みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第六章 昭和7年の場合(テキスト形式)

2024-03-16 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
第六章 昭和7年の場合

 曾て賢治氏になかつた事
 ここからは昭和7年についてである。
◇賢治を中傷する女の人
鈴木 では、いよいよ最後に残った「昭和7年」分についてだ。
 まずは、『イーハトーヴォ第十號』を見てくれ。その五頁には、例の露の
  ・教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
  ・いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
などの四首が載っている。そしてそこには
 右は九月一日菊池暁輝氏を迎へての遠野における賢治の集ひの際の感歌です。
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、昭和15年9月)より>
との註釈が添えてある。
荒木 そうか昭和15年だから賢治が亡くなってから7年後に遠野で開かれた「賢治の集ひ」に露は出席していたのか。そこには「教え子ら」もと詠まれているから、彼等と共に賢治のことを偲びながらこれらの歌を露は詠んだりしたわけだ。しかも「み師」というような尊称を用いて。
鈴木 その当時ならそれこそ「教え子」の澤里武治も遠野にいたのだから、武治もその集いに出ていたのだろうか。
吉田 鈴木、その『第十號』の最後の頁を見てみろ。たしか「何とかニュース」とかいうのがあって、そこに「賢治の集ひ」の参加者についても載っていたはずだ。
鈴木 そうかこの「各地ニュース」のことだな、気付いていなかった。そうだそうだ、
□翌九月一日には午後一時より前記小學校圖書室にて菊池暁輝氏を中心に、同校先生にして賢治生前教をうけた小笠原露先生及び阿部さちえ、加藤將、菊池の諸先生、花卷農學校時代の教へ子遠野靑年學校教師小原武治、靑笹靑年學校教師淺沼政規諸氏等と賢治の集ひが催され、賢治の理念、思ひ出、新しき時代に就いて靜かに語られ、また詩を朗讀し、賢治作品を歌ひ樂しい會合であつた。
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)6pより>
とある。当時武治は遠野で先生をしていたから、この「教へ子遠野靑年學校教師小原武治」の姓「小原」はミスであり澤里武治に間違いなかろう。しかも、この頃は淺沼政規も遠野にいてこの二人も露と一緒にその集いに出席していたのか。
吉田 それにしても露って立派だよな。あれこれ論われていることを知りながらも、臆することなく「賢治の集ひ」に出席して賢治のことを偲びながら、崇め、讃える歌を詠んでいるわけだから。このことだけからしてみても露の人柄が容易に偲ばれる。
荒木 うん? この当時露は自分が悪し様に言われていることを知っていたのかな。
鈴木 それは、この見開きの右側四頁を見ればある程度、さらに『イーハトーヴォ創刊號』を見ればなおさらに、露がそのことを知っていたと推測できる。
 特に『同創刊號』には、昭和14年10月21日に行われた「盛岡賢治の會」例會における高橋慶吾の談話が、「賢治先生」というタイトルで載っていて、「ライスカレー事件」に関して
 その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ…
などと喋ったことが活字になって載っているからな。
 そしてこちらの『同第十號』のこの右側四頁の「賢治素描(五)」を見てくれ。そこにはどんなことが載っている?
荒木 どれどれ…この関登久也の追想「面影」の中の一節、
 …亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
<『イーハトーヴォ第十號』4pより>
のことだな。あれ? この「賢治氏を中傷的に言ふ云々」と似たエピソードたしか何かで読んだことがあるな。
鈴木 そう、このエピソードは関登久也の他の著書でも紹介されているからそちらを荒木は以前に見たんじゃないのかな。
荒木 そうか、「曾て賢治氏になかつた」ような一大事がその時にあり、この「賢治氏知人の女の人」とは露のことなのか。
吉田 そう一応な。この『同第十號』の誌面作りは編集者の思惑が見え見えで、当時露の噂は一部関係者には知られていたと聞くから、見る人から見れば見開き両面にこれらの掲載が為されておれば左右全体ではゴシップ仕立てとなっており、露はさらしものにされたと言えなくもない。
鈴木 一方、露はこの『同第十號』のみならず『同第四號』にも短歌を寄せているから、まず間違いなく露は機関誌『イーハトーヴォ』の読者であったと判断できる。それゆえ、露はこの慶吾の「賢治先生」等を直接目にしていると言えるだろう。
荒木 つまり、露は「賢治先生」等を読んでいたはずだから、自分が論われていることは十分承知だったというわけだ。
吉田 一方賢治の方だが、「一應の了解を求めに來た」というこの出来事は賢治が亡くなる一年位前のことだというから、「昭和7年9月」前後頃、当然昭和7年の一大事となる。しかも、あの実直で真面目と思われる関登久也がこうまで語っているくらいだから、この訪問の際の賢治はいつもとは全く正反対だったということはほぼ事実と判断しても間違いなさそうだ。
鈴木 しかし実は、この「賢治氏知人の女の人」の件だが、この『同第十號』を見ても、関登久也の他の著書を見ても「賢治氏知人の女の人」が露であるということは一言も述べていないし、それをずばり示唆する記述もまたない。
荒木 そもそも昭和7年といえば、露はその3月末に遠野に人事異動となり、小笠原牧夫と結婚、上郷小学校の先生をしていたのだから、なにもわざわざ遠野から花巻にやって来て「賢治氏を中傷的に言ふ」必要性は常識的に考えてみればなかろう。
 そおそお、そおいえばこの「昭和7年」とは、以前関徳弥の例の『短歌日記』が何年に書かれたものかを考察した際に少し調べた年だ。そしてその当時の交通事情等に鑑みれば、その年の「ある勤務日」に露が上郷から花巻にやってくることはなかなか容易なことではない、というのが結論だった。
吉田 一方で、この「女の人」がちゑということもなかろう。これまたわざわざ東京から花巻にやって来て「賢治氏を中傷的に言ふ」ことは常識的に考えてその必要性がないからだ。
荒木 そおすっと、この「賢治氏知人の女の人」とはもっと他の女性だったということも考えられないべが?
