みちのくの山野草

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「大正15年の賢治」の総括

2015-05-16 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
「大正15年の賢治」の総括はできたものの
 さて、巷間
 羅須地人協会時代の賢治は貧しい農民達のために己を犠牲にしながらも献身的に活動した。……①
といわれていると私は今まで思ってきた。
 一方、これで大正15年の賢治の総体のあらましを調べることができた。その結果、「大正15年の賢治」の総括がもちろんできた。
 「羅須地人協会時代」<*1>のうちの大正15年をここまで見てきた限りにおいては、それにふさわしいような賢治の活動は殆ど見られなかった。
と。
 となれば、私は今まで〝①〟といわれているとばかり思い込んでいたが、もしかするとそれは私の勝手な理解であったのかもしれないということになる。なんとなれば、大正15年を振り返って見て〝①〟に当てはまるようなものはせいぜい次の二つしか私には思い浮かばないからだ。
 その一つ目は、森荘已池宛葉書(書簡219)中の「二十二日の旧盆からかけて例の肥料の講演や何かであちこちの村へ歩かなければなりませんからお約束のお出でをしばらくお待ちねがひます」から推測される、直接農民に対して「肥料の講演」という具体的な活動を賢治がその頃に行ったであろうことである。そして二つ目が、11月29日に第一回目の羅須地人協会の講義を行ったことである(ちなみに、日にちがずれてはいるが、高橋慶吾が12月1日の会合に出てもいいかと賢治に訊いたところ、町の人は参観だけだといわれたという<*2>ことだから、農民のためという賢治の意識が強かったと思われるので)。しかし、一つ目は裏付けがあることでもない。また、これらの二つが実際に行われていたとしても、これだけでは〝①〟にふさわしい活動を賢治がしたとはもちろん言えないだろう。
 したがって、〝①〟は私の誤解だったのかもしれないとここに至って急に不安になり出したわけである。わけても大正15年は紫波郡内の大干魃があったのだから、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の賢治ならば、この時賢治は若い協会員を引き連れて義捐活動に東奔西走して、まさに〝①〟のような賢治らしさを遺憾なく発揮していたはずだと、私は今まで勝手に思い込んでいたということになるのかもしれないと。
 さてはて、ということは、私が今まで持っていた「羅須地人協会時代」の賢治像は虚像だったのか。いやいや、この年の12月末まではそうではなかったのだが「羅須地人協会時代」の残された期間、すなわち昭和2年~同3年の8月の間では前掲の〝①〟のような実践をしていた賢治だったのだろうか

斎藤たきちの論文「賢治は今どこにいるのか」
 (孫引きなので気が引けるが、今注文中なのでご勘弁を←その後入手できたので<*3>を参照されたし)
 川田信夫氏は『宮沢賢治・第六号』所収の論考〝「羅須地人協会」賢治と農民〟において、
 『星座』第四号(一九八三年 矢立出版)に、斎藤たきち氏が「賢治は今どこにいるのか」<*3>という論文を寄せている。「今日の賢治研究が、医学、教育学、農学他すべての学問研究に共通するように枝葉のように細分化され、統合することにおいて人間のしあわせに直接寄与することをやや忘れてしまっていると同じ思いに、かられているのである」、「賢治は研究者や物書きから解放されてもっと生活者の視座から論じられなければならない」と記し、
            <『宮沢賢治・第六号』(洋々社)69pより>
というように斎藤たきちの想いを紹介し、続けて
 (斎藤たきちは)一人の農民として賢治を読む立場から、賢治の生き方そのものを受け止めて、実践と研究の統一をはかることを強く望んでいる。確かに宗教・文学・科学などの分野から掘り下げていっても、それぞれ賢治独自の深い世界があって、それ自体に強い魅力がある。しかし、賢治が農村に入って実践活動を行った羅須地人協会の時代というものが欠落していたならば、私たちの受ける衝撃力は変質し、かつ弱いものになっていただろう。
と川田氏自身の見解を述べていた。
 私はこのことを知り半分はとても嬉しくなった、『そのとおりだよな、やはり斎藤たきちの言うとおり「生活者の視座から」もなんだよ』と。しかし、後の半分が不安になってきた。たしかに川田氏の言うとおり、「賢治が農村に入って実践活動を行った羅須地人協会の時代というものが欠落していたならば、私たちの受ける衝撃力は変質し、かつ弱いものになっていただろう」と私も思うのだが、肝心の「農村に入って実践活動を行った羅須地人協会の時代」のその「実践活動」が今のところ殆どといっていいほど見つからないからだ。いやそういうことではなくて、先ほども悩んだように、大正15年末まではそれが全くといっていいほど為されなかったのだが、明けて昭和2年からは全く見違えるようになっていったのだろうか…。
 当初は、私は「大正15年の賢治」だけを調べるつもりだったが、こうなった以上は「羅須地人協会時代」の残された期間も調べ続けねばならないようだ。川田氏がここで言っているところの「私たちの受ける衝撃力は変質し、かつ弱いものになっていただろう」はそんな意味で使っているわけではないが、私はこの言い回しを借りて、「ここで終えるわけにはいかない。ここで終わったのでは、私の受ける衝撃力は変質し、かつ弱いものになってしまう」からだ。

