みちのくの山野草

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『新校本年譜』12月2日の「あやかし」

2015-05-10 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
初出に遡る
 そこで、『賢治随聞』より前に発行された関登久也の著書等を時間の流れを遡って調べてみると、この時の上京に関する澤里武治の証言としては次のようなものが揚げられるし、それ以外のものはないこともわかる。
 まず、『賢治随聞』の前に発行されてものとしては
(2) 『宮沢賢治物語』(昭和32年)
  セロ
    澤里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
 「上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(投稿者略)…その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました…(投稿者略)…
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~より>
があり、この『宮沢賢治物語』はそれ以前に『岩手日報』に連載された関登久也の「宮澤賢治物語」が単行本化されたものである。
 そしてその新聞連載の中に、上掲の(2)に相当する次の
(3) 「宮澤賢治物語(49)、(50)」(昭和31年)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
   …(投稿者略)…
その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…(投稿者略)…
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
             <昭和31年2月22日、23日付『岩手日報』)より>
が載っている。
 さらに遡ると、この証言の初出は『續 宮澤賢治素描』にあり、次のように述べられている。
(4) 『續 宮澤賢治素描』(昭和23年)
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(投稿者略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
             <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~より>
ことがわかる。そしてなんと、この原稿が「日本現代詩歌文学館」に所蔵されていた。
(5) 『原稿ノート』(昭和19年)
 嬉しいことに北上市の「日本現代詩歌文学館」には関登久也の資料がいくつか所蔵されていて、その中の一つに昭和19年3月8日付『原稿ノート』というものもあり、その一番最初に書かれているのが次のようなものだから、
    三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なもをにの対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした。
これは、「澤里武治氏聞書」の生原稿そのものであることが容易にわかる。したがってこれがその最初に書かれものであることになる。

初出を典拠とするなという横やり
 こうしていわば源流まで遡ってみるとやはり気になることは、どうして『新校本年譜』はその典拠を「関『随聞』二一五頁の記述」であるとし、しかも「…をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる」という歯切れの悪い表現にしているのかということである。典拠とするならば、当然初出の『續 宮澤賢治素描』であることは常識だろうと私は思うのだが。しかもたまたまだろうか、『新校本年譜』がこの「関『随聞』」、すなわち『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年)を典拠としているという実態は、次の森荘已池の懇願とピッタリと対応していることが次に気になる。
 実は、『賢治随聞』の「あとがき」は、著者の関登久也ではなくて森荘已池が書いており、
 関登久也が、生前に、賢治について、三冊の主な著作をのこした。『宮沢賢治素描』と『続宮沢賢治素描』、そして『宮沢賢治物語』である。…(投稿者略)…願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
              <『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)277p~より>
と懇願していることと対応しているのである。
 著者でもない人物が、関登久也の初出等を引例するなという横やりを入れて、しかも実は関登久也が亡くなってから実質森荘已池が編纂したと言えるこの関登久也著『賢治随聞』を引例せよと森は懇願しているし、実際『新校本年譜』は結果的にその横やりに従っているわけである。初出の(4)を引例せずにどういうわけか(1)を引例しているという、まことに「あやかし」な現象が起こっていることになる。

柳原昌悦の証言も併せてみれば
 もちろん、関登久也の著書に所収されている「澤里武治聞書」のいずれにもその上京の日が、「大正15年12月」だったなどとは決して書かれておらず、上京の時期に関してはそれぞれ次のようになっていて、
   (5) 『原稿ノート』:「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」(昭和19年)
 →(4) 『續 宮澤賢治素描』:「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」(昭和23年)
 →(3) 「宮澤賢治物語(49)」:「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします」(昭和31年)
 →(2) 『宮沢賢治物語』:「どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします」(昭和32年)
 →(1) 『賢治随聞』:「昭和二年十一月ころだったと思います」(『賢治聞書』昭和45年)
というように、微妙に変化していっている。とりわけ、
 「確かに昭和二年十一月」→「どう考えても昭和二年十一月」
という変化、すなわち、時間的な流れに従って
    かなり自信がある→疑われているようだが自分はどう考えてもそうとしか思えない
となっている澤里武治の認識の変化に注意すると、澤里が霙のびしょびしょ降る日に賢治を見送ったのは「昭和2年の11月頃である」ということに澤里は相当自信があったということを推察できる。しかも、(1)については関登久也自身が著したものではなくて関歿後に森荘已池が実質編纂したものであることを知ってしまうと、この時の上京時期を考察する際に(1)を最優先する『新校本年譜』のような対応の仕方は実は慎重であらねばならない、と言わざるを得ない。言い換えれば、『新校本年譜』の場合の典拠は『賢治随聞』所収の「澤里武治聞書」一つだけであり、それを裏付けるものは他に何も示していないし、しかも肝心の「澤里武治聞書」を恣意的に使っている。これでは『新校本年譜』12月2日の記載内容は「あやかし」と言わざるを得ない。
 一方私の場合は『新校本年譜』とは違って二人の証言に基づいて論考している。実は、これはあまり世に知られていないようだが柳原昌悦の次のような
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。
という証言もある。これは、実証的な宮澤賢治研究家として評価の高い菊池忠二氏が、柳原から直接聞いたという証言であり、私はこのことを菊池氏から直接教わっている。さて、では柳原が言うところの「あのとき」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば「現通説」の
    大正15年12月2日、セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
に対する日「大正15年12月2日」であることは直ぐに判る。つまり、現通説では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も澤里と一緒に賢治を見送っていた、ということを菊池氏に対して柳原が話していたということになる。
 したがって、ともに賢治の最愛の愛弟子であった澤里武治と柳原昌悦の二人の証言に基づけば、
    ・大正15年12月2日、少なくとも澤里と柳原の二人は上京する賢治を花巻駅で見送った。
    ・その約1年後の昭和2年の11月頃の霙の降る日、今度は澤里一人が上京する賢治を見送った。
    ・賢治はその後三ヶ月間滞京してチェロの勉強をしようとたが、その激しい勉強のせいで遂には病気となって少し前の昭和3年1月に帰花した。

と判断するのが最も自然だし妥当だろう。しかもそうすると、三ヶ月間」の問題もほぼすんなりと解決できるから、新校本年譜』のように愛弟子の証言を恣意的な使い方などしなくとも済む。

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