<〔道べの粗朶に〕>
七一五      〔道べの粗朶に〕     一九二六、六、二〇、
   道べの粗朶に
   何かなし立ちよってさわり
   け白い風にふり向けば
   あちこち暗い家ぐねの杜と
   花咲いたまゝいちめん倒れ
   黒雲に映える雨の稲
   そっちはさっきするどく斜視し
   あるひは嘲けりことばを避けた
   陰気な幾十のなのに
   何がこんなにおろかしく
   私の胸を鳴らすのだらう
   今朝このみちをひとすじいだいたのぞみも消え
   いまはわづかに白くひらける東のそらも
   たゞそれだけのことであるのに
   なほもはげしく
   いかにも立派な根拠か何かありさうに
   胸の鳴るのはどうしてだらう
   野原のはてで荷馬車は小く
   ひとはほそぼそ尖ってけむる
<蛇踊>
七一八      蛇踊    一九二六、六、二〇、
   この萌えだした柳の枝で
   すこしあたまを叩いてやらう
   叩かれてぞろぞろまはる
   はなはだ艶で無器用だ
   がらがら蛇でもない癖に
   しっぽをざらざら鳴らすのは
   それ響尾蛇に非るも
   蛇はその尾を鳴らすめり
   青い
   青い
   紋も青くて立派だし
   りっぱな節奏もある
   さう そのポーズ
   いまの主題は
   「白びかりある攻勢」とでもいふのだらう
   しまひにうすい桃いろの
   口を大きく開くのが
   役者のこわさ半分に
   所謂見栄を切るのにあたる
   もすこしぴちゃぴちゃ叩いてやらう
   今日は廐肥をいぢるので
   蛇にも手などを出すわけだ
   けれども蛇よ、
   どうも、おまへにからかってると
   酸っぱいトマトをたべてるやうだ
   おまへの方で遁げるのか
   それではひとつわたしも遁げる
              <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>

「6月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く」は推定にすぎない
 当時6月といえば、農家の人にとっては「猫の手も借りたい」くらいに忙しい時期だったはずだ。梅雨入り前後頃から始まる田植のために大忙しであり、田んぼにはたして用水を確保できるのか、雨はちゃんと降ってくれるのかなどと心配の種は尽きなかったはずだ。ところが、前掲した年譜の記載事項や詩からはそのようなことがあまり読み取れない。すなわち、賢治と貧しい農民たちとの直接的で具体的な関わり、稲作指導や肥料設計などは窺い知ることはほぼできない。そこで私は、賢治は「本統の百姓」になるために、当時一体何をやりたがっていたのだろうかと訝ってしまう。せいぜい私が思いつくのは「「農民芸術概論綱要」を書く」であるが、残念ながらこのことが直接的に貧しい農民を救う手立てにはならないことは明らかである。この芸術論は格調高く謳われてはいるが、そこには方法論が示されていないからである。
 またそもそも、この「綱要」がこの時期に書かれたという客観的に典拠はない。ちなみに、『校本全集』所収の「宮澤賢治年譜」の作成者である堀尾青史自身が、このことに関する境忠一氏の質問、
 大正十五年六月に、例の「農民芸術概論綱要」を書くわけですが、六月という日付には、具体的な根拠があるのでしょうか。
に対して、
 これも皆さんの推測と言うこともあるんですが、開墾や農事指導などの忙しさから解放されて、比較的余裕ができた月ですね。先ずこの辺で間違いなかろうということです。
              <『国文学第23巻2号』(學燈社)175pより>
と答えているくらいだからである。しかし、どうしてこの時期が「開墾や農事指導などの忙しさから解放されて」等と言えるのだろうか、その理由は明示されていないし、この時期<*1>こそ逆に忙しい時期のはずである。したがって、あくまでもこの「このころ「農民芸術概論綱要」を書く」という記述内容は推定であり、本来はこのころ「農民芸術概論綱要」を書くというように括弧書きとなるべきものである。
 さらにはその中身についても小倉豊文は、「声聞縁覚録(十三)」において、
 十字屋版の両年譜(十字屋版の全集や宮沢賢治研究の年譜のこと:投稿者註)には、翌十五年六月「農民芸術概論を草稿す」とあり、角川版の拙編年譜も同じように書いてしまったが、「農民芸術概論」は実にこの国民高等学校の講義のために先づ執筆されたものなのである。この項目を私が知っていながら年譜に入れなかったのは大きなミスであった。そして筑摩版全集の年譜に至って、この年の項に月日不詳ではあるが「岩手県国民高等学校で農民芸術論の一部分を講義した」とはじめて記入されたのである。しかし「農民芸術論」は「農民芸術概論」とすべきであり、十五年六月の項に「農民芸術概論を起稿した」とあるのは、十字屋版両年譜に「……草稿す」とあるのを、そのまま「起稿した」として編入したのであって、正しくは十四年の項に「講義用として一部起稿」と記し、十五年の項には「再稿」とか「増補執筆」とか記すべきであろう。
                   <『宮沢賢治研究 四次元 190号』(佐藤寛編、宮沢賢治研究会)>
と悔やんでいる。すなわち、せいぜい推定であるはずの〔6月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く〕さえもかなり危ぶまてしまうものとなった。
 となれば、賢治が思い描いていた農学校を辞めて「本統の百姓」となることはここで小倉が言うところの「再稿」とか「増補執筆」のことをいうのかというと、それももちろんないだろうし、しかもこのこと自体が6月に行われたということさえも心許ないものであり、「本統の百姓」となるためにこの6月当時賢治は一体何を想い、何を主に為していたのだろうかということが私にはますますわからなくなってきた。

<*1:註> 実はこの時期6月は農民にとって農繁期であって何くれと忙しいし、田んぼに農業用水の確保ができるか否かなどで悩みが尽きない時期であるはずだが、賢治は昭和3年の6月にも約一ヶ月ほど故里を留守にしている。貧しい農民を救おうとしていた賢治ならば、それこそ「農民芸術概論綱要」で「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい」と連帯を謳った賢治ならばこの時期が「忙しさから解放されて、比較的余裕ができ」る時期などとはとても私には思えない…。

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