みちのくの山野草

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2 証言等による検証

2024-08-15 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

2 証言等による検証
 ではここでは、先に私が定立した「仮説♣」、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
に関連しそうな証言が述べられているものの幾つかをまずリストアップしてみる(一部は既に触れたものもあるが)。
(1)「沢里武治氏聞書」(『賢治随聞』所収)
(2)「三日でセロを覺えようとした人」
(3) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」(『宮澤賢治素描』所収)
(4) 柳原昌悦の証言
(5)『宮澤賢治日記(昭和2年版)』
(6) 盛岡気象台の記録
(7) 伊藤清の証言
(8)『詩人時代』編集部あて書簡
(9) レコード交換会
(10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
 もちろんこれら以外にも関連する証言等はあるのだが、長くなるのでこれらの10項目によって検証してゆきたい。なお、実際には検証というよりはそれらの証言が「仮説♣」の反例となることはないか、ということを調べることの方が多くなろうかと思う。そして、そのうちの一つにでも反例が現れると、この仮説は成り立たなくなるから私はそこですごすごと撤退するということになる。
 では各項目毎に、順に検討してゆきたい。

 (1) 「沢里武治氏聞書」
 これは以前に既に一部引用したものだが、次のようなことが述べられている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった、また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
 この沢里の証言を読めば、直ぐに「仮説♣」が妥当であることが分かるが、もともとこの仮説はこの証言を基にして立てた仮説であるとも言えるから当然のことではある。それゆえ、ここではこの証言のポイント (ア) ~ (オ) を以下に確認することに留めておきたい。賢治はある時チェロを持って上京したが、そのことに関する沢里のいくつかの証言である。
(ア) その上京は昭和2年11月頃だった。
(イ) 賢治は「少なくとも三か月は滞在する」とも言った。
(ウ) その際見送ったのは沢里ただ一人だった。
(エ) その日はびしょびしょみぞれの降る寒い日だった。
(オ) 賢治はこの3ヶ月間のはげしい勉強で、とうとう病気になって帰郷した。

 もちろん、これらの全項目は「仮説♣」の反例とはなっておらず、逆に証左となっている。

 (2) 「三日でセロを覺えようとした人」
 これは『昭和文学全集 月報第十四號』に載っている大津三郎の追想であり、それは次のようなものである。
   「三日でセロを覺えようとした人」
 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。…(中略)…
 ある日、歸り際に塚本氏に呼びとめられて「三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと言う人が來ているが、どの先生もとても出來ない相談だと言つて、とりあつてくれない。岩手縣の農學校の先生とかで、とても眞面目そうな靑年ですがね。無理なことだと言つても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと言うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。」と口説かれた。…(中略)…
 神田あたりに宿をとつていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで來るのは仲々の努力だつたようだが、三日共遅刻せずにやつて來た。八時半に練習を終つて私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる。…これが三日つづいた。
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
 三日目には、それでも三十分早くやめてたつた三日間の師弟ではあつたが、お別れの茶話會をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
     <『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
 つまり、大津から受けた「三日間のチェロの特訓」に関しては、
(a) 大津三郎が賢治にセロを教えた時期は大正15年の秋か昭和2年の春浅い頃のいずれかの可能性が高い。
(b) 賢治は楽器の持ち方だけでもよいから教えてほしいとい う意味のことを言った。
(c) 賢治に教えた内容は楽器の各部の名稱、各弦の音名、調 子の合わせ方、ボーイング、音階などである。
(d) 賢治はチェロを習おうと思った訳を、詩の朗誦伴奏に「オルガンよりセロの方がよいように思います」と語った。
ということなどを大津三郎は証言していることになる。
 ではこれらの証言は「仮説♣」の反例となり得るか。幸いそのようなものはほぼないと言っていいだろう。この大津の「三日間のチェロの特訓」は昭和2年ではなくてその前年、大正15年12月に上京した際のものと考えられるから、(a)は反例とまではならないであろうからである。そしてそもそも、その時期が大正15年の秋であるとすれば「現定説❎」の12月とずれてしまうが、それは「現定説❎」の反例となることはあっても、「仮説♣」とは無関係なことである。

