みちのくの山野草

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この頃賢治の心は古里になく

2015-05-15 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 12月に入り、ますますこの年の旱害被害の深刻さが日に日に明らかとなり、特に隣の紫波郡内の赤石村、不動村、紫波村などが未曾有の旱害罹災で多くの農家が惨状の極みにあるという報道がなされるとともに、陸続と差し伸べられる義捐の手が連日のように『岩手日報』等で報道されていたわけだが、賢治はこのことを知ってか知らずか、実質12月中はずっと滞京していたことになる。
 そしてその「状況」は、たしかに『新校本年譜』の記載どおり
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で練習、予習する、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓*67がそうである。
                <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)326pより>
ということだったのであろう。
 しかし、この当時の政次郎宛書簡によれば、
築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。〔書簡221〕12月12日付
おまけに芝居もいくつか見ました〔書簡222〕〔12月15日付〕
止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送〔書簡223〕〔12月20日前後〕
ということだから、オルガンやエスペラントのことはさておき、もし賢治が古里の惨状、とりわけ旱魃に苦悶する赤石村等のことを知っていたとするならば、巷間「貧しい農民のために己を犠牲にしてまでも献身したと言われている羅須地人協会時代の賢治」であるならば、普通これらの3項目やタイプライターの学習などはとりわけこの時には躊躇っていたであろう。まして、「第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました」などというようなことは父には言わずに我慢していたであろう。古里の農民達の惨状に思いをいたせば、そんなことにうつつを抜かしたり、差し迫って必要でないことをしたりするような時機ではないと、巷間いわれているような賢治であったならば判断していたはずだからである。まして大金の「二〇〇円」を無心してチェロを買うなどということは毛頭考えもしなかったであろう。ということからは、おそらく12月の賢治は古里のそのような農民達の大干魃による苦悶を知らなかったとも推測される。
 さりながら、それを知らなかったとすればそれはそれでまた大問題であり、賢治の社会的な認識の甘さや弱者に対する鈍感さが問われることになる。そしてそれ以上に、そもそも彼の稲作指導者としての知見と力量をもってすれば、この年は早い時点から、とりわけ紫波郡内の旱魃被害が甚大になるだろうということは予想できたはずであり、その危機感を賢治は抱いていなければならなかったはずだから、賢治そのものが問われることとなる。
 そして現実には、少なくともこの12月の賢治は巷間言われているような「賢治像」からは程遠い賢治となっていたと言わざるを得ない。この時賢治は古里を離れて約一ヶ月間滞京しながら、どう考えても喫緊の課題とは思われぬことをせねばならなかった理由は乏しく、巷間言われているような賢治であれば、上京などせずに古里に居続けて、未曾有の旱害罹災で多くの農家が惨状の極みにあった隣の郡内の農民救済のためにそれこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていなければならなかったはずだ。
 よってこれではっきりしたことは、
    客観的には、大正15年12月頃の賢治には古里のことなどは微塵も心にも頭の中にもなかった。
と結論せねばならぬということだ。もちろんこのような結論となってしまうことは悲しいことだが、これが当時の賢治の真実であったということを私達はそろそろ甘受せねばならぬのかもしれない。古里の多くの農民達の惨状を知ってか知らずか、一人暢気に「高等遊民」らしさを発揮していたのもまた賢治であったのだと、そろそろ私は認識を改める時機なのかもしれない。

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