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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

ある後輩の12月25日赤石村慰問

2015-05-12 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
賢治の後輩松田甚次郎
 いわゆる「賢治精神」を実践したといわれている、盛岡高等農林の賢治の後輩である松田甚次郎は、かつての大ベストセラー『土に叫ぶ』の巻頭で次のように述べている。
    一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
              <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
 ではそれは3月の何日か。それについては「校本年譜」(筑摩書房)に
三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   [?]pple
 2.30. for morioka 運送店
           <『校本宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)>
とあることからは、その日は昭和2年3月8日である言えそうだ。すなわち、松田甚次郎は友人須田と二人で昭和2年3月8日(火)の午前には旱魃に見舞われて困窮していた赤石村を慰問し、同日の午後には下根子桜の賢治宅を訪れていたと言えそうだ。
 ところが、『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)所収の「八二 師とその弟子」には、次のようなことがあたかもその光景を見ているかのように綴られている。
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
              <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年版)>
とすると、こちらの記述に従えば松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪れた日は大正15年12月25日のこととなりそうである。
 どうもおかしい。そこで私は、『新庄ふるさと歴史センター』を訪ねて松田甚次郎の日記を見せてもらったところ、大正15年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていた。
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
  人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
  明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
            <『大正15年 松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、賢治の盛岡高等農林の後輩である松田甚次郎はこの日(12月25日)は花巻にではなくて日詰に行き、大旱魃によって飢饉一歩手前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。南部せんべいを一杯買ひ込んで国道を南下しながらそれを子供等に配って歩いたのだろう。そして、盛岡に帰る際に12:17発の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛かったというようなことも記している。したがって慰問後は直接盛岡に帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしていた訳ではない。因みにこの日に購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことも確認出来た。その日記帳には金銭出納も事細かに書かれていたからである。
 というわけで、松田甚次郎本人のこの日の日記から、
(ア) 松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れていない。佐藤隆房著『宮澤賢治』には同日そこを訪れたと書いてあるが、それはフィクションである。
(イ) 松田甚次郎は大正15年12月25日に赤石村を訪れて慰問しているが、自身の著書『土に叫ぶ』では昭和2年3月8日に赤石村を訪れたかのように受け止められるような書き方をしている。しかしそれはこの日のことの記憶違いであろう。
と結論してよさそうだ。

当時の旱魃関連報道
 ところで、では松田甚次郎が赤石村を訪ねた頃『岩手日報』はどのように「旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた」のであろうか。以下に、12月の『岩手日報』の旱害関連報道の幾つかを揚げてみる。
【Fig.1 大正15年12月7日付『岩手日報』】

 村の子供達に やつて下さい 紫波の旱害罹災地へ 人情味豊かな贈物
(花巻)5日仙台市東三番丁中村産婆学校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙に添へて小包郵便が届いた文面によると
 日照りのため村の子どもさんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私が苦学してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので昼食持たぬ子供等に分配してやつた
尚栃木県から熱誠をこめた手紙をおくつて
 かん害罹災者の子弟中十四五歳の男子があつたら及ばずながら世話して上げます
と書きおくつた人もあつたいづれも人情味豊かな物語りで下河原さんは只世間の同情に対し感謝してゐた
この記事から推測されることは、赤石村を含む紫波地方の旱魃の惨状は岩手だけでなく広く知れわたっていたことである。それがどういう経緯で知れ渡っていったのかについては現時点では不明だが。
 そして、翌日の報道には
【Fig.2 大正15年12月8日付『岩手日報』】

 赤石村で わら工品改良 総会を開いて決定
紫波郡赤石村製筵生産組合では三日総會を開き組合規約を定めたが事務は赤石村農業倉庫内におき各大字に作業場を設置し…
というものがあった。旱魃救済策としての副業奨励の一環であったのだろう。そして、この頃からは毎日のように赤石村等の旱害被害関連の報道がなされている。おそらく松田甚次郎もこの一連の『岩手日報』の報道を見て心を痛めていたのであろう。具体的には以下のとおりである。
【Fig.3 大正15年12月10日付『岩手日報』】

