みちのくの山野草

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「花巻空襲大火災」の航空写真の示唆

2016-09-11 08:30:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 上掲の【写真1】は、平成28年9月4日付『岩手日報』に載っていた「文學の國いわて」(道又力著)の188回〝~昭和戦中篇まとめ~〟の中の写真であり、昭和20年8月10日の花巻空襲による大火災の様子を撮った航空写真であるという。そこで、この航空写真に回転してみると大体下図【写真2】のようになる。
【写真2】

 一方、当該地区の地図を『YAHOO! Japan 地図』から抜粋してみると次の【写真3】ようになっている。
【写真3】

             <『YAHOO! Japan 地図』より>
よって、航空写真【写真1】において上の方に見えるのが北上川であり、右側で合流しているのが豊沢川であることがわかる。また、北上川に架かっている橋は朝日橋であり、そこから真っ直ぐ手前右下方向に一直線に延びている通りが下町・上町の通りであり、その両脇に火災の煙が東側になびいていることがわかる。私は、『やっぱり、もしかすると』と独りごちた。

 では今度は、その時の空襲によって戦災した場所を次の地図上で確認してみよう。
《図1 戦災焼失区域略図(斜線部分)》

           <『花巻が燃えた日』(加藤昭雄著、熊谷印刷出版部)より>
 そしてこの時の罹災の様子については、加藤昭雄氏の著書『花巻が燃えた日』や『あなたの町で戦争があった』(いずれも、熊谷印刷出版部発行)には、8月10日の花巻空襲に関しては以下のようなことなどが述べられている。
 1945年(昭和20年)8月10日の花巻は朝からじりじりと暑い日であった。
 8時半頃から艦載機が花巻町中心部上空にも姿を現すようになり空襲警報が発令され、以後11時頃まで空襲警報と警戒警報が間断なく繰り返された。後藤野飛行場などを攻撃する飛行機や燃え上がる黒い煙が見えて、いよいよ花巻も攻撃されるのではないかと町民は不安におののいた。10時半から11時頃には散発的ながら町内(花巻煉瓦工場)に機銃掃射が行われた。
 昼頃になって飛行機の飛来もなくなり、警報も止んでほっとしていた。ところが午後1時30分頃<*1>空襲警報がけたたましく鳴り響き、間もなく爆弾投下の地響き、頭上すれすれに飛ぶ飛行機の猛烈な轟音、激しい機銃掃射の連続音がこだました。花巻を攻撃したのは金華山沖に停泊中の米艦ハンコックから離艦したカーチスとグラマン計22機であり、攻撃目標は後藤野飛行場、花巻駅構内及び市街であったという。
 花巻駅前を中心に投下された500ポンド(約230㎏)爆弾18発が炸裂し、多くの建物が倒壊した。特に花巻駅は殆ど全壊した。また少なくとも32名が亡くなったという。
 また、似内駅では艦載機8機により、停車中の客車等が小型爆弾の集中砲火を受けて乗客5名が死亡したという。
 一方、花巻町中心部に落とされた爆弾は同じく500ポンド爆弾。ただし、その数は4発と少なかったが死者は10名、さらに上町の梅津金物店付近に落下した爆弾によって出火、折からの西風に煽られて瞬く間に燃え広がった。火災は出火場所の西側(鍛治町)へは全く移らず、東の方に瞬く間に広がった。その後も米軍艦載機姿を現したために消火もままならず、上町、下町、大工町、豊沢町、町裏の大半を焼き尽くし2日間に亘って燃え続けた。焼失戸数673戸(花巻町の20%弱)、被災世帯374世帯に達したという。

 つまり、出火地点は上町の「梅津金物店」付近(A地点)であり、出火地点は焼失区域のほぼ西端と言えるので、この時は「西風が吹いていた」と推定できるのだが、【写真1】からそのことは一目瞭然であり、この推定は正しく、「折からの西風に煽られて瞬く間に燃え広がった。火災は出火場所の西側(鍛治町)へは全く移らず、東の方に瞬く間に広がった」という記述内容が正しいこともこれで明らかになった。
 なお、焼失区域の北辺部分が不思議なことに一直線状になっている。そこで、現在の地図(下の《図2》)と比べてみると、
《図2 現在の花巻中心部》

