みちのくの山野草

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改竄されていた澤里武治の証言

2015-05-11 09:00:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
矛盾のある『宮沢賢治物語』所収「セロ」
 さて、前掲した
(2) 『宮沢賢治物語』(昭和32年)所収の「セロ」
  セロ
    澤里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
 「上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る。」
 と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(投稿者略)…その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました…
             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年8月発行)217p~より>
についてだが、私は極めて違和感を感じた。なぜならばそこには決定的な矛盾がある。
 というのは、「昭和二年には上京して花巻にはおりません」と述べておきながら、その後で、
 その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
となっているからだ。つまり、一体この時に賢治は「上京して花巻にはおりません」だったのか、それとも「その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日」に上京したのだがそれまでは花巻にいたのか、はたして花巻にいなかったのかいたのかそのどちらだったのか決められないからだ。

新聞連載の場合は矛盾なし
 実はこの『宮沢賢治物語』は前年に『岩手日報』に連載された「宮澤賢治物語」を単行本化したものであり、前掲の(2)に相当する部分は昭和31年2月22日付『岩手日報』に載っていてそれは次のようなものであった。
(3) 「宮澤賢治物語(49)」(昭和31年)
  宮澤賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
   …(投稿者略)…
その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…
             <昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>
 もちろん、こちらの文章ならばよくわかる。
 そのとき私(澤里武治)が見せられた賢治年譜では「昭和二年には先生は上京しておりません」となっていますが、私(澤里)は「どう考えても昭和二年の十一月ころ」の「びしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日」に上京する賢治を一人見送ったのです。
ということになるから、こちらの新聞連載の「宮澤賢治物語(49)」の方であれば澤里武治の証言内容は前後の辻褄がぴったりあって、矛盾は生じない。澤里武治はその時に見せられた賢治年譜がおかしいと疑問を呈していたわけである。そしてそれは、関登久也の新聞連載の中で語られていることだから、
 関自身もこの時澤里が見せられた賢治年譜はおかしいと思っていた。
ということも自ずから導かれるだろう。
 なお、当時公になっていた賢治年譜の殆ど全てに、昭和二年の
    九月、上京、詩「自働車群夜となる」を創作す。
というように記載されていて、昭和二年には少なくとも一回は上京しているというのが通説であったようだ。それ故にか、当時の賢治年譜で「昭和二年には先生は上京しておりません」となっているものは、私が調べてみた限りでは一つも見つからない。だから、澤里がこの時見せられた賢治年譜は、当時公になっていたものとは違った年譜であったということになる。さて、はたして誰がこのような賢治年譜を澤里に突きつけたのだろうか。ちなみに、この記載「九月、上京、詩「自働車群夜となる」を創作す」が以後全く記載されなくなったのは、たまたまなのだろうか、ちょうど政次郎が亡くなった後からである。言い換えれば、次に直ぐ述べることだが、澤里武治の証言が改竄された『宮澤賢治物語』が発行された年以降からである。

書き変えられていた澤里武治の証言
 それにしても瞥見するとよく似ているが、この二つ(2)と(3)の間には次のような違いがあり、
(2)の場合:昭和二年には上京して花巻にはおりません
(3)の場合:昭和二年には先生は上京しておりません
ということだから、落ちついて読むとこの二つは180度違うことを意味していることがわかる。すなわち、
(2)の場合:賢治は昭和二年には花巻にはおりません→すなわち、賢治はこの時花巻におりません。
(3)の場合:賢治は昭和二年には上京しておりません→すなわち、賢治は上京していません(ので花巻におります)。
というわけである。そしてもちろん、後者の(3)の場合であれば、澤里武治の証言はすんなりと繋がる。
 さりながら、この(2)が単なる校正ミスとは到底思えない。なぜならば、新聞連載と単行本を読み比べてみると、その他の個所には決定的なこのような違いはなかったからである。決定的な違いはここのみだったからである。
 それにしても、なぜこんな違いが起こったのだろうか。そのことを暫く訝っていたところ、私はその裏に改竄があったことを確信した。それを示唆してくれたのが、他でもない『宮澤賢治物語』の次のような「後がき」だった。
 「宮沢賢治物語」は、岩手日報紙上に、昭和三十一年一月一日から同年六月三十日まで、百六十七回にわたつて連載された。歌人であり賢治の縁者である関登久也氏にとつて、この著作は、ながい間の懸案であつた。新聞に掲載されるや、はたして各方面から注目されるところとなつた。完結後、単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸いとして、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼していたということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏におねがいし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。本のカバーは賢治の詩集『春と修羅』の装幀図案を再現したものである。
               (出版局・栗木幸次郎記)
            <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年 8月発行)288pより>
 ということは、同書が上梓される前に関登久也は急逝してしまったので最後の方の段階では他の人が整理、編集して出版したということになろう。どうやらその際に、関登久也以外の誰かの手によって関の記述が一部意図的書き変えられた、すなわち、澤里武治の証言の次の
     「昭和二年には先生は上京しておりません
の部分を、誰かが悪意をもって
     「昭和二年には上京して花巻にはおりません
と改竄していたということを私は知るところとなり、そのようなことが宮澤賢治に関するものにおいて密かに行われていたのだということを認めざるを得ないので、その改竄に対して私は静かなしかし強い憤りを覚えた。それにしても、ずる賢くてあざといことだ、と。またその一方で私は、物書きを生業としていた関登久也が「昭和二年には上京して花巻にはおりません」などというような、後で矛盾を来すような書き方をしていた訳ではなかったのだと安堵もした。そして、先に揚げた関登久也の(4)『續 宮澤賢治素描』及びその生原稿(5)における澤里武治の証言にも矛盾がないことを確認して安堵した。

早急に誤りを正されたし
 したがって、(2)『宮澤賢治物語』所収の「セロ 沢里武治からきいた話」は関登久也以外の誰かの手によって改竄がなされていたことはもはや明らかだから、賢治年譜の典拠としてはこれは安易には使えないだろう(逆に、森荘已池が『願わくは、多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい』と言いたかった真の理由も私はここに至って初めて判った気がした)。
 また、なぜ改竄したのかその理由だが、現時点ではその理由は私にはしかとはわからないが、少なくとも「澤里武治氏からきいた話」が正確に伝わらないように攪乱することを目的としていたことは明らかだし、昭和二年の11月頃から3ヶ月間ほどチェロの上達を目指して賢治は滞京していたが、そのせで病気になって帰花したということを知られたくなかったためであったということだけはこれで明らかだろう。
 またもちろん、この改竄の他へ及ぼす影響はすこぶる甚大であり、もし澤里武治の証言に従うとするならば、そして実際澤里武治の証言に基づいていると「見られる」とかたっている『新校本年譜』としては、その大正15年の12月の部分、及びその昭和2年の11月からの約3ヶ月間についてはそれぞれ根本的に見直さなければならないし、この部分に相当する現通説は実はかなり信憑性が危ぶまれるものであるということだけはこれで何人も否定できなかろう。ひいては、『新校本年譜』はその信頼性が揺らぎかねないので、早急にその対応をなされんことを、そして早急に誤りを正されんことを私は望む。

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