みちのくの山野草

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賢治関連七不思議(賢治の稲作指導、#7)

2017-08-09 10:00:00 | 賢治に関する不思議
《驥北の野》(平成29年7月17日撮影)
 水稲の適性土壌は微酸性~弱酸性(pH5.5~6.5)
 それから、賢治の稲作指導について論じておきたいことがもう一つある。それは次のようなことだ。
 今から一年ほど前、私はかつての満蒙開拓青少年義勇軍のお一人T氏(昭和2年生まれ)に会うことができて驚いたことがある。それは
 稲は酸性に耐性がある。
ということを教わったからだ。
 私はそれまで、水稲の場合酸性土壌は不適であり、少なくとも中性以上であるべきだと思い込んでいた。ところが、調べてみるとやはり確かにT氏の言う通りで、水稲にとって適正な土壌は中性ではなく、ましてアルカリ性でもなくて、弱酸性~微酸性の〝pH5.5~6.5〟である(農林水産省のHPより)という。つまり、
 水稲の場合の望ましい「耕土」は中性(pH7)以上などではなく、その最適なpHの値は〝pH5.5~6.5〟の範囲の値であること、すなわち微酸性~弱酸性のpH5.5~6.5であることの方が適しているのであり、pHの値については結構広い範囲で水稲は生育する。
ということで、私はすっかり目から鱗が落ちたのだった。

 そこで当然気になりだしたのが石灰のことである。巷間、賢治の稲作指導の中で高く評価されているものの一つとして石灰施用の推奨がある。実際、賢治の肥料設計書には「石灰岩抹」の項があり、「岩手の酸性土壌を中和させるために石灰が必要」というのがその施用の理論であったようだ。そこでだろう、賢治の指導を受けた高橋光一は、
「いまに磐になるぞ」と呆れられる程の石灰を撒いたことがあった。
            <『宮澤賢治研究』(筑摩書房、昭和)>
と追想している(常識的に「過ぎたるは及ばざるが如し」だろうと私は思うのだが)。
 一方、私は地元にいることもあって、
 賢治の言う通りにやったならば、みな稲が倒れてしまったと語っている人も少なくない。
ということも仄聞していたので今まで不思議に思っていた。そこで私は、この度稲作の場合の最適なpH値を知って、もしかすると石灰のやり過ぎがその原因の一つだったのではなかろうかとつい疑ってしまうようになってしまった。それはもちろん、石灰を撒きすぎて最適な〝pH値5.5~6.5〟を越えてしまったが故ではなかったのだろうかという疑問である。そしてまた一方の賢治は、はたしてそもそもこの適正なpHの値を当時知っていたのだろうかとか、あるいはそれぞれの水田のpH値を測った上で石灰を施用していたのだろうかという疑問も私には湧いてくるようになってしまった。

 そういえば、花巻農学校で賢治の同僚でもあった阿部繁が、
 科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。
             <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)82p~>
と厳しい発言をしていた。どうやら阿部の、
    いかな賢治といえども「時代と技術を超えることは出来ません」。
という意味の冷静でしかも当たり前のこの一言を私たちは一度かみしめてみる必要がありそうだ。
 
 振り返ってみれば、以前の私はいわゆる「賢治の通説」等をそのまま素直に信じてきたので、「羅須地人協会時代」の賢治は農民のために徹宵東奔西走し、岩手の農業の発展に大いに貢献したとばかり思っていた。しかしながら、賢治といえども当然限界があったわけで、賢治の稲作指導法は金肥に対応して改良された「陸羽132号」による増産であるから貧しい農民にとってはもともと無理な方法であり、また、石灰の施用にしても適正なpH値を越えていた可能性も否定できない。つまり、阿部繁が指摘したように賢治だって「時代と技術を超えることは出来」ないことは当然である。しかも、さすがの賢治にしても日照りや冷夏という異常な自然現象をコントロールできるわけでもない。

 つまるところ、「羅須地人協会時代」の賢治の農業指導については、時に農聖や老農とも言われる彼だが、そう讃えられている秋田の石川理紀之助等の実践には遥かに及ばなかったということをそろそろ私は認めざるを得ないようだ。そして、それに近い実践が賢治によって如何ほど為されたのかということを(私の場合はそれが思ったほどは見出せなかったので)一度再検証してもらわねばならないということになりそうだ。

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