 とまれ、ここまでの段階では「仮説♣」は成り立ち得るし、(b)、(c)、(d)については後程考察のために使いたい。

 (3) 座談会「宮澤賢治先生を語る會」
 關登久也著『續 宮澤賢治素描』に所収されている座談会「宮澤賢治先生を語る會」に、次のような証言がある。
K 先生のご病氣は昭和二年の秋ごろから惡くなつたと思ふが――。
M よく記憶にないが東京へ行つてからだと思ふ。東京でエス語、セロ、オルガンなど練習されたといふ話だつた。
<『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、協榮出版)254pより>
 なお、ここで「K」とは高橋慶吾のことで、「M」とは伊藤克己であることが同じく関登久也の著書『賢治随聞』(角川選書、昭和45年)で後ほど明らかにされている。
 したがって、
・賢治の病気は昭和2年の秋頃から悪くなったと思うと高橋慶吾は証言している。
・賢治の病気が悪くなったのは東京へ行ってからだと思うし、その際賢治は東京でエスペラント、セロ、オルガンなどを練習したという話だった、ということを伊藤克己は証言している。
ことになる。そして、同書にはこの座談会は「日時 昭和十年頃」と付記されているから、賢治が没してからあまり時が経っていない時期の座談会であり、これらの証言はそれほど昔のこととは言えない。また「下根子桜時代」から数えても10年ほどしか経っていない時期の複数の人による座談会だから、これらの証言はかなり信憑性が高かろう。
 ではこれらの証言は「仮説♣」の反例となり得るかというと、もちろんそのようなものではない。逆にこれらの証言からは、慶吾は自信なげに言っているが、一方の伊藤克己はそれをうち消しながら言っていることから、
・賢治は東京へ行ってから病気が悪くなった。
という可能性が大であることが示唆されるので、「仮説♣」の傍証になり得る。
 ただし、これが昭和2年の上京のことだけを述べているとなると、「エス語、セロ、オルガンなど練習された」という伊藤の証言中の「エスペラント、オルガンの練習」が気になるところではある。昭和2年の際に賢治はエスペラントやオルガンの練習をしたとは思えないからである。

 (4) 柳原昌悦の証言
 これは今まで何度か取り上げたものであり、菊池忠二氏がかつて柳原昌悦から直接取材した際に得た例の、
 一般には沢里一人ということになっているが、あのときは俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。 ……………○柳
という証言のことである。この証言は「仮説♣」を傍証しているが、それはこの証言と「○随」とを互いに補完させて立てた仮説が「♣」だから当然のことではある。
 つまり、柳原は大正15年12月2日の賢治の上京の際には沢里と一緒に賢治の上京を見送ったということを保証し、ひいては、澤里がチェロを持って上京する賢治をひとり見送ったのは昭和2年の11月の霙の降る日であったということを導き出す拠り所の一つにもなっているのがこの証言「○柳」である。

 (5) 『宮澤賢治日記』
 5つ目は賢治の日記からである。一般に賢治は日記を書いていないということだが、昭和2年の賢治の日記(印刷上は「大正十六年日記」)、いわば『宮澤賢治昭和2年日記』に限っては一部分(いわゆる「手帳断片A」)が残っている。そしてそこには次のようなことが書かれている。
  「大正十六年日記」の「三頁、1月1(土)」の欄に賢治は
   国語及エスペラント
   音聲學

