みちのくの山野草

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1 沢里武治の証言

2024-08-10 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

第一章 改竄された『宮澤賢治物語』

1 沢里武治の証言 
 関登久也には多くの著作があるが、その中の一つに沢里武治の証言が載っている『宮沢賢治物語』がある。

 『宮沢賢治物語』(学習研究社版)
 私が最初に同書を見たのはその学習研究社版(平成7年発行)であった。冷静で客観的な記述の仕方に著者関登久也の人柄を偲ばせていると感心しつつ読み進めていった。とりわけ、関登久也自身が直接見たり訊いたりしたことと、伝聞したこととは区別して書き分けている姿勢に好感が持てた。
 ところが、同著の中の「セロ……沢里武治氏から聞いた話」という節に至って、次の記述に私は強い違和感を感じた。

 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日の頃には、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、学習研究社、平成7年発行)283pより>

 ここからは沢里武治のもどかしさが伝わってくる。そして歌を詠むし著作も多い関登久也が、
    昭和二年には上京して花巻にはおりません。………○★
などというような書き方をはたしてするのだろうかと私は訝しく思った。なぜならば、この「○★」のような書き方ならば、賢治は昭和2年には上京していて花巻には居なかったということになり、それ以降の証言内容と全く辻褄が合わなくなってしまうからである。どうやらそのせいで私は違和感を感じたようだ。

 岩手日報社版『宮沢賢治物語』
 そこで、この『宮沢賢治物語』(学習研究社版)の原本となっている岩手日報社版『宮沢賢治物語』を実際に見てみる必要があると判断した。学習研究社版にする際にうっかり間違ってしまったという可能性もあるからである。しかし当時私は同書を所有していなかったので、「宮沢賢治イーハトーブ館」に行ってそれを見せて貰おうと閲覧を申し出たのだが、残念ながらその時同館は同書を所蔵していなかった。
 やがてこの同書を見てみることを私がすっかり忘れてしまいそうになっていた頃、たまたま奥州市水沢に所用があって車で出掛けた。ついでに、とある古書店に立ち寄ったところ何と本棚に、あの見てみたかった岩手日報社版『宮沢賢治物語』が並んでいるではないか。まるで買って下さいと訴えているかの如くに。しかし値段がちょっと高い。どうしようかと少し迷いつつも、いつもは内気な私なのだがそのときばかりは私の口は勝手に「少しサービスして下さい」と店主に言っていた。結果、少し負けてもらって手に入れた。
 早速車内に戻って同書の当該部分を探してみたところそれは同書の217p以降に載っていた。ところが、この岩手日報社版と学習研究社版との違いがはっきりしない。もうこうなると気になってしょうがない。所用をそそくさとやり終えて急いで花巻の自宅に戻った。
 わくわくしながらも、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて両者を見比べてみたところ、漢字が仮名になったり、仮名が漢字になったりしているところはあるものの、その内容は一言一句違っていない。私の予想は完全に裏切られてしまった。ということは、やはり関登久也は「○★」のような書き方をしたのだと結論せざるを得ないと思った。訝しさを払拭できぬままに。
 それがその後、調べ物があって再びこの岩手日報社版『宮沢賢治物語』をひもといた際に、たまたま最後の「後がき」を見た。閃いた。そこには次のようなことがに書かれてあったからである。
 「宮沢賢治物語」は、岩手日報紙上に、昭和三十一年一月一日から同年六月三十日まで、百六十七回にわたつて連載された。歌人であり賢治の縁者である関登久也氏にとつて、この著作は、ながい間の懸案であつた。新聞に掲載されるや、はたして各方面から注目されるところとなつた。完結後、単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸いとして、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼していたということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏におねがいし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。本のカバーは賢治の詩集『春と修羅』の装幀図案を再現したものである。                (出版局・栗木幸次郎記)
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年 8月発行)288pより>

 ということは、同書が上梓される前に関登久也は急逝してしまったので最後の方の段階では他の人が整理、編集して出版したということになろう。ならば、『岩手日報』に連載された本家本元の『宮沢賢治物語』そのものを確認する必要があることを悟った。もしかすると『岩手日報』紙上に載ったものは単行本のものと違っている可能性があると思ったからである。

 新聞連載版『宮沢賢治物語』
 私は居ても立っても居られなくなって、押っ取り刀で岩手県立図書館に出掛けた。県立図書館に着いた。早速『岩手日報』のマイクロフィルムを見せて貰った。
 もどかしさを感じながらマイクロフィルムを巻き上げてゆくと、たしかにその連載は昭和31年1月1日から始まっていて、当該の部分は同年2月22日付朝刊に『宮沢賢治物語(49)』として、
【Fig.1『宮澤賢治物語(49)』「セロ(一)」】

             <昭和31年2月22日付『岩手日報』)より抜粋>
のように載っていて、次のようなものだった。
  宮澤賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします
が、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
   …(中略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…(以下略)…
<昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>

 私はここで初めて腑に落ちた。「昭和二年には先生は上京しておりません」ならば沢里の証言内容は前後の辻褄が合うからだ。やはり物書きの関登久也が、
    昭和二年には上京して花巻にはおりません。
というような書き方をする訳はなかったのだと安堵した。
 一方では、この沢里の証言が事実を述べているとするならばその意味するところは重大であり、他への影響もすこぶる甚大であり、今後これに関わっていろいろと調べなければならないということを私は決意した。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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