 赤石村民大会を開く 旱害救済策を決議し村議十二名を実行委員に擧ぐ…來會者五百餘名
紫波郡赤石村にては十一日午前十一時当村小學校に於て旱害救済策確立のため村民大會開催司會者村議鎌田寅吉開會座長に助役山口泰治郎を推し開會し村議長谷川佐太郎、佐藤直文、玉山庄右衛門、滝浦丹次郎其他有志数名悲壮なる熱弁を以て救済方法を論弁し下河原村長の救済意見を徴収し左の決議案を??可決村議十二名を実行委員に推薦し悲壮のうちに午後二時参會した
   決議案
 先の事項を実現せんことを?す
一.速やかに旱害救済低利資金の供給を?す事
二.旱害地に対する縣税を免除せられん事
三.製筵製?機を貸與せられん事
四.副業を奨励し罹災者の生産品に対し其価格二割以上の補給せらる事
五.産業開発の為事業を起こし之が労役に從事せしむる事
六.救済に関し活動機関を設くる事
右決議す
【Fig.4 大正15年12月11日付『岩手日報』】

 金ヶ崎料理 組合の義捐 赤石罹災民へ
胆澤郡金ヶ崎料理屋組合では九日日詰警察署を経て紫波郡内の旱害罹災民に金十五圓を寄付した
【Fig.5 大正15年12月12日付『岩手日報』】

 商業高校 義捐金募集 本社通じて赤石罹災氏(ママ)
市内盛岡商業高校では今回本社赤石村罹災民義捐金品募集の報に接するや他校に率先し直ちに仝校教員学生に対し義捐金を募集したる処三十餘圓あつまつたが尚募集して仝村學校児童に送るべく十一日午后本社に届け出ずる筈である
 因みにその報、「本社赤石村罹災民義捐金品募集の報」の中身は次のようなものであったのだろう。
【Fig.6 大正15年12月13日付『岩手日報』】

 紫波地方旱害罹災民 慰問義捐金品募集
紫波郡を中心とする今年の大干魃は昨年に引き続いた未曾有の天災であつて、その惨状は日を追つてますます甚だしく見るに耐へないものであります。我々郷土を同じうするものはこの哀れなる隣人の生活苦を見て黙って居る譯にはまゐりません、こゝに罹災者慰問の義捐金品を集めて之を送り聯かなりとも同胞の義務人間の道を果たしたいと思ひます希くは縣民諸君、我々のこの意志を酌み取られて何分の同情をたれ玉はん事を伏してお願ふする次第であります。…
 今度は遠く東京の小学生からの次のような健気な寄付金が届いたという報道もあった。
【Fig.7 大正15年12月15日付『岩手日報』】

 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる数日前東京浅草区森下町済美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
 わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の學校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三圓だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど真心をこめた手紙だった。十二日黒沢尻中學校職員一同から十四圓の寄?贈あつたし同校教諭富沢義?氏から手工を指導し、製品の販路はこちらで斡旋するから指導に行つてもよい日時を教えてくれいとこれ又書簡で問ひ合せて來た。
 赤石村長等出縣陳情 
(日詰)下河原赤石村長及び助役は十三日出縣して縣當局並びに県會議員諸氏を訪問しかん害低利?融通を陳情し尚過般村民大會を開さいせる要項に就き諒解を求め午後帰村した。
 もちろん、地元でも義捐の輪は広がっていて
【Fig.8 大正15年12月16日付『岩手日報』】

 赤石村に同情
かねて労農黨盛岡支部その他縣下?産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の惨状義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締めきり日たる十五日には十二圓八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出発し悲惨な村民を慰めることなつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害惨状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販売しそのあがり高を全部、赤石小學校児童に寄付することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた。
ということであったり、
【Fig.9 大正15年12月20日付『岩手日報』】