と書き、同MEMO欄には
   本年中セロ一週一頁
   オルガン一週一課

    <『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
と書いている。ということは、昭和2年の元日に賢治は
   国語、エスペラント、音声学
を学んだということであろう。
 そして、この「MEMO欄」の記載は1月1日のものだし、その記載内容からして、
   本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課
は賢治昭和2年の「一年の計」であろうことが判る。年頭に当たって昭和2年の賢治はまず「本年中セロ一週一頁」を第一に掲げていたということになる。そこからは、賢治のチェロに懸ける意気込みが伝わって来るし、チェロの腕前は殆ど初心者であったであろうことも同時に言えそうだ。オルガンは「一週一課」なのにチェロは「一週一頁」だからである。
 また、このことは前に挙げた証言 「三日でセロを覺えようとした人」の(b)及び(c)とも符合する。つまり、この(b)と(c)等の意味するところのチェロは全くの初歩であったということとも符合する。
 ではこの日記のメモが「仮説♣」とどう関わってくるかを次に少し考えてみたい。この日記の書かれ方〝一年の計の第一が「本年中セロ一週一頁」〟であることからは昭和2年の賢治がチェロに懸ける想いは相当なものであることが容易に理解できる。一般には日記を書かなかったといわれている賢治のようだが、昭和2年の年頭に当たってだけは日記を書き始め、しかも一年の計として、
   本年中セロ一週一頁 オルガン一週一課
を掲げたからだ。かなり胸中期するところがあったに違いない、とりわけチェロの上達を。
 しかし現実には、チェロを学ぶことは名チェリスト西内荘一氏でさえも生やさしいことではなかったと述懐しているくらいであり、まして当時もう30歳になっていた賢治にはとっては、チェロを独習することの難しさを直ぐに悟ったであろうことが容易に推測できる。そこで賢治は何とかせねばならぬとばかりに、
 沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。
    <『宮澤賢治物語(49)』(関登久也著、岩手日報連載、昭和31年2月22日付)より>
と賢治は沢里に強い決意を語って、昭和2年の11月頃に上京したということは十分に考えられる。

 という訳で、この日記の記載事項も「仮説♣」の多少傍証になり得る。もちろん少なくともこの仮説の反例とはなっていない。

 (6) 伊藤清の証言
 関登久也の『宮澤賢治物語』の中に伊藤清の次のような証言がある。
 地人協会時代に、上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。東京での色々のお話も伺いましたが、今は記憶しておりません。 <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)268pより>
もちろん上京したのは宮澤賢治である。一般に賢治の「下根子桜時代」の上京は、
   (ⅰ) 大正15年12月
のものと
   (ⅱ) 昭和3年6月
のものの2回だけというのが通説だが、それでは伊藤が証言するところの「下根子桜時代」における、
  上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました……………○清
とはどちらの上京のことを言っているのだろうか。もちろん、後者(ⅱ)の場合には6月中に戻っているものだから当て嵌まらないので、残りの、前者(ⅰ)の上京でしかあり得ないはず。
 ところが、この上京(ⅰ)は12月2日に上京して年内には花巻に戻っているものだから、このような上京に対して「○清」のような言い方は普通しないであろう。伊藤が「そして冬に」と言っていることに注意すれば、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということが言えるからである。つまり「○清」の中の上京とは、その花巻出発時期が「冬の前」であるものであることが解るから、(ⅰ)もふさわしくない。(ⅰ)の出発時期は冬そのものだからである。
 となれば伊藤のこの証言はうろ覚えなのかといえばそうとも言えない。ちょうど仮説、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………♣
のことをそれは言っていると考えればぴったりと当てはまる。「11月頃」であれば時期は冬でなくてその前の秋だからである。

 逆に見れば、この伊藤の証言「○清」は沢里の証言「○随」及び次の証言、
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三 <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と符合しているから、「仮説♣」の一つの傍証となっていると言えるのではなかろうか。

