《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
上田哲は論文「「宮沢賢治伝」の再検証(二) ― <悪女>にされた高瀬露―」の中で、高瀬露の同僚の菊池映一氏の次のような証言を紹介している。
露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p>よって、
露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏までだったという蓋然性が高い。……①
と言える。そこでこのことの裏付けを次に探してみよう。
(1) 『賢治研究6号』には、高橋慶舟著「賢治先生のお家でありしこと」という論考が所収されていて、
雪消えた五月初めのころ宝閑小学校の女の先生の勧誘で先生のお家を訪れました。
小生は二階で先生と話しを致しており、女の先生は下で何かをしておりました。その時農家の方が肥料設計を頼みにまいりました。設計書を書き終わり説明をしているとき、下から女の先生がライスカレーを作っておもちになり、どうぞお上がり下さい下さいとお出しになされたその様子はこゝのお家の奥様が晝時になって来客に心利かせてすゝめる食事の如く、飛び上がるばかりに驚いたのは、外ならぬ先生なり。まづどうぞおあがりくださいと、皆にすゝめてたべさせて、私には食う資格はありませんと遂におあがりになりませんでした。それでお作りになった女の先生は不満やるかたなく、隅にあったオルガンをおひきになりました。それを聞いた先生は、トントンと二階からおりて、二階の板に片手をかけ、階段一二の上に足をとどめて、おりきらないまゝ先生は口を開くのです。今はまだ農家の方は野外で働いている時間です。どうかオルガンをひかないで下さい、と制せられるのでありました。
<『賢治研究6号』(宮沢賢治研究会)27p~>小生は二階で先生と話しを致しており、女の先生は下で何かをしておりました。その時農家の方が肥料設計を頼みにまいりました。設計書を書き終わり説明をしているとき、下から女の先生がライスカレーを作っておもちになり、どうぞお上がり下さい下さいとお出しになされたその様子はこゝのお家の奥様が晝時になって来客に心利かせてすゝめる食事の如く、飛び上がるばかりに驚いたのは、外ならぬ先生なり。まづどうぞおあがりくださいと、皆にすゝめてたべさせて、私には食う資格はありませんと遂におあがりになりませんでした。それでお作りになった女の先生は不満やるかたなく、隅にあったオルガンをおひきになりました。それを聞いた先生は、トントンと二階からおりて、二階の板に片手をかけ、階段一二の上に足をとどめて、おりきらないまゝ先生は口を開くのです。今はまだ農家の方は野外で働いている時間です。どうかオルガンをひかないで下さい、と制せられるのでありました。
ということだから、あの有名な「ライスカレー事件」は昭和2年の「雪消えた五月初めのころ」であったという蓋然性が高そうだ。
ところでこの高橋慶舟なる人物だが、当時このようなことを知っているのは賢治周辺の人物だろうから、すぐに思い浮かぶのは「最初に先生のところに連れて行つたというのが私です」と言っている(『イーハトーヴォ創刊号』4p)高橋慶吾と思われる。すると関連して思い浮かぶのは、
(2) 昭和2年6月9日付慶吾宛て高瀬露書簡であり、小倉豊文によれば、
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生は「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113p>としたためられているという。そこでこの文面に従えば、6月9日よりかなり前までであれば賢治と露の二人はとてもよい関係にあったのはずだが、この時「宮沢先生ノ所デタクサン讃美歌ヲ歌ヒマシタ」ということであれば、客観的には二人の間はこの時点までだってそれ程関係は悪くはなかったはずだ。ところがこの時に、賢治は「女一人デ来テハイケマセン」と言ったようなので、この時から露に距離を置くことを本人に宣言したと言える。そして一方、露の方はその後の自分の対応の仕方を「アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ」と書き添えているから、その傷心ぶりが伝わってくる。となれば、これまた思い浮かぶのは賢治の詩
(3) 〔わたくしどもは〕であり、それは
一〇七一 〔わたくしどもは〕 一九二七、六、一、
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壼にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)>わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花があまり美しかったので
二十銭だけ買ってうちに帰りましたら
妻は空いてゐた金魚の壼にさして
店へ並べて居りました
夕方帰って来ましたら
妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました
見ると食卓にはいろいろな菓物や
白い洋皿などまで並べてありますので
どうしたのかとたづねましたら
あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです
……その青い夜の風や星、
すだれや魂を送る火や……
そしてその冬
妻は何の苦しみといふのでもなく
萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました
というようなものだ。
この日付「一九二七、六、一、」の一週間ちょっと後の前掲の6月9日付書簡の内容と比べてみれば、賢治が「ちゃうど一年いっしょに暮しました」と詠っている「その女」に対する素っ気なさが見られので、この詩の「その女」とは露のことではなかろうかと私には見えてくる。しかも、賢治は他人事のように「萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました」と詠んでいるし、この「萎れるやうに」の一言からは、賢治の心の内はなおさらに透けて見える。
そして最後にもう一つ、
(4) 『宮澤賢治』(佐藤隆房著)所収の、
七八 女人
櫻の地人協會の、會員という程どではないが準會員という所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
