みちのくの山野草

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『高橋末治日記』

2015-08-09 08:30:00 | 大正15年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 高橋末治は当時日記を書いていたことは知られていて、例えば名須川溢男の論文「賢治と労農党」において、
 高橋末治(花巻市堰田、明治三十年生)は「組内の人六人宮沢先生に行き地人会を始メたり我等も会員と相成る。」(昭和二年二月四日)と日記につけている。
              <『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)より>
と述べている。そこでこの日記を見せてもらいたいものだと思ってある時、私は鍋倉付近を彷徨いて高橋末治の生家を捜し回ったものだが結局見つからなかった。
 その後、たまたま手に取った『宮沢賢治 童話の宇宙』の中にもこの名須川の論考「宮沢賢治とその時代」が所収されていて、その「注」としてなんと『高橋末治日記』の賢治関係の記事が掲げられていた。その中で特に日付がピッタリと一致したものがあったのでそれを以下に掲げる。
 大正十五年九月二十三日 晴天
 宮沢先生わざわざ稲見に来られました
              <『宮沢賢治 童話の宇宙』(栗原敦編、有精堂)>
 さてこの日付「大正15年9月23日」が何の日と一致するのかというとそれは、賢治の詩
    〈七四〇 秋
の日付
    「一九二六、九、二三、
とである。
 そういえば、高橋末治の家は鍋倉の堰田であり、あの一帯も「上鍋倉」と言える。しかも彼は寶閑小学校の卒業生であったはずだ。そうか、この詩に書いてあるとおり賢治はこの日上鍋倉にたしかに行っていたのだ。 

 そして例えば、
 鍋倉に百四十五名の生徒がゐる寶閑小學校といふのがあります。
 早春まだ雪の消えない頃、そこへ村の人達が集つて賢治の農事講演会聽きました。農村では宮澤先生と云へば非常に評判が良いので忽ち人が集まります。
             <『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版)6pより>
 あるいは、
 その頃(大正一三、四年)は農会主催の講習がよくありました。各種の比較試作もさかんに行われていました。
 宮澤先生は、その農會の依で、寶閑小學校へおいでになったのでしょう。肥料設計についてお話しをされました。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44)275pより>
ということだから、当時の賢治は「上鍋倉」あるいは寶閑小学校にかなりの回数行っていたということを私は改めて確信したし、これは寶閑小学校の先生をしていた高瀬露が少なからず影響していたであろうという推測もあながち否定できないということも同様にである。それは、このようなことが他の小学校に関しては伝えられていないからでもある。まあ、それは私の管見故かもしれないのだが。

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