 (7) 盛岡気象台の記録
 「現定説❎」では、大正15年12月2日については、
    セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る
となっているから、もしこの日に花巻駅周辺で霙が降っていなければそのことは、この「現定説❎」の反例になるかも知れないし、「仮説♣」の傍証となるかもしれないと思って盛岡気象台を訪問し、お訊ねした。
 するとその回答は、
・大正15年12月2日の花巻の天気は不明だが当日の降雨量は13.6㎜である。ちなみに当日の盛岡の天候は 朝夕雪、日中雨で、翌日の3日以降は雪が降っている。
ということであった。したがって、当日花巻に霙が降ったかどうかは判らない。盛岡の気象も踏まえれば花巻で霙が降った可能性も否定できない。よって私の目論見は崩れた。
 とはいえ、この盛岡気象台の気象データは「現定説❎」を否定するものではないし、「仮説♣」を傍証するものでもない。もちろん反例となっている訳でもない。

 (8) 『詩人時代』編集部あて書簡
 ここからは私の早とちりの失敗談である。
 その顛末は次のようなものであった。
*******************<早とちりの顛末>*******************
 私は「やっぱり!」と叫んだ。というのは、『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)を読んでいたならば、「昭和三年(二一九二八)」の中に、
   賢治 三十二歳
 一月十六日 新潟市旭町二ノ五二四一『詩人時代』編集部あて書簡
 ――新年おめでとう存じます。お詞の詩らしきもの、とにかく同封いたしました。他にぴんとした原稿沢山ありましたらしばらくお取り棄てねがひます。病気も先の見透しがついて参りましたし、きつと心身を整へて、今一度何かにご一所いたしますから。乍末筆新歳筆硯のご多祥を祈りあげます。         十六日

   <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)257pより>
とあったからである。
 今までは、まさかこの時期にこんな賢治の書簡があったということなどは全く知らないでいたので、これを新たに知って私はついつい抃舞してしまった。この書簡の内容は「仮説♣」の有力な傍証となると思ったからだ。つまり、賢治はこの昭和3年と考えられる1月16日付の書簡に,
・(賢治は)昭和3年1月16日頃、自分は病気だったがその快癒の見通しも立った。
と書いていることになる訳だから、この書簡の内容により「仮説♣」の意味するところの、
   賢治は昭和3年の1月頃病気になって花巻に戻った。
はさらにその信憑性が増したといえる、と私は喜んでしまったのである。
 ところがこの私の判断に対して、宮澤賢治研究家のI氏から
   「昭和3年には、まだ詩人時代社編集部は存在していなかったのではないでしょうか」
というご指摘いただいた。私は慌てて『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)を捲った。
 まずは頁を繰りながら昭和3年前後の書簡を何度か見返してみた。見つからない。そこで通読することにした。すると、それは昭和8年の書簡の一つとして、
446 一月十六日 詩人時代社編輯部(吉野信夫)あて 封書
  《表》新潟市旭町二ノ五二四一 詩人時代社編輯部御中
  《裏》一月十六日 岩手県花巻町 宮沢賢治(封印)〆
    新年おめでたう存じます。云々
   <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)421p~より>
とあり、以下全く同じものであった。私はしばし呆然としてしまった。この書簡は昭和8年1月16日付のものであったのだ。何のことはない私は糠喜びをしていたのだった。
 振り返ってみるに、こんな失敗をしてしまったのは私が『宮沢賢治とその周辺』を高く評価していたからだと思う。というのは、『国文学 解釈と鑑賞』は同書のことを
   ・従来の賢治年譜の欠けている所を補う目的で
とか
・賢治の研究が、原資料に基づかず、引用により孫引きの誤謬が増幅されるケースなども、正確な資料によって正されていること、特に宮沢賢治が生命を賭して尽力した、農業問題との関連に対する記述など全く他に類書が無く、賢治の生涯を知るためにも作品の研究を進めるためにも不可欠な資料である。
<『国文学解釈と鑑賞 平成三年6月号』(至文堂)106pより>
という評価していたからである(もちろんこれは偏に私の責任であり、至文堂を責めるつもりは毛頭ない)。
 その一方で、儀府成一は 
 ・ミスも多いが中々の労作である『宮沢賢治とその周辺』
   <『宮沢賢治 その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社)298pより>
と評価をしていたのだが、やはりここは前者の見方が正しかろうと、私の個人的な感情を基に判断していた。
 それゆえ、『宮沢賢治とその周辺』において、「昭和三年(二一九二八)」の中に「一月十六日付書簡」があったことを知って私は喜ぶことはあっても疑うことは全くしなかった。他の資料と突き合わせることもせずに、
   ・賢治は昭和3年1月16日頃、自分は病気だったがその快癒の見通しも立った。
と同書簡で賢治自身が証言していた、とつい思い込んでしまった。そしてこのことが
   ・昭和三年 三十三歳(一九二八)
   △ 一月、…(中略)…この頃より、過勞と自炊による榮養不足にて漸次身體衰弱す。
    <『宮澤賢治研究』(草野心平篇、十字屋書店版)所収「年譜」より>
となっていた「宮澤賢治年譜」があったことの一つの理由だったのではなかろうかと安易に判断してしまったのだった。
 そして、『宮沢賢治とその周辺』に載せてあった昭和3年「一月十六日付書簡」は「仮説♣」を支えてくれるという確信を深めさせてくれた、と私は軽率にも喜んでしまったのだった。
 しかしそれは、私が先入観で物事を判断していたがゆえの早とちりの大失敗であった。
***********************<顛末終わり>*******************
 以上、これはあくまでも私の詰めが甘かったことによる失敗談である。私は詰めの甘さを反省するとともに、一つの資料だけで判断することの危うさを教えて下さったI氏に深く感謝した。

