みちのくの山野草

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伊藤整と岡本弥太の伝える「面会謝絶」(前編)

2019-02-28 10:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
《千葉恭》(昭和10年(28歳)頃、千葉滿夫氏提供)

 そもそも、千葉恭なる人物に私が興味を持ち出したのは、例の大正15年7月25日の「面会謝絶」の使者が千葉恭<*1>だったということを知ってからである。
 この「面会謝絶」に関しては、千葉恭が盛岡に出向いて行って、そこに講演に来ていた白鳥省吾に断ったことになっているわけだが、実は白鳥省吾は花巻の下根子桜に賢治を訪ねたのだが玄関先で面会を断られてしまったという説もあるという。
 もし後者の説が正しいとすれば私のスタート地点がぐらつくのであまり好ましいものではない。そこでこの真偽の程を確かめたくて少しく調べてみた。
『私の賢治散歩』より
 菊池忠二氏の『私の賢治散歩』の中の「あるゴシップ」は次のように始まっている。
伊藤整の青春時代を描いた自伝的小説、『若い詩人の肖像』の一節には、宮沢賢治にふれて、次のようなエピソードを述べた箇所がある。
「民衆(詩)派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。」
             <『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)>
と。もちろんこの〝某〟とは白鳥省吾のことであり、そのゴシップとは例の
     「賢治は一旦白鳥省吾と犬田卯の下根子桜訪問を許諾しておきながら、その約束の前日に断った
の事であることは論を待たない。
伊藤整の場合
 そこで、この伊藤整の『若い詩人の肖像』を見てみると、同著の中に「七 詩人たちとの出会い」という章があり次のようなことなどが書かれていた。
 大正末期の三四年間、『日本詩人』に集まった自由詩派や民衆詩派を中心とする詩人たちが、新潮社という一流出版社から出たこの雑誌を舞台にして、活躍した。その結果三木露風と北原白秋という大正初期の唯美主義や、その後に続く芸術至上主義的な日夏耿之介、堀口大学、西条八十等が詩壇の片隅に立ち退いた恰好になった。それだけでなく、『日本詩人』はその次の時代の詩人に対して門戸を開放する仕方が足りなかった。吉田一穂、佐藤一英等の唯美派の新人も目立たなかったし、平戸廉吉、萩原恭次郎、草野心平、岡本潤、高橋新吉等のアナーキストやダダイスト系の新人たちもよい発表場所がなかった。その感情は、民衆詩派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
 そのような詩壇の若手の不満の気持ちが大正の末年には、爆発的に盛り上がりかけていたのである。『日本詩人』がつぶれたことは、理想もエネルギーも失った詩話会同人の砦の崩壊を意味し、ちょうど尾崎紅葉の死による硯友社の崩壊の時に、田山花袋や国木田独歩や島崎藤村が感じたような、我等の時来たるという意識が、若い詩人たちの間にみなぎったのだった。『日本詩人』はつぶれたが、その主な同人たちは、自分のグループ雑誌を持っていた。白鳥省吾は『地上楽園』を、川路柳虹は『炬火』を、佐藤惣之助は『詩の家』を、そして最後には、民衆派詩的作風から逃れ去って俳句的静寂の詩境に移った百田宗治が『椎の木』を作った。昭和初年になるとともに、文壇の新流派である新感覚派やプロレタリア文学が地位を得たことの反映として、未来派、ダダイスム、超現実派という新風をもたらした詩人たちが、詩壇の入り口に押し寄せていたのである。
 それはその時代の直前に死んだ平戸廉吉であり、また宮沢賢治であり、荻原恭次郎であり、岡本潤であり、大手拓次であり、草野心平であり……
             <若い詩人の肖像』(伊藤整著、新潮社文庫)>
というわけで、伊藤整はこのゴシップを知って
    「私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた
と心のうちを正直に吐露していたのであった。とはいえ
    「その感情は、…某が…宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした
と伊藤は言っていることになると思うのだが、はたして〝その感情〟がそうなさしめたとは私には思えないが。
 また伊藤の文章は、白鳥は花巻で面会を謝絶されたのか、はたまた盛岡に代理の者が来てそこで断られたのかを明らかにしてはいない。
広がっていたゴシップ
 ところで伊藤整がこのゴシップを知ったのはいつ頃だったのだろうか。本人は同著で、
    「『詩壇消息』にこの頃書かれていた
と述べているし、そのことに関して菊池忠二氏は前著において、
    「伊藤氏が宮沢吉次編集の『詩壇消息』を読んだのは、昭和二年四月頃のことであったといわれる
と述べている。
 ということは、この時点(昭和2年4月)でこのゴシップはある程度広く知れ渡っていたことであろう。当時一世を風靡していた民衆詩派詩人の大御所白鳥省吾が当時はまだ殆ど名も知られていなかった賢治に面会をドタキャンされたということで、一部の人達はこのゴシップを面白おかしく吹聴していたに違いない。
 そもそも、約束の前日、それも人を使わされてそれを解約にされるということは一般には愉快なことではない。まして白鳥とすれば、
    「この年(大正15年)には詩誌「地上楽園」を創刊。民衆詩派の展望の中でも、ようやく「民衆詩」が定着し
             〈『白鳥省吾の詩と生涯』(築館町発行)より〉
た頃でもあるから、かなりプライドを汚されたと思ったに違いない。
岡本弥太の場合
 一方この「面会謝絶」の件に関しては、実は白鳥省吾は下根子桜の賢治の許を直接訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もある。それは『宮沢賢治という現象』の中の第3部第2章の中の「詩集『春と修羅』の同時代的受容」に載っていて、岡本弥太の「随想 宮沢賢治」で次のように述べられているという。
 …さる俗情界に有名である東京の詩人二三人が講演旅行の途次、肺患に呻吟する花巻町の詩人を訪ねたら、玄関で断られてしまつたといふ、うそらしいまことの話をある仙台の詩人が書いてきた。
宮沢氏からみると凡ては――(あらゆる透明な幽霊の複合体)くらいにしかみへなかつたであらふ。私は間の抜けた旅行鞄の詩人たちの顔を考へてふきだしてしまつた。つねの詩人なら抱へあげるべき筈のところをすつぱりとやつてのける人は矢張り(春と修羅)の著者であらう。
              <『宮沢賢治という現象』(鈴木健司著、蒼丘書林)>
そして、この2、3人とは白鳥省吾と犬田卯そして佐伯郁郎のことに違いなく、こちらのゴシップの場合には花巻へ賢治を訪ねて来た「この2、3人」が玄関先で面会を謝絶されたということになる。
 ところでこの「随想 宮沢賢治」はいつ書かれたものだろうか。鈴木健司氏によれば、賢治没後の直ぐ後、昭和8年11月発行の『熔樹林』第2輯にこれは載っているという。この「面会謝絶」より大分時は経っているとはいえ、岡本弥太は土佐の詩人だから、このゴシップは花巻から遠路はるばる高知県まで広まって行ったということになる。

<*1:註> 「新校本年譜」(筑摩書房)の大正15年7月25日の次の記載、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は協会に寝泊まりしていた千葉恭で六時頃講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
に当たる「面会謝絶」のことである。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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