みちのくの山野草

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「聖女の如き高瀬露」はじめに

2024-02-07 12:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露







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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 Ⅱ 聖女の如き高瀬露  鈴木 守

          目     次
はじめに ──────────────1
第一章 露に関して新たにわかったこと─3
「向ふの坂の下り口」に露の家があった─────── 3
遠野時代の露────────────────── 7
 寶閑小学校時代の露─────────────── 9
第二章 羅須地人協会時代の場合────12
 検証もせず裏付けもないままに────────── 12
「昭和六年七月七日の日記」の信憑性──────── 14
「一九二八年」の不思議──────────────16
 森の「下根子桜訪問」自体が虚構────────── 21
「ライスカレー事件」はあったのだが──────── 31
父政次郎の叱責が全てを語っている──────── 34
第三章 昭和4年の場合─────── 37
 昭和4年露宛書簡下書「新発見」?───────── 37
 果たして「昭和4年」か?───────────── 40
 果たして「露宛」か?─────────────── 45
「新発見」と嘯いたことの意味と罪───────── 53
第四章 昭和5年の場合─────── 60
 関徳弥の『昭和五年 短歌日記』発見────────60
『昭和五年 短歌日記』は「昭和6年」用か────── 62
第五章 昭和6年の場合─────── 68
 また持ち上がった賢治とちゑの結婚話─────── 68
 ちゑ『二葉保育園』勤務の意味────────── 76
 思考実験<賢治三回目の「家出」>────────── 82
 思考実験<賢治ちゑに結婚を申し込む>─────── 89
 思考実験<「聖女のさましてちかづけるもの」はちゑ>─ 91
第六章 昭和7年の場合───── 97
 曾て賢治氏になかつた事───────────── 97
 賢治と中舘武左衛門─────────────── 104
 賢治遠野へ露を訪ねる────────────── 106
 全てが皆繋がった────────────────109
第七章 敢えてした「粗雑な推定」──113
〈仮説〉の反例現る?───────────────113
「粗雑な推定」とは──────────────── 115
 曖昧すぎる小倉の記述────────────── 120
第八章〈悪女伝説〉は全くの捏造──123
〈高瀬露は聖女だった〉は妥当な真実────────123
 賢治からのメッセージ────────────── 125
おわりに──────────── 126
註釈────────────── 130

《用語について》
・「羅須地人協会時代」=「下根子桜時代」
・『旧校本全集』=『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)
・『新校本全集』=『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)
・「旧校本年譜」=『旧校本全集第十四巻』所収の「宮澤賢治年譜」   
・『新校本年譜』=『新校本全集第十六巻(下)年譜篇』