 在京岩手學生会 旱害罹災者を慰問 學生先輩有志より拠金をして寄付
東京岩手學生会は紫波地方かん害罹災者慰問の計畫を建てその第一案として學生より拠金をする事第二案としては先輩有志より拠金する事になり今回状況調査のため明治大學生佐々木猛夫君来縣したなほ第三案として學生が縣の木炭を販売してその純益金を救済に向くべく決定し同上佐々木君は本縣の木炭業者に交渉する使命をもつて來たのであると佐々木君は語る
 かん害救済のことについては此のあひだ東京広瀬、田子、柏田の各先輩及び學生があつまつて相談をしましたが何れ実地調査してから積極的方法をとらふといふ事にきめました。學生の木炭販売は既に秋田學生会でも実行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の學生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
とあるように、在京学生も動き出し始めたりしているという報道もあった。
 なお、この記事に引き続いて次のような報道もなされている。
  紫波旱害に同情 一関青年有志が
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲惨なる状態に同情して一の関青年有志は本月十八日午後五時関?座に於て活動写真界を開催し純益金を赤石村村民救済資金として贈ることにした
 もちろん、県としてもその善後策を検討しているという次のような記事もあった。
【Fig.10大正15年12月21日付『岩手日報』】

    旱害善後策 協議會開かる けふ縣會議事堂にて
 そして、同紙面には次のような義捐があったとの報道もあった。
美しい同情 川口少年赤十字團より 赤石の生徒達へ
凶作のため困窮せる紫波郡赤石村の生徒達をあはれと思ふ一念から岩手郡川口少年赤十字團員四百名は豫てかゝる際の用意にもと昨年冬玄関を冒して氷運搬作業に従事して得た金の中を割きこの寒風に泣ける同輩を慰めんと十七日四百名を代表して村山仁の名によつて贈った
 旱害罹災者の元にはどんどん暖かい義捐が届くし、県でも次のような救済策を講じて、
【Fig.11 大正15年12月22日付『岩手日報』】

 縣が斡旋して 旱害罹災民を 縣外へ出稼ぎさせる
かん害の甚大なるに鑑み縣社会課は之が救助のための一策として縣外出稼ぎを大いに奨励する事となり二十日被害各町村における出稼ぎ人の希望者数を調査すべく町村長あて通牒を発した。即ちさきに縣下一般に亘って窮状調査を行つた結果被害が予想外に夥しく単に副業奨励のみでは救済出來ぬ有り様にあるので縣が斡旋して他縣におくり出す譯であるが之は二十五日までに各町村より報告になることになつてゐるから之が纏まり次第市職業紹介所と連絡をとり他縣に出稼ぎ人を多數におくり出し救済の一助とする事となつた
ということだから、赤石村の惨状は徐々に解消していくのかなと思ったのだが…翌日の次の記事を見て愕然とする。
【Fig.13 大正15年12月22日付『岩手日報』】

