みちのくの山野草

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約一ヶ月の滞京の目的は何だったのか

2015-05-13 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
その頃賢治一体何をしていたのか
 さて、地元の新聞は毎日のように旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた時に、賢治は古里岩手を離れて東京で一体何をして、何を考えていたのか。まずは上京後の賢治を『新校本年譜』で見直してみると、
一二月三日(金) 着京し、神田錦町三丁目一九番地、上州屋の二階六畳に下宿を決め、勉強の手筈もととのえる。
一二月四日(土) 前日の報告を父へ書き送る(書簡220)
一二月一二日(日) 東京国際倶楽部の集会出席(書簡221)
一二月一五日(水) 父あてに状況報告をし、小林六太郎方に費用二〇〇円預けてほしいと依頼(書簡222)。
一二月二〇日(月) 前後 父へ返信(書簡223)。重ねて二〇〇円を小林六太郎が花巻へ行った節、預けてほしいこと、既に九〇円立替てもらっていること、農学校画の複製五七葉額縁大小二個を寄贈したことをしらせる。
一二月二三日(木) 父あて報告(書簡224)。二一日小林家から二〇円だけ受けとったこと、二九日の夜発つことをしらせる。
となっている。ということは、賢治は12月に花巻に居た日はせいぜい12月1日~2日、12月30日~31日の4日だけであったと言えそうだ。その頃の賢治が紫波郡の旱害の惨状をどれだけ認識していたかは知る由もないが、この賢治年譜から判断する限りでは、殆ど気になっていなかったことだけは確かだろう。なぜなら、年譜の12月分にしばしば出てくるのはそのような惨状とは程遠い、「二〇〇円」もの大金の無心に関わることだからだ。
 こうなると不思議に思えてくるのは、一体この時の約一ヶ月間にわたる滞京の目的はそもそも何だったのだろうかということである。この滞京中の状況について『新校本年譜』は、
 なお上京以来の状況は、上野の帝国図書館で午後二時頃まで勉強、そのあと神田美土代町のYMCAタイピスト学校、ついで数寄屋橋そばの新交響楽団練習所でオルガンの練習、つぎに丸ビル八階の旭光社でエスペラントを教わり、夜は下宿で練習、予習する、というのがきめたコースであるが、もちろん予定外の行動もあった。観劇やセロの特訓*67がそうである。
               <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)326pより>
と述べていて、境忠一はその目的について、
 羅須地人協会のために、エスペラント、オルガン、タイプライターを学習することが主な目的であった。
               <『評伝 宮澤賢治』(境 忠一著、桜楓社)281p>
と断定している。
 がしかし、はたしてそうだったのだろうか。境がその根拠を明示していない以上、それは違うのではなかろうかと私は言わざるを得ない。冷静に見て、ようやく始めた羅須地人協会の活動と思われる最初の講義をし、定期の集りを開いたというのに、その翌日そそくさと古里を離れてこの時期わざわざ「エスペラント、オルガン、タイプライターを学習」することが、貧しい農民のために己を犠牲にしてまでも献身したと言われている賢治には即は繋がらないことは明らかだからだ。よって、それが「羅須地人協会」のためだったという堺の判断は私には肯うことができない。貧しい農民を救うことに繋がらないような「羅須地人協会」であったならばその存在意義は協会員にとっても、近隣の貧しい農民にとっても極めて薄いのではなかろか、とついつい思ってしまう。

