みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

伊藤整と岡本弥太の伝える「面会謝絶」(中編)

2019-02-28 16:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

白鳥省吾記念館訪問
 さてこれらの真偽のほどが気になった私は、宮城県の築館町(現栗原市)にある白鳥省吾記念館を訪れた(平成23年3月1日)ことがある。そしてそこの学芸員の方に、
 「大正15年7月25日に千葉恭という人物が、翌日白鳥省吾が宮澤賢治宅を訪問するという約束をしていたのだがそれを断りに行ったと言われています。一方白鳥省吾は花巻の賢治の許を訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もあると聞いております。本当のところはどうなんでしょうか、教えていただきたいのですが」
とお願いしたのだが、残念ながらそのようなことに関しては分からないということであった。たしかにこの件は白鳥省吾にとってはあまり好ましいことではないはずで、いままでもそのことが真正面から取り上げられることがなかったに違いないと察して、記念館を後にした。
白鳥省吾の詩
 なお、築館町では『白鳥省吾の詩と生涯』という本を入手出来たのでその中に載っている彼の詩を何篇か挙げてみたい。

   小作人の子
小作人の善作の子が
あばら家で泣いてゐるのが通りから一目で見える
爐のほとりの板敷一間は
彼等の臺所であり寝室であり
土間にはいつぱいの馬鈴薯が轉げて居る
彼等の唯一の財産のやうに。
    …(略)…
けれども善作夫婦は働いても働いても抜けきれぬ貧乏
その夫婦ものゝ生んだ子供は
がらんとしたあばら家でわいわい泣いている。
「樂園の途上」

    地 主
まつぴるま
小作人の平助は
厩で馬の糧切りだ
大きな押切りの音が
ザックン、ザックン。

ふところ手の地主が
ひよつくらやつて來た
中ぶとりの顔がほろ醉きげんだ
平助は見て見ぬふりをした。

平助の嚊は縹緻よし
地主はないない可愛がる
今日も障子の破れ目から
地主の來たのを覗いてみたが……。

平助は默つて
厩で馬の糧切りだ
大きな押切りの音が
ザックン、ザックン。

やがて地主は歸つて行く
平助は見て見ぬふりした。
平助の嚊は囲炉裏ばたで
鬢のほつれをかきあげた。
    …(略)…
「共生の旗」

   美しい國
見渡す限り田と畑と
その中を輝き流れる大河と
遠く起伏する山脈と
晴れやかの靑空と
爽やかの微風と
それらの中に立つて
人生がどうして不幸であると思へよう。
    …(略)…
おお美しい山河は
あり餘るものを生産しながら
人間を少しも幸福にしてゐないやうに見える、
されば凡ての人が樂しく勞働し生活に歡喜を感ずるようにと
ロバアト・オウエンは『協和共力の村』を計畫した、
ウイリアム・モリスは『理想鄕』を描いた。
    …(略)…
「共生の旗」

   耕地を失ふ日
明治三十五年の飢饉にひき続いて
三十七八年の日露戦争が来た
御国のために命を惜むなと
一家の働き手の壮丁がみんな招集された

いとどさへ貧しい家々は
或る金持から少しばかりの金を借りた、
満州の野で若者等は家を思ひながら死んだ
貧しい家に一片の戦死の報が届いた、 
国を挙げて戦つてゐる時、小農の嘆く時
地主のふところは益々肥るばかり
返せない少しばかりの金が
驚くべき金高となつて小農の耕地を奪つた。

磁石が鉄片を吸ひ寄せるやうに
実に見事に一人の人間に多くの土地が集まつた、
     …(略)…
詩集「樂園の途上」
             <『白鳥省吾の詩とその生涯』(築館町発行)>
というようなものなどがある。
 これらの詩からは、白鳥省吾の依って立つところは賢治のそれと結構似ている部分もあると感じた(「羅須地人協会時代」に賢治が詠んだ詩は『春と修羅 第一集』所収の「心象スケッチ」というようなものではなくなり、「農事詩」のようなものが多いからである)し、もし賢治がこのような白鳥の詩を読んでいたとすれば何かしら身につまされていたのではなかろうかということも推察される。だから私が賢治の立場に立ったなら、この詩を読んだ時点で白鳥に会いたくなくなるかもしれない。
心平と白鳥の鞘当て
 実はこのゴシップ「面会謝絶」に関しては、〝白鳥省吾と草野心平との鞘当てがあった〟と噂では聞いていたが、そのことを論じている論文「研究ノート 宮沢賢治の同時代評価 平澤信一」があることをその後に知った。そこには次のようなことが書かれていた。
 …ここで言及されている「詩壇消息」の記事自体は未だ確認されていない。とはいえ、同時期に発刊された渡辺渡編輯の詩誌「太平洋詩人」の昭和二年三月号と四月号には、草野心平と白鳥省吾の次のようなやりとりがあって、当時の様子を窺い知ることができる。
<宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱脈である。会つたこともないし、未来どんな風に進展してゆくか、予想さへつかない。岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり、そんな事を考へても一寸グロテスクだ。曾て白鳥省吾氏が会いたい由を告げた時、私にはそんな余裕がないといつてはねかへしたそうだ。それを人づてに聞いたとき、私は内心万歳を叫んだ。詩集「春と修羅」はドラ社で取つぎます。>――草野心平「二月六日」
<太平洋詩人三月号に草野君が「私が宮沢賢治君に逢ひたいと言つてはねつけられた」といふやうな記事を書いて愛想を述べてゐましたが、私は宮沢君とは詩集受取の簡単な礼状以外嘗て文通した覚えもなく逢ひたいとか誰にか言伝てを頼んだこともありません。私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません。草野君が間接のゴシップで「万歳」を叫ぶとも、それは当人の勝手ではあるが、その事実は無根であることだけは明らかにして置きます。>――白鳥省吾「草野心平君に」
              <『宮沢賢治Annual Vol.10』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)より>
 さてこのときの「面会謝絶」の真相だが、それはおそらく千葉恭の証言どおりだと私は思っているが、それが事の真相だとしても、白鳥がこのように反論したくなるのは無理からぬことだと思う。それは、残念ながら賢治の面会ドタキャンはマナーに反するからであり、ゴシップを基にして公器(詩誌「太平洋詩人」)においてその当事者を揶揄した草野心平は品性に欠けるからである。
 まして、当時の日本詩壇を代表する〝民衆派詩人〟白鳥省吾が、まだあまり世に知られていない賢治を早い段階から高く評価していた<*2>ようだから、その賢治から一旦約束していた面会を突如拒否されたとなれば白鳥が怒り心頭に発していたということは充分あり得ることだ。したがってかくの如く白鳥が反論し、もしかすると嘯いたとしても私はあながち彼を一方的には責められないような気がする。言い方を換えれば、「私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません」と白鳥は白を切ったということではなかろうか……。

<*2:註> 「新校本年譜」(筑摩書房)の大正15年9月1日の注釈に次のようなことが書かれている。
 詩雑誌「詩神」九月号のアンケートにおいて、白鳥は「最近「狂舞の轍」といふ詩集を出した信州諏訪の木川新太郎君は詩壇の感化なしに水際だって鮮やかなのは、嘗て岩手の宮沢賢治君が「春と修羅」を出したのと好一対である」と言及している。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

             〈平成30年6月231日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
 その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました
 そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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