 米の御飯を くはぬ赤石の小學生 大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同労働組合吉田耕三岩手學生会佐々木猛夫両氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張したが、その要領左の如し
 一、役場
(イ)植付け反別は四百一反歩でかん害総面積は三百十五町歩、その中収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸数は百六十戸である(同村の総戸数は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出来る)このうち小作人の戸数は六十戸である。
(ハ)大豆は半作でその他の陸物収穫あったけれども一家の口を糊するにたらず
(ニ)同村の平年作は一万四千二百九十四石であるが今年度は八千百八十石減を見た。毎年七千石の移出米を出す處であるから村で食ふだけの米がないといふ事が出来る。以上の如くして六十戸の小作人は非常に苦しい生活を續けて居る。今度応急の救済方法として製筵機五十台をすえつけ生産に當たらしめてゐるのが一日の同収入僅かに三十銭に充たざるを以て衣食を凌ぐにたらず
 二、學校
全然昼飯を持参せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は昼飯を持参されぬ事を申出でゝ役場の救済をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又學用品を給與した者は十六人であるが、昼飯の内に麦粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
 罹災者二戸に就いて調べた処に依れば今年田八反歩を仕つけたが収穫はたゞ三俵である。その内一俵を小作米としてをさめた、ほかはもう食い尽くした。収入の途は炭俵を作って賣るも萱代縄代を差ひけば一つ三銭五厘位のものだから一日八ッを編んでも手に取る処幾ばくもない。しかも家族は七人ある。生活の惨憺たる事は想像以上である。他の一軒を見まはつたが同様全然収入なし、職業もないので炭俵を作って居た。シウトの家から縄をもらって居ると云ってゐたが、どんな御飯をくつて居るのかとのぞいて見たら大根六分砕けた米二分粟二分位なものであった。麦買ふ金もないのである。
 三、出稼
血気の若い衆は酒つくりに出稼ぎしたが、その送金を得ていくらか助かるのであらふが、これとても一月十圓を送れば関の山で罹災者の窮状は日を追うて劇しくなるだらう。
 特に、この記事の中の
    同村三分の一は米一粒も取れなかつた。
という旱害被害の酷さに吃驚してしまうし、學校にお弁当を持って行けない多くの子どもがいたことが哀れでならない。また、「六十戸の小作人は非常に苦しい生活を續けて居る」ということだが、この小作農家60戸は収穫がなかったとはいえおそらく小作料は払わねばならなっかと思う、一体どう対応したのだろうか。
 また、同紙面にはこの記事に引き続き次のような報道もあった。
 旱害救済のために 學生が炭売り 縣山林課で 木炭を提供する
在京岩手學生会が木炭を販賣してその純益を旱害救済に向くべく木炭提供の交渉のため代表者佐々木猛夫君が来縣したが二十日縣山林課を訪ひ交渉する處あつたが山林課でも之を快諾しさし当たり縣の倉庫に十車池袋組合倉庫にも相當あるので、之を提供する事となつたと來る二十六日ころ縣出身者三十名の學生が車を引いて炭賣りに歩くであらう
これは、先の在京岩手学生会の記事
   『佐々木猛夫君來県したなほ第三案として學生が縣の木炭を販賣
のその後を報道したものであろう。在京学生の社会正義に溢れる行為が清々しいし。
 ところで、大正15年の11月になって病状が極度に悪化し出していた大正天皇は、年の瀬も押し詰まったこの頃になるとさらに容体が悪化してきてそのことを気遣う報道が紙面の多くを占めるようになり、日本全体が重く沈んでいた。
 そのような年末、岩手では旱害罹災の著しい赤石村等への義捐が途絶えることがなかったようで、例えば、
【Fig.14 大正15年12月23日付『岩手日報』】

 米麦五石を 旱害罹災民へ 胆澤郡永岡村百岡報徳會から 本社を通じて 
胆澤郡永岡村百岡の報徳會は平素会員の人格修業につとめ民の融和をはかつて村の向上発展に努力して居るが此度紫波地方旱害罹災民の窮状を本紙によつて知り有志が相寄つて自作の米麦粟等約五石を纏め本社を通じて顧問方申し出られた本社にては直ちに右穀類を全部日詰警察署の奥寺署長へ御願して各罹災者の方々へ分配する事とした
 また、翌日の報道には
【Fig.15 大正15年12月24日付『岩手日報』】

 彦部消防組から 旱害罹災民へ 藁二千五百把と 金三十圓を贈る
紫波郡彦部村消防組より赤石村旱害罹災民に対して
 一、金三十圓
 二、藁二千五百把
寄贈があつた…
というものもあった。もちろんこの藁は、副業として奨励されている筵を作るための藁であろう。
 というわけで、たしかに松田甚次郎の言うとおりであり、当時の『岩手日報』から「毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた」ことがこれでよくわかった。だからおそらく、賢治の後輩の松田甚次郎はこのような連日の旱魃報道に心を痛め、居ても立ってもいられなくなって年の瀬の迫った25日(土)に友人と二人で赤石村を慰問していたのであろう(なお、松田甚次郎の日記に基づけば、松田甚次郎は赤石村を慰問した日を偽っていることになってしまうが、これはその日、大正15年12月25日は大正天皇が崩御(「大行天皇崩御」)した日なので、そのことを憚ったためであろうか)。

 では一方の松田の先輩である賢治は、この頃故里を離れて東京で一体何をし、何を感じていたのだろうか。残念ながらこの時に賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」ていたというわけだはなさそうだ。もしかすると、賢治はこの時の旱害の惨状を東京にいたので知らなかったということも考えられるが、「赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附」という義捐もあったくらいだから、東京でさえもこの時の岩手の「旱魃に苦悶する赤石村」等のことは結構知られていたとも考えられるのだが…。

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