当時の政次郎宛書簡
 そこで、そのあたりを探るために、この年の12月の賢治の書簡を少し眺めてみたい。
〔書簡221〕12月12日付 政次郎宛
 …それが尽く物質文明を排して新しい農民の文化を建てるといふ風の話で耳の痛くないのは私一人、…(略)…早速出掛けて行って農村の問題特にも方言を如何にするかの問題を尋ねましたら、向かふも椅子から立っていろいろ話して呉れました。
いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。どうか遊び仕事だと思はないでください。遊び仕事に終るかどうかはこれからの正しい動機の固執と、あらゆる慾情の転向と、倦まない努力とが伴ふかどうかによって決まります。生意気だと思はないでどうかこの向いた方へ向かせて進ませてください。実にこの十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果を与へました。エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と言語の記録と築地小劇場も二度見ましたし歌舞技座の立見もしました。これらから得た材料を私は決して無効にはいたしません、みんな新しく構造し建築して小さいながらみんなといっしょに無上菩提に至る橋梁を架し、みなさまの御恩に報ひやうと思ひます。どうかご了解をねがひます。
〔書簡222〕〔12月15日付〕政次郎宛
  …音楽まで余計な苦労をするとお考へではありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。
〔書簡223〕〔12月20日前後〕政次郎宛
 次に重ねて厚かましくは候へ共費用の件小林氏出花の節何卒二百円御恵送奉願度過日小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候 農学校贈品の儀は私も誠に困惑仕候へ共校長白藤氏の前例も有之止むなく先日名画複製品五十七葉額椽大小二個発送致候
〔書簡224〕12月23日付 政次郎宛
 調べもだんだん片附いてやうやう重荷も下りたやう手足も自由になったやうな気がいたします。
小林様から一昨日内二十円だけいたゞきました。
次一年の仕度をすっかりして二十九日の晩にこちらを発って帰って参ります。
そちらは今年は大へんな雪とのことですがどうか皆様お大切にねがひあげます。
              <いずれも『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>

当時の書簡から窺えること
 よってこれらの書簡によって推論する限りは、「羅須地人協会」をどう定義するかによって意見の分かれるところではあろうとも思えるが、常識的に言えば、このときの約一ヶ月にわたる滞京は
 羅須地人協会のために、エスペラント、オルガン、タイプライターを学習することが主な目的であった。
とは判断できないのではなかろうか。なぜならば、これらの書簡はいずれも皆父政次郎宛であり、賢治の本音が綴られていたであろうことに鑑みれば、これらの書簡の中にそのようなことがその目的であったということを直截裏付けている部分はないからである。
 具体的には、
・農村の問題特にも方言を如何にするかの問題を尋ねました
・私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました
・先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
・音楽まで余計な苦労をするとお考へではありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。
等と父に語っているのだから、賢治自身が父に伝えていたところのこの時の滞京の主たる目的は「羅須地人協会」というよりは、またもちろん貧しい農民達のためというよりは、賢治自身の創作のためであったと判断するのが自然だし妥当だろう(しかも実際には、「羅須地人協会」が存在する以前に既に素晴らしい心象スケッチも童話も賢治は創作していたのだから、賢治自身が父に対して「創作のため」と語ってはいるものの、それが本音ではなかったということさえも考えられるのだが)。
 あるいは、境の判断どおり、「エスペラント、オルガン、タイプライターを学習」は「羅須地人協会」のためだったとしても、これらの書簡を眺めてみた限りにおいては、その学習の目的はそれほど高邁なものでもなければ、はたまた、喫緊の課題を解決するためのものでもなかった、としか私には思えなくなってしまった。どうも、そこには賢治の「高等遊民」性が垣間見られてしかたがない。それは、「先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました」という「嘘」が如実に物語っているはずだ。なぜならば、賢治のオルガン演奏の技量ががどれほどのものであったかを証言している音楽教師・藤原嘉藤治のある証言等を知ればそれは直ぐ判るし、自分の技量がいかほどのものであったかは賢治自身がよく自覚していたはずだ。
 言い方を換えれば、いろいろな人がその時の滞京目的を語ってはいるようだが、それは後々の人の後付けに過ぎず、実は、賢治は熟慮を重ねた上でしっかりと計画を立ててこの時上京していたわけだはなさそうだ。もしかすると、その第一の目的は古里を離れて、前々から願っていた東京での生活を久々にしてみたかったからだということさえも否定できなくなってしまった。それは、この頃に古里がどういう状況に置かれていたかということを知ってしまった私からすればなおさらにである。

 さて、はたしてそうだったのかどうなのか、そのリトマス試験紙となりそうなのがどうやら「二〇〇円」の父政次郎への無心のようだ。

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