《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
さて、
この、空白の約三カ月間、賢治は一体何をやっていたのだろうか。
という問が湧いていたのだが、その答が何であるかにやっと辿り着けた。だが、それは五里霧中を暗中模索、四苦八苦しながら彷徨い続けてやっと叶ったものであり、以下にその事に関しての私の紆余曲折を投稿してゆきたい。
崩れ出した私の中のイメージ
十数年程前から私の中で崩れ始め、その後も少しずつ崩壊し続けているものがある。それは私の中の「羅須地人協会時代」のイメージである。
例えば、私が以前持っていたその決定的なイメージの一つとして「独居自炊」があったが、賢治が羅須地人協会の建物に住まっていた期間のうちの、少なくとも約半年間は千葉恭という若者と一緒に賢治は生活していたということをその後知って、どうやらその時代とは「独居自炊」という言葉では括れないのではなかろうかと思うようになった。私の羅須地人協会のイメージの一端が崩れ始めた時であった。
それまでの私は、「羅須地人協会時代」とは賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まいながら菩薩となって貧しい農民を救おうとした5年程の期間のことをいうと思っていた。実際、『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)を見てみると、
「羅須地人協会時代」=大正15年3月31日~昭和5年3月 ……①
となっている。たしかに5年間である。
ところが、少しずつ賢治のことを調べ始めてみたならば、賢治が下根子桜の宮澤家別宅に住まっていた期間は、これを「下根子桜時代」と呼ぶことにすると、
「下根子桜時代」=大正15年4月1日~昭和3年8月10日 ……②
の「2年4ヶ月余」としてよいということを知った。
さらに、前述した千葉恭のことを調べ回っているうちに私は、賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間を〝実質的な「羅須地人協会時代」〟と定義すると、
実質的な「羅須地人協会時代」=大正15年11月29日~昭和2年4月10日 ……③
の「4ヶ月余」となるのではなかろうかと思うようになった。
よって次の不等式、
①の5年間 > ②の2年4ヶ月余 > ③の4ヶ月余
が成立する。
一方で、賢治が農民のために「羅須地人協会」で行った活動については一般に、
①の中身 = ③の中身
であると捉えられている傾向があるのではなかろうか。言い方を換えれば、
賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間=5年間 ……○☆
である、と思われているのではなかろうか。ちなみに嘗ての私がそうであった。もちろん今の私はもうそうとは思っておらず、
賢治が稲作技術や農民芸術等の講義を下根子桜で行った期間=4ヶ月余
であると思っているし、もし「羅須地人協会時代」というものがあるとするならば、広義に解釈しても、
「羅須地人協会時代」=大正15年4月1日~昭和3年8月10日の2年4ヶ月余
ではなかろうかと最近は考えるようになってきた。
それにしても、なぜ私は今まで「○☆」であるとばかり思い込んでいたのだろうか……どうやら私は「羅須地人協会」という言葉に幻惑され過ぎて、実態がわからなくてなおかつ魅惑的な「羅須地人協会」という言葉に翻弄されていたようだ。
羅須地人協会の真実を知りたい
振り返ってみれば、それまでのイメージが崩れ始めた時期というのはちょうど私が賢治のことを自分の足で調べ始めた時期だ。私はそれまでは長年花巻に住んでいながら、賢治についてはほんの僅かの知識と巷間流布しているようなイメージしか持ち合わせていなかった。
そこで、退職した私は折角花巻に住んでいるのだから賢治のことを自分の足で調べてみようと思い立った。というのは、かつて私が学生だった頃に、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私は色々なことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
という意味のことを、賢治の甥のである岩田純蔵教授が目の前で語ってくれたことが私はずっと気になっていたからである。そして、賢治のことを僅かではあるが自分の目で見ることができた。その結果新たにわかったことも多少はあるが、逆にわからないことの方がどんどん増えてしまったというのが私の実態である。例えば、今抱いている疑問や考えあぐねている事柄の幾つかを挙げれば、