              <『YAHOO! Japan 地図』より>
における焼失区域の「北辺部分」に相当する部分は太い実践と点線部分であるが、今は一部道路がなくなっている(上図楕円D部分)。そこで、おそらくここにもかつては道路があり、その一直線状の道路が延焼を防いだのではなかろうかと推理していたので、附近の種屋さん「盛岡屋」にお尋ねしたならば、たしかにその当時はそこには一直線状に細い道路があったということだった。ほぼ推理は正しかったようだ。

 さて、これで準備はできたので、話を最初の『やっぱり、もしかすると』に戻す。あの著名な「宗教学者」山折哲雄氏は『17歳からの死生観』において、おおよそ次のようなことを語っていた。
 中学2年生の(昭和20年)8月10日、200mぐらい先でダダダダ、ダダダダダと機銃掃射された経験がある。そのときの恐怖感といったらなかった。そして艦載機が去って後花巻の街が燃え始めた。
 その折、私の家(専念寺のこと:投稿者註)が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大するということで、消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った。そのおかげで、うちの寺は焼け残った。ところが、150mぐらいしか離れていない宮澤賢治の生家はこの花巻空襲で焼けてしまった。
 これが、その後の私の心の傷になっている。
              <『17歳からの死生観』(山折哲雄著、毎日新聞社)より>
 そこで私は、そうか山折氏にはそういう心の傷があったたんだ、と当初は受け止めたのだったが、この中の「150mぐらいしか離れていない」は実は計測してみると直線距離で約280mあり、山折氏が言っている150mの2倍弱もあった。しかも、この距離150mについては、『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)の対談の中にも出ていて、吉田氏がまず『専念寺と賢治の実家の距離は300mある』と述べているのだが、その後で山折氏は『本当は150mある』と吉田氏のその「誤り」を指摘している。ところが、実は間違っているのは山折氏の方であると判断せざるを得ない。
 また、山折氏は『遠野物語と21世紀東北日本の古層へ』所収の対談において、和田文雄氏の「ヒドリ説」を支持しながら、しかも和田氏の主張を一部誤解して対談を進めており、その上に、和田氏が「ヒドリ説」の根拠としている「南部藩の公用語」<*1>を山折氏はご自分で確認しないものだから、それを真に受けて対談を進めているなど、アバウトなことが多いことが私は気になっていたので、「その折、私の家が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大するということで、消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った……これが、その後の私の心の傷になっている。」もそのまま信ずるわけにはいかないと思っていた。

 それ故、今回のこの航空写真を見たことにより、私は『やっぱり、もしかすると』と直感したのだった。やっぱり、「私の家が焼けてしまうと火災の被害がさらに拡大するということで、消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った」をそのまま鵜呑みにはできないということを改めて確信したのであった。この時は、地理的位置と風向きからいって、専念寺は始めから延焼の虞は極めて少なかったのだ、と。それは実際に、松庵寺はこの時に焼失したが、ほぼ専念寺と同じ条件にあった光徳寺はそうではなかったということからももはや疑いようがない。
 つまり、「専念寺が焼けてしまうと火災の被害がさらにがさらに拡大するということで消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し」は事実とは異なっていたとか、あるいは、「消防団の方々がやって来て寺の周辺を全部破壊し、空き地を作った」理由は他にあったなどという可能性も検討されねばならないようだ。以上のような事柄などを、この「花巻空襲大火災」の航空写真は私に示唆してくれた。

 だから、著名な「宗教学者」であられる山折哲雄氏が、「これが、その後の私の心の傷になっている」などと、何もそこまでも公言しなくても良かったのにと、またしても私は思ってしまった。

<*1:投稿者> そしてそれどころか、和田氏の著書『宮沢賢治のヒドリ』において「ヒドリ説」の根拠としている「南部藩の公用語」の出典を和田氏自身が改竄しているのである。

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◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。

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