みちのくの山野草

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1 『新校本年譜』による検証

2024-08-14 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

第三章 仮説の検証(Ⅰ)

 さて、定説からすれば全く荒唐無稽なものだと嗤われることは十分承知の上で私は次のような「仮説♣」、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した………………♣
を立ててみた訳だが、ここからはその検証を始める。

1 『新校本年譜』による検証
 実は、私がこの「仮説♣」を立てた裏には、以前から『新校本年譜』等の昭和2年の12月前後の記載事項の少なさ、出した書簡の少なさ、詠んだ詩の少なさが気になっていたこともある。一体賢治はこの頃何をしていたのだろうかと疑問に思っていたからだ。他に何かをやっていたのではなかろうかと、単純に想像していたのである。

 昭和2年の12月前後の賢治
 ちなみに、『新校本年譜』の昭和2年12月において記載事項がある日はたった2日分しかなく、それも
  ・12/21 盛岡中学の校友誌に賢治の詩が載った。
  ・12/26 「新潟新聞」に「詩集展」の出品者の一人として名前が載った。
というだけの間接的な内容である。その日に「詩が載った」ということはその日に「詩を詠んだ」ということではないのだから、そこからは賢治の同年12月中の営為が直接的に見えてくるようなものは何もない。『新校本年譜』による限りこの頃の生身の賢治は年譜から完全に蒸発していると言ってもよさそうだ。
 ならば書簡に関してはどうだろうか。前年の大正15年であれば12月の書簡は多かったはずだから、昭和2年についてもその月のそれを見てみれば何か判るかもしれない。そう思って、書簡集である『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)をひもといてみた。すると昭和2年に賢治が出した書簡は極めて少ないことがわかるし、なんと昭和2年12月付のものは全く載っていないことも知ることができる。残念ながら何ら目新しい情報は得られなかった。ついでに同書簡集をもう少し調べてみたならば、この当時の書簡数は少なくて、例えば昭和2年5月~昭和3年春頃までに賢治が出したものは、
  ・昭和2年7月19日付 福井規矩三宛て
  ・ 〃 10月21日付 「ご不用レコードを交換ねがひます」という意味の書面
の2通だけであった。まさかこれほどまでに少ないとは……。
 では当時の賢治は詩や童話の創作に没頭していたのであろうか。そのことを『新校本年譜』によって調べてみたならば前記の「盛岡中学の校友誌に賢治の詩が載った」こと以外の記載はない。結局この頃に賢治が詠んだ詩があるとは『新校本年譜』には書かれていない。また、童話などの創作があったということも同様それには記載されていない。となれば、賢治はこの当時創作に没頭していたとも言えなさそうだ。
 それでは、賢治は「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」は農業の指導等でてんてこ舞いだったのだろうか……。これが、もし大正15年~昭和2年の農閑期のことであったならば賢治は羅須地人協会の活動のために多忙であったからまさしくそうであったであろう。しかし「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治はそのような協会の活動はもうしなくなっていたはずだから、そのためにこの期間が忙しかったということもないはずだ。
 あるいはまた、昭和3年の3月頃ならばその頃の賢治は石鳥谷塚の根肥料相談所で行っていた肥料設計のために極めて多忙だったはずだが、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」にそのようなことが行われたという証言も記録も見つからない。つまるところ、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」に賢治が肥料設計で極めて忙しかったという明らかな証言や資料等はなさそうである。
 よって、「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は書簡は出していなかったし、詩も詠んでいなかった、童話も書いていなかったようだし、かといって肥料設計等の農業指導をやっていた訳でもなさそうである。

 透明な存在の賢治
 さて、どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治の営為は見えてこない。不思議だ。そこでもう一度『新校本年譜』を見直して、「下根子桜時代」のうちの「昭和2年9月~昭和3年2月」の年譜を表にしてみた。それらが以下の【表1】~【表3】である。
【表1 昭和2年9月~10月の宮澤賢治】

【表2 昭和2年11月~12月の宮澤賢治】

【表3 昭和3年1月~2月の宮澤賢治】

 そこからは、ものの見事に「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間が全く空白であることが一目瞭然である。しかし待てよ、「下根子桜時代」のこの季節というのもはもともとそのような程度の活動だったのかもしれない。

 ならばと、一年前の同じ頃の賢治の営為はどうであったのであろうかということで、同様の表を作ってみた。それらが【表4】~【表5】であり、
【表4 大正15年11月~12月の宮澤賢治】

【表5 昭和2年1月~2月の宮澤賢治】

結構それなりに、「下根子桜時代」の「大正15年11月~昭和2年2月」の賢治の営為が見えてくる。
 そしてこれらの両者を比較してみると、一年前の表からは同期間の賢治の活発な活動振りが見えてきたから逆に、ますます「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」の3ヶ月余の空白が際立ってしまう。どう考えても、少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」の賢治は全く透明な存在になってる。一体賢治はこの頃、何を考え何をやっていたのだろうか。
 このことを逆から見れば、「宮澤賢治は昭和2年11月頃から昭和3年1月までの約3ヶ月間滞京」していたということは時間軸上からすれば十分にあり得ることになる。この空白にそれをちょうどすぽっと当て嵌めることができるからである。最初は、荒唐無稽なことだと嗤われる思っていたが、もしかすると「仮説♣」は案外検証に耐え得るかもしれない。

 とまれ、『新校本年譜』」によって「仮説♣」が直接検証できた訳ではもちろんないが、少なくとも『新校本年譜』はこの仮説の反例とはほぼならないであろうということを知ったことは、私にとってはとても大きな最初の一歩だった。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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