はじめに

 この度、巷間そうは言われているけれども、高瀬露は〈悪女〉などでは決してないことを実証できた。そしてそれよりはむしろ、露は《聖女》の如き人だったということがわかったのでここにその報告をしたい。
      ‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
 現状では、なぜか高瀬(小笠原)露は巷間<悪女>とされている。
 例えば、宮澤賢治伝記の研究家として評価の高い境忠一は、
 (賢治は)昭和六年九月東京で発熱した折の「手帳」に、「十月廿四日」として、クリスチャンであった彼女にきびしい批評を下している。
  聖女のさましてちかづけるもの
  たくらみすべてならずとて
  いまわが像に釘うつとも
  乞ひて弟子の礼とれる
  いま名の故に足をもて
  われに土をば送るとも
  わがとり来しは
  たゞひとすじのみちなれや
<『評伝宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭43)316p~より>
と述べていて、賢治は露のことをこのように厳しく〔聖女のさましてちかづけるもの〕に詠んでいる、と境は断定している。
 そして境のこのような見方は彼一人にとどまらず、森荘已池もこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕について、
 その女人がクリスチャンだったので「聖女」というように、自然に書き出されたものであろう。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、     
昭24)101pより>
と似たような見方をしている。つまり、「その女人(=高瀬露)」はクリスチャンだ、クリスチャンは「聖女」だ、だからこの詩の「聖女」は露であるという論理で捉え、露は聖女のふりをして賢治に近づいて行ってその足で賢治に土をかけたと解釈し、そう認識していることになる。そして、私の知る限りでは多くの人達がそう認識しているようだ。
 さて、いわゆる<露悪女伝説>がなぜ起こったのか、その真相は今のところ私には定かではないにしても、少なくともこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕が大きな要因の一つになったということは否定できなかろう。それは境や森をはじめとして多くの賢治研究家がこの詩を基にして、「露は賢治から厳しい批評を下された」と見做していると判断できそうだからである。
 しかしながら、果たして賢治自身は露のことをこの詩で詠んでいたのだろうかと私は疑問に思う。それはまず、露がクリスチャンだということを当時賢治は知っていたし、さらには露のことを賢治自身が「聖女」と表現していたことさえもあった((註一))のだから、常識的に考えて賢治は露のことを「聖女のさまして」とは言わないだろうと考えられるからである。
 そして次に、もし、クリスチャンだから「聖女」だという論理に従うならば、クリスチャンである露は「聖女」その者なのだから「聖女のさまして」とは普通言わない。逆に、露がクリスチャンであることを知っている賢治が露のことをもし「聖女のさまして」と詠んだとするならばそれは揶揄であり、賢治の人間性が問われることになる。それゆえ、「聖女のさましてちかづけるもの」とは少なくとも露以外の人物であったとした方が妥当であると考えられる。
 さらには、一般に露が賢治から拒絶され出したのは昭和2年の夏頃以降と言われているようだから、もしこのことが事実であったとしたならば、佐藤勝治が言うところの「このようななまなましい憤怒((註二))の文字」が使われている〔聖女のさましてちかづけるもの〕を、それから4年以上も経った後の昭和6年に賢治が露をモデルにして詠む訳が無い、というのが常識的な見方であろう。仮にもしそのような賢治であったとするならば、その執念深さは度を超しているので問われるのは露どころか賢治の方だということになる。この点から言っても、この「聖女のさましてちかづけるもの」は露であるという判断は危うい。
 よって、以上のことだけからしても、常識的に判断すればこの「聖女のさましてちかづけるもの」とは露以外の人物であるという可能性が高いと言える。換言すれば、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕の誤解によって、「露は賢治から厳しい批評を下された」と見做され、延いては<悪女>の濡れ衣を着せられてしまった可能性の高いことが導かれる。しかも、露以外にもっと「聖女のさましてちかづけるもの」に当てはまるある女性がいたというのにもかかわらず、である。
 実は、常識的に考えてみれば賢治はこうだったのではなかろうか、と思われるところはやはりそうだったということをこれまでに私は幾度か経験してきた。
 例えば、
(1) 羅須地人協会時代の賢治は独居自炊だと巷間言われているが、そうとは言い切れない。
(2) 賢治は昭和2年11月頃チェロ上達のために上京したが、その猛練習が祟って病気になり、3ヶ月弱後帰郷した。
(3) 昭和3年8月、賢治は凄まじい「アカ狩り」から逃れるために実家に戻って蟄居謹慎していた。
等がそれにあたり、それぞれについて次の拙著、
(1)『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
(2)『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』
(3)『羅須地人協会の終焉-その真実-』
においてその真実を実証的に明らかにしてきた。そしてわかったことは、巷間言われている賢治関連の「現通説」の中には真実でないものが少なからずあるということである。
 それはまた、この<悪女伝説>の場合も例外ではなさそうだ。なぜなら、前述したように、「聖女のさましてちかづけるもの」とは露以外の人物である可能性も高いことがまずわかったし、関連する証言や資料等を私が今まで少しく調べてみたところ、それらはかなり危ういものが多かったからである。
 そこで、本書ではこの<悪女伝説>について可能な限り実証的に検証しながら、次章以降その真相に迫ってみたい。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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