 (9) 「レコード交換會」
 関登久也は『宮澤賢治素描』の中の「レコード交換會」という節において次のような意味のことを述べている。
 賢治は昭和2年10月21日付のある紹介状を作った。それは高橋慶吾を紹介し、慶吾が事務を執ってレコード交換会を行うというもので、不用なレコードや希望のそれを教えてほしい、というものであった。
と。そしてこの節の中には次のような関登久也の証言がある。
 交換会は結局は賢治氏が病床の人となつたり、慶吾さんの都合で良い結果を得なかつた様でありますが…
   <共に『宮澤賢治素描』(關登久也著、協栄出版社)181pより>
ということは、昭和2年10月21日からそう遠くない時期に賢治は病臥したということが言える。
 するとかなり大雑把な話ではあるが、この時の病臥は「仮説♣」の中の「病気となり、昭和3年1月に帰花した」と符合する。したがって、関登久也のこの証言は「仮説♣」の多少ではあるが、傍証となり得る。

 (10) 宮澤清六編「宮澤賢治年譜」
 昭和17年に出版された『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)には宮澤清六編の「宮澤賢治年譜」が所収されており、そこに次のような記載がある。
  昭和三年一月、…この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身體が衰弱す。 ………………
      <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)259p>
 ということは、賢治は昭和3年1月には「漸次身體が衰弱す」という身体状況にあったということになる。したがってこの記載内容から、賢治は昭和3年1月中には帰花しており、家族の皆から心配されていたであろうことが推測される。なおかつ、これは賢治没後10年も経っていない頃の弟清六の編集による年譜だからまずは歴史的事実と判断できる。
 一方、皆さん既にお気づきのように「仮説♣」は
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月頃に帰花した。
のように本来は語句「頃」を付けねばならなかったものである。なぜならば、沢里の証言では、
    どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします。
となっているのだから、「昭和二年の十一月ころ」上京して3ヶ月弱滞京したとすれば、帰花するのはあくまでも「1月頃」とならねばならないからである。
 ところが私はこの語句「頃」を始めからこの仮説に付けなかった。その理由はこのような「宮澤賢治年譜」があることを知っていたからである。その月の何日に帰花したかは分からないにしても、少なくとも昭和3年1月中には花巻に賢治が戻っていたことはほぼ確実であろうと判断していたからである。
 逆に言えば、この宮澤清六編「宮澤賢治年譜」中の前掲の「」は「仮説♣」を裏付ける有力な資料の一つになっている。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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