と、集まつてくる男の人たちにいひました。
「ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。」
と皆もいひ合ひ、
「その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に賴めばいゝと思ふ。どうだね。」
と賢治さんも期待を持つてをりました。
ところで、その内田といふ人は、自分が農村の先生でもあるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、便利といつては變だが、やつぱりさういう都合の好い會員でした。はじめは單に賢治さんの仕事の協力者、とふうところで滿足してゐたやうですが、そこが女性で、だんだん賢治さんを思慕するやうになりました。一日に二囘も三囘も訪ねて來、逆にの者や會員の者はいろいろと氣を廻はして、來る足が遠くなつて來ました。
賢治さんも、結婚といふやうなことも考へたこともあるのでせうが、弟子の田中悦次君や藤井皓一君などに、
「農村にゐて、土を耕してゐたつて詩も出來る。それには身體のうちに持つて居るエネルギーの、たゞの一滴でも外のことに浪費してはいけない。」いつて聞かせてゐました。そんな譯で、當惑しきつた賢治さんは、その女人が來ると顏に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりしてゐました。然し相手の人に何らの期待すべき、疎隔的態度も起りませんので、遂には「今日中不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞をしました。(昭和2年頃)
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)>櫻の地人協會の、會員という程どではないが準會員という所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。
内田さんは、村の小學校の先生でしたが、その小學校へ賢治さんが講演に行つたのが緣となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。
來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
と、集まつてくる男の人たちにいひました。
「ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。」
と皆もいひ合ひ、
「その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に賴めばいゝと思ふ。どうだね。」
と賢治さんも期待を持つてをりました。
ところで、その内田といふ人は、自分が農村の先生でもあるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、便利といつては變だが、やつぱりさういう都合の好い會員でした。はじめは單に賢治さんの仕事の協力者、とふうところで滿足してゐたやうですが、そこが女性で、だんだん賢治さんを思慕するやうになりました。一日に二囘も三囘も訪ねて來、逆にの者や會員の者はいろいろと氣を廻はして、來る足が遠くなつて來ました。
賢治さんも、結婚といふやうなことも考へたこともあるのでせうが、弟子の田中悦次君や藤井皓一君などに、
「農村にゐて、土を耕してゐたつて詩も出來る。それには身體のうちに持つて居るエネルギーの、たゞの一滴でも外のことに浪費してはいけない。」いつて聞かせてゐました。そんな譯で、當惑しきつた賢治さんは、その女人が來ると顏に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たりしてゐました。然し相手の人に何らの期待すべき、疎隔的態度も起りませんので、遂には「今日中不在」と書いた木札を吊すなどして、思はぬ女難に苦勞をしました。(昭和2年頃)
がある、特に最後の「(昭和2年頃)」だ。つまり、賢治は露に対して「顏に灰をつけたり、一番汚い着物を着て出たり…(略)…遂には「今日中不在」と書いた木札を吊す」などという奇矯なことをして拒絶をしたのは昭和2年頃のことであったと言えそうだ。
となれば、先の〝①〟は(1)~(4)により、
露の下根子桜訪問期間は大正15年秋~昭和2年夏までだったということの蓋然性は極めて高い。……①
と書き直してもよいであろうことがこれで導かれる。
一方、「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中において、
又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
<平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」>と、ちゑはしたためているのだが、この中の「私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で」に従えば、伊藤ちゑと兄七雄が見合いのために花巻を訪ねた時期は、「大島に私をお訪ね下さいました」前の秋だったということになる。
しかもある著名な賢治研究家が、清六から直接聞いたことだがと断った上で、
伊藤兄妹が賢治との見合のために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
と私に教えてくれた。
よって、
伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であったという蓋然性が極めて高い。……②
と言える。<*1>
するとここまでのことから、私は以前から持ち続けていた大いなる疑問、
どうして、露にはそうされる客観的な根拠もなく、これ程までに一方的に〈悪女〉でっち上げられたのだろうか、その理由がわからない。
があったが、その理由の一つの可能性が見つかる。それは、先の①と②の時間的なズレから示唆されることだ。ただし、以下のことはあくまでもその可能性を探るためのものであり、事実がこうだと主張したいわけではなく、単に、論理的にはそのようなことも成り立ち得るというだけの話であることを申し添えておく。したがって、以下のことはしょせん思考実験である。**************************〈思考実験〉***************************************