ここで終えるわけにはいかない
 私はこのシリーズの最初の方で、
 ではなぜ私は釈然としないのだろうか。少しく考えてみたところ、それは少なくとも「雨ニモマケズ…(略)…サムサノナツハオロオロアルキ」の中の幾つかの事柄はせめて実践してほしかった、とりわけ大正15年の紫波郡の大干魃の際にはほぼ飢饉に近い惨状にまで追い込まれていた農民の為に救いの手を「あの賢治」ならばせめて差し伸べてほしかったと実は思っていたからのようだ。
 どうやら、「サウイフモノニナリタイ」だけでいいのだろうか、それだけでいいわけなどないではないかと私は言いたがっているようだ。そこで私は、これから大正15年の賢治を探究してみることにした。
と述べて「大正15年の賢治」を調べ始めたのだったが、残念ながら、大正15年末までの「羅須地人協会時代」の賢治は後に「サウイフモノニナリタイ」と悔いるような実態でしかなかったと言わざるを得なさそうだ。
 当然、ここで終えるわけにはいかない。それでは気を取り直して、次回からは昭和2年1月以降の賢治を少しく調べてみよう。そうすれば本来の賢治が、巷間いわれているような賢治がそこに発見できるであろうと思われるので。

<*1:註> ここでいう「羅須地人協会時代」とは賢治が下根子桜の別宅に住まっていた時代のことであり、大正15年4月~昭和3年8月の2年4ヶ月のことである。
<*2:註> 『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和18)所収の「座談會」の中でK(高橋慶吾のこと)が、
 大正十五年十二月一日の會合に私も來ていいかと聞いたら、百姓本位の會合だから町の人はただ参觀してくれと云はれた。
           <『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社、昭和18)208pより>
と語っている。
<*3:註> 論文「賢治は今どこにいるか-思想の現在と研究視座の原初について-」 斎藤たきち
 今日の賢治研究が、医学、教育学、農学他すべての学問研究に共通するように枝葉のように細分化され、統合することにおいて人間のしあわせに直接寄与することをやや忘れてしまっていると同じ思いに、かられているのである…(投稿者略)…賢治は、研究者や物書きから解放されてもっと生活者の視座から論じられなければならない、というのが実感なのである。
              <『星座』第四号(一九八三年 矢立出版)39p~より>
 なお、同論文の中に気になった次のような個所があったのでそれもついでに投稿しておきたい。
 時代は確実に冬に向かっていた。社会主義という希望の灯が消され、自由主義者も非国民として圧迫の対象なったっとき、何を精神のよりどころにしてゆけばいいのか苦悩せざるをえない。とりわけインテリゲンチャにとっては、重く大きな問題であった。屈折した精神は、日本の風景やこころを賛美する浪漫派や、「転向ということが、単に政治上の主義や、政治的な組織からの離脱というようなことではなくて、さらに深い人間の精神の問題であること、それは求道の過程そのものであること。島木健作『生活の探究』について」という精神的位相によって、おのれの生の充足を合理化したものの、結果的に侵略思想の根を張る役目をしたことを歴史は明らかにしている。
 戦争に協力する勇気もなく、さりとて冬の時代に竿さす<ママ>こともできなかった人々が、精神の安らぎに求めたのは宮澤賢治を読み、そこの休息の場所を求めたように思えてならないのである。
              <『星座』第四号(一九八三年 矢立出版)37p~より>

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