(1) なぜ堀尾青史はこの5年間を「羅須地人協会時代」と呼んだ のだろうか。そして、なぜそれが巷間流布しているのだろか。
(2) 大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に、なぜ賢治は義捐活動 行わなかったのだろうか。
(3) なぜ賢治と一緒に生活した千葉恭のことは調べられもせずに、賢治の伝記上では無視されてきたのだろうか。
(4) なぜ昭和2年11月頃からの約3ヶ月の滞京は検証もされずに、無視されているのだろうか。
(5) なぜかくも「羅須地人協会時代」や「羅須地人協会」に関しては不明なことが多すぎるのか。なおかつ、どうしてこれの 事柄があまり調べられないままにここまで至っているのだ ろうか。
(2) 大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に、なぜ賢治は義捐活動 行わなかったのだろうか。
(3) なぜ賢治と一緒に生活した千葉恭のことは調べられもせずに、賢治の伝記上では無視されてきたのだろうか。
(4) なぜ昭和2年11月頃からの約3ヶ月の滞京は検証もされずに、無視されているのだろうか。
(5) なぜかくも「羅須地人協会時代」や「羅須地人協会」に関しては不明なことが多すぎるのか。なおかつ、どうしてこれの 事柄があまり調べられないままにここまで至っているのだ ろうか。
等がある。
そしてこれらのことに関して私は、あれだけ膨大な『校本宮澤賢治全集』やさらには『新校本宮澤賢治全集』が出版されているのだから既に調べ尽くされているものとばかり思っていたが、少なくとも「羅須地人協会時代」に限って言えば、どうやらそうとばかりも言えなさそうだということを知ることとなった。
また一方で、地元に居るせいか私に聞こえてくることの中には、どうも「現通説」等とは相容れないものも少なくないということも知るようになった。そうなると、私はますます「羅須地人協会時代」の真実を知りたいという思いに駆られるようになっていった。しかし、では一体どうすればいいのだろうか……。
自分で調べる
たどり着いた結論は、自分で調べる、それもできるかぎり自分の足で調べるしかないというものだった。実際そうしてみると、(2)については当時の『岩手日報』の連日の新聞報道を見てその惨状がまざまざと判ったし、全国からは小学生さえもが義捐金を寄こしたり、労農党支部等は街頭で義捐金の寄付を呼びかけたり、学生は木炭販売の益金を寄付したり等、それぞれがそれぞれの仕方で大旱魃によって引き起こされる大飢饉を防ごうとして様々の救援活動をしていたことも知った。
ところが一方で、その頃羅須地人協会の建物に集っていた若者達や羅須地人協会のメンバーが義捐活動をしていたかというとそのような証言や資料はなさそうだ。また、賢治自身はそのさなか約一ヶ月間の滞京をしていたことを知った。どうやら、大正15年の紫波郡等の大旱魃の際に賢治は全く義捐活動を行っていなかったということになりそうだ。だから、もしかするとこのとき賢治は「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」ていたとは言い難いかもしれないということを私は知った。
次の(3)の千葉恭に関しては、なぜ今まで彼のことが無視されてきたのかという点については未だわからない点が残っているが、その点を除けば前に拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』において今まで知られていなかったことなどを可能な限り明らかにできたので、多少は羅須地人協会時代の真実を明らかにできたと確信している。
そして次の(4)についてだが、拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』はまさしくこの約三カ月の滞京に関わる「賢治昭和二年の上京」の真相に迫ってみようとするものである。これがこの拙著を著しかった最大の目的であり、同書の大半はこのことで占められている。そしてその際の私の基本的な姿勢であるが、『賢治と一緒に暮らした男』の場合と同様、ある仮説を立ててその検証を行うという、「仮説検証型研究」である。
では、いよいよその「賢治昭和二年の上京」の真実を探る旅に出たい。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
現在、岩手県内の書店で販売されております。
なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守 ☎ 0198-24-9813
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