みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

2140 千葉恭の穀物検査所退職・復職年月日

2011-05-20 09:00:00 | 賢治関連
                     《↑「千葉恭」(56歳頃)》

 やっと標記の年月日が判明した。

 どうしてなのだろうか、下根子桜の別荘で千葉恭が宮澤賢治と一緒に寝食を共にした期日も期間もはっきりしていない。

 しかしとりあえずは、千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた年月日、そして正式に復職した年月日がこの度やっと判明した。
 よって、千葉恭が下根子桜の別荘で賢治と一緒に生活していた時期や期間がまた少し見えてきた。

 それは以下のとおり。
 大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
 昭和 7年3月31日 〃 宮守派出所に正式に復職

 なお、穀物検査所を辞めた後も時々臨時ではあるが穀物検査所で働いていたことも判った。例えば
 昭和3年1月24日~3月31日 藤根派出所臨時採用
のように。

 一方以前触れたように千葉恭のご子息の話によれば、『賢治が亡くなった昭和8年当時父(千葉恭)は宮守で勤めており、賢治が亡くなったという連絡があったが弔問に行けなかったということだった。』
 ところが、いままでは『岩手年鑑』(岩手日報社)によれば昭和8年の千葉恭の勤務場所は福岡出張所とあったのでこれでは辻褄が合わないとばかり思っていた。
 しかしこのことも解決した。というのは、千葉恭は昭和7年3月31日付けで正式に穀物検査所(宮守派出所)に正式に復職した後
 昭和8年7月31日~福岡出張所勤務
 昭和8年8月24日~宮守派出所勤務

ということも今回判明した。したがって、賢治が亡くなった昭和8年9月には千葉恭は宮守で勤めていたことになるからご子息の証言どおりであった。

 さて肝心の、千葉恭はいつからいつまで賢治と一緒に暮らしていたか。つまり、賢治が下根子桜で『独居』でなかった期間はいつからいつまでかである。

 一般にお役所の人事の発令の期日は〝きり〟の良いところ、月末とか月初めが多いはずだ。それなのに千葉恭が一旦辞めた日は半端な22日であることから、これは上司との折り合いが悪く突如辞表を出したと解釈できる本人の話『夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました』と矛盾しないであろう。
 となれば、急に思い立っての千葉恭の退職ということだろうから、同じくご子息の言うとおり『父(千葉恭)は賢治のところへ転がり込んで居候したようだ』というのが実情だったのかも知れない(千葉恭自身は『『君もこないか』という誘いが参り』とは言っているのだが)。

 となれば、〝宮澤賢治と千葉恭の同居期間〟で立てた仮説
 千葉恭が宮澤賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年7月頃であり、その後少なくとも昭和2年3月までの約9ヶ月間2人は下根子桜で同居していた。
の開始時期〝大正15年7月頃〟は、千葉恭は6月下旬に穀物検査所を辞めていることが確かめられたからまず妥当な線であろう。千葉恭は6月22日に辞め、その直後から下根子桜の別荘に千葉恭は寄寓し出したと考えても良さそうだ。

 言い換えればこの仮説は
 千葉恭が宮澤賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃であり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの約9ヶ月間2人は下根子桜の別荘で同居していた。
と多少修正して今後検証してゆきたい。

 続きの
 ””へ移る。
 前の
 ”文圃堂版『宮澤賢治全集一』”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2139 胡四王山報告(5/18) | トップ | 2141 江釣子森山のタチカメバ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事