さてではその「その理由の一つの可能性」とは何か、それは、露が下根子桜訪問を遠慮し出したのは昭和2年の夏から。
であると考えられるということと、
伊藤兄妹が賢治との見合のために昭和2年10月に花巻を訪れた。
という証言内容との、時間的な推移から気付くことである。
もう少し具体的に言えば、巷間、賢治は露を拒絶するために先に述べたような奇矯な言動をしたといわれている。しかも、昭和2年10月に見合のためにちゑが花巻を訪れたのだから、それ以前に見合の話は既に進んでいたと考えられる。となればこの時間的な流れはあまりにも合いすぎているので、常識的に有り体に言えば、
昭和2年の6月頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていたのだが、賢治はちゑとの見合話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するようになっていった。
という可能性である。ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
大島では、肺病む伊藤七雄のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)>というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と賢治は語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
伊藤さんと結婚するかも知れません
とほのめかし、ちゑのことを
ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)>
と語ったということだから、ちゑと結婚することを賢治はその当時結構真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていたと言える。
そういえば、その頃のちゑは二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていたというし、しかもちゑはモダーンな美人であったとも聞くから、そのようなしかも東京に住むちゑに、東京好きの賢治が惹かれることは無理もない。
しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合のために花巻に一度は来た<*2>ものの、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかったという。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になって初めて覚った蓋然性が高い。まさに、10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒と考えられるからだ。
そしてもちろん、このような次第だから賢治が露を〈悪女〉にでっち上げる理由など何もない。したがって、当然それは賢治以外の人物がそうした。それは、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像はそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。言い換えれば、父政次郎から厳しく叱責されたことがたしかである賢治の奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない悪女に仕立てるしかなかったのである。露は、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で、犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪である。
**************************〈思考実験終了〉***************************************
以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的なも根拠もないままになぜ露がとんでもない悪女にでっち上げられたのかの理由が、一通りは説明がつく。言い換えれば、有力な次のような仮説がここに立てられる。 露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」はちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。
とはいっても、この仮説の検証は現時点ではちょっとむずかしそうだ。賢治宛の露書簡等が公にされれば別だが。なお重ねて言うが、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったかもしれないが、もちろん賢治が露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共にまずなかろう。そうではなくて賢治周縁の誰かが、賢治のために良かれなどとと思って行ったことなのかもしれないが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を貶め名誉を傷つけてしまった許されざる行為である(この点に関しては拙論「聖女の如き露」である程度明らかにできたはずだ)と、私は強く抗議したい。
<*1:投稿者註> 昨今、伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は「昭和3年の春である」という説が独り歩きし始めているようだが、この書簡による限り、それは「昭和3年」でもないし「春」でもないと言えそうだ。
<*2:投稿者註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
続きへ。
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“『常識でこそ見えてくる賢治-検証「羅須地人協会時代」-』の目次”
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)
なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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