みちのくの山野草

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伊藤整と岡本弥太の伝える「面会謝絶」(後編)

2019-03-01 10:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

心平の抱く未だ見ぬ賢治像
 なお、この論文「研究ノート 宮沢賢治の同時代評価 平澤信一」の中味を見て私がちょっと吃驚したのは、前述のような鞘当てにだけではなくて、草野心平が宮澤賢治に対して抱いていた認識、
(1) 岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり
に対してであり、白鳥省吾の語る、
(2) 宮沢君とは詩集受取の簡単な礼状以外嘗て文通した覚えもなく
に対してである。
 前者(1)からは、これが当時草野心平が抱いていた賢治像であったということを知ることが出来る。たしかに賢治が
    ・お経を誦んだり
    ・レコードをかけたり
    ・木登りしたり
していたことは事実であったはずだ。つまり、
岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり
の4項目のうち、とりあえず最初の項目を除いて、いずれも事実と違えているところはないと思う。とすれば、残った最初の項目の
    ・岩手県で共産村をやつてゐるんだ
もほぼ事実(賢治が心平宛の書簡でそう語っていたという意味での)であったと判断をせざるを得ない…論理的には。
 まあでもこれは、実際には賢治に一度も会つたことのない草野心平のことだから単なる思い込みかも知れない。とはいえ、賢治と心平は手紙のやり取りはかなりしていたはずだから、そしてそれが、心平が〝人間賢治〟を知るほぼ唯一の手段であっただろうから、一概に全て思い込みとも決め付けられない様な気もする。
 もしかすると、件のゴシップが面白おかしく全国に流布していったのと同様、〝賢治は岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだ〟という風評も当時詩人の間には広がっていたということなのかも知れない。
 とまれ、少なくとも心平自身は賢治のことを
   〝岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが…(略)…一寸グロテスクだ。
と認識していた、ということは心に留めておかねばならないと思った。
賢治と白鳥の間柄
 次に後者(2)に関してである。ここで白鳥が少なくとも否定していないこととして、
    〝詩集受取の簡単な礼状
があるから
     白鳥の許には「春と修羅」が送り届けられ、白鳥はその礼状を賢治に出した。
ということはほぼ歴史的事実であったであろう。そしてそれも、この「春と修羅」を誰が白鳥に送ったかというとそれは賢治ではなくて森荘已池であったに違いないと直感した。なぜならば、森は次のようなことをかつて語っていたからである。
 私が「岩手詩人協会」をつくったとき、賢治は機関誌の「貌」の刊行費にと「春と修羅」「注文の多い料理店」を三十冊ずつくれた。私はそれをどうすれば売れるのかを知らない中学生だった。賢治は「会員の皆様に買ってもらって『貌』の印刷費にすればいいでしょう」と、言ってくれたのだが―。…(略)…
 私は上京するとき、「春と修羅」を売って「貌」の印刷費を作ろうと東京に運んだ。
 だが、ケチネ氏が売り払った大量?の「春と修羅」が二十銭、三十銭で神田や本郷、新宿などの夜店の古本屋に、二、三ずつ出回っていたので、驚いてみな寄贈してしまった。いずれ当時の有名無名の詩人たちに贈ったものと思うが、名簿もないので全く不明である。
              <『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷出版)より>
 おそらくこの〝当時の有名無名の詩人たち〟の中の一人が当時の有名詩人白鳥省吾であったに違いない。ならば、どのようにして白鳥は賢治のところへ礼状を出すことが出来たのだろうか。それはおそらく「春と修羅」の奥付に賢治の住所が書いてあったからだと思ったのだが、その奥付に賢治の住所はなかった。さてこうなるとどうやって白鳥は賢治のところに礼状を送ったのだろうかということが問題となる。まさか、賢治自身が白鳥の許へ「春と修羅」を送っていた?
現時点での判断◇
 賢治自身も白鳥省吾自身もそれぞれ面会を謝絶し、されたということを書き残しているわけではないようだから、この「面会謝絶」の真相が千葉恭の言っている通りかどうかは今の時点では私にはしかと判らない。そして、断られたのが花巻でであったのか盛岡でであったのかも定かでない。
 がしかし、それから一年も経ずして伊藤整にこのゴシップが伝わっていたということ、あるいは賢治が亡くなった直後には遠く高知県にまでそれが広がっていたということは、このうわさ話は日本のあちこちに広まっていたということを意味するのであろう。よって、宮澤賢治が白鳥に「面会謝絶」を喰らわしたということはほぼ間違いなく歴史的事実なのであろう。
 ただしその際に〝白鳥省吾は玄関先で面会を断られた〟という説もあるがそれはあくまでもゴシップであるし、白鳥が賢治に対して「私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません」と主張しているのは、前述したような訳で白鳥が白を切ったということが十分あり得る。一方で千葉恭はこの件に関して詳述しているから、それを否定するほどの説得力は伊藤整の孫引き、岡本弥太の随想、白鳥省吾の反論のいずれにもないと感ずる。したがって、千葉恭の語っていることの方がその実相だったに違いないと私は判断した。そして、私は少しほっとした。

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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