鈴木 確かにそれは言い得て、露やちゑ以外にも賢治をめぐる女性がいた可能性がある、しかもそれは全部で5人であるとさえも言っている教え子がいる。
 というのは、以前少し話題にした賢治の教え子簡 悟の次のような証言( (註十))
 森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
があるからだ。
吉田 この「二人の女性については、すでに話題になっておりますが」という文脈からは、この二人とは露とちゑのことであることがわかるから、妹のトシを含めたこれらの三人以外にも賢治をめぐる女性、それも「私は遠からず結婚するかもしれぬ」と賢治が簡に話した女性までもがいたというわけか。となれば、もしかするとさっきの「賢治氏知人の女の人」とはこの人のことだったということもあり得るな。
鈴木 そうか、なるほど。、もともと関登久也は信頼に足る人だし、簡は、
 農学校で実習などをしている時、一寸のひまに、
「簡君、遊びに来い。」
とおつしやつて下さいましたので、しばしばお宅をお訪ねしました。御病気が大部悪い頃にも伺いましたら、もうその頃は面会謝絶をされておられました。先生のお家の人に伺いをたてると、簡君なら逢いたいと言つて、特別に何度も病床でお話を致したこともあります。
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)276pより>
ということも証言しているということだから、関と簡の二人の一連の証言は共に信憑性が高いと言えそうだからな。
荒木 それは納得。ただしこのエピソードの中身がどんな中傷だったのか、それがわからんことには次に進むことは難しいべ。
鈴木 確かにその通りなのだが、実はそれ以前の問題がそこにはありそうなんだ。
◇佐藤勝治の〔聖女のさまして…〕に対する見方
荒木 何だよ、その「それ以前の問題」とは?
鈴木 ちょっと話は長くなるがまずは聞いてくれ。それは佐藤勝治のある見方についてだ。
 知ってのとおり、彼は「賢治二題」という論考において、最初に〔聖女のさまして近づけるもの〕を挙げ、次に今までに何度か引用した「このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」という例の表現を用い、この詩が「奇異の感を与える」と評している。そして続けて、露の実家と佐藤の家が比較的近いせいもあってか、同論考においては、
 私の知つているT家の人々は、しごく素直な、明るい、みじんもいやみやいんけんな所のない、実に気持ちのいい人々である。…(筆者略)…
 だからT女こそは彼の前にあらわれた、もつとも不運な女性であつたと私は思つている。…(筆者略)…
 かの女と交際しなくなつた何年かあとの病床にまで、なぜこのようにも彼の心を乱したのであろうか。私はこれがふしぎでならなかつたが、これを解くたしからしい鍵を見うけたと思うのは次の話である。
と論述している。もちろんT女=露だ。
 そして、「賢治研究に関して貴重な資料を頭の中にたくさんしまつている」と佐藤が称する伊藤忠吉((ママ))から聞き出したというエピソードを次に紹介している。
荒木 それはまたどんな?
鈴木 それはさ、佐藤が伊藤忠吉、実は正しくは忠一だが、に無理矢理、『いやな思い出があつたらきかせてくれとたのんだ』ところ、
 忠吉さんは、ずいぶんためらつた後に、決心したように、実にいやなこと、それを思い出すと今でも腹わたがにえくりかえるようで、先生についてのすべてのたのしい思い出は消え去つてしまうといつて話し出した。
 話といつても簡単であつて、二つである。一つは、…(筆者略)… 常にもなく威丈高に叱りつけた。忠吉さんはあまりの事に口もきけずに、だまつて叱られていた。
 もう一つの話は、忠吉さんがある人(A)に稲コキ用のモーターを手離したいからどこかえ((ママ))世話をしてくれとたのまれていた。そこでさいわい知り合い(B)でほしい人があつたので世話することにしていたら、村の三百代言(C)がこれで一もうけしようと割り込んで来た。そこで彼(C)は賢治に告げ口をしたのである。そこで忠吉さんは賢治によびつけられ、長時間にわたつて叱りとばされた。つまり、忠吉さんは、Cの世話しかけているAのモーターを、Bと組んで安くAから取り上げようとしている。Cの取引の邪魔をし、Aをだましているというのである。話はまるであべこべなのだが、先生はぜんぜん弁解を受けつけず、村でも名高いCの嘘言だけをほんとにして、お前も見下げはてた奴だ、せつかく俺がこれ程お前のために何彼と心をつかつているのに、よくも裏切つたなと、さんざんな叱言である。忠吉さんも、この時はほんとに腹が立つたが、どうしても話を受けつけないのだからしまいには泣くより仕方がなかつた。
と打ち明けてくれたのだそうだ。
 そこで佐藤は、賢治が三百代言の嘘の方を真に受けた結果忠吉は濡れ衣を着せられ、弁解も受け付けられず、賢治からよくも裏切ったなと罵られたというエピソードがあったことを忠吉から聞き出せたといって、それをここで紹介していたということになる。そして佐藤は同論考で次のように考察し、
 特に私のさもあらんと思うのは、彼が、他人の告げ口を信じてすつかり怒つたことである。彼のような善良な人間は、告げ口の名人にかかると、苦もなく信じてしまうものである。三百代言と知りながらも、最愛の弟子も疑つてしまう。
 いわんやその告げ口をする人間が、もすこし上等な人間であり、自分の親しい者であると、たいてい本気になつてしまう。彼のような上品な人間は、告げ口などという下品なことはしたことがないから、上手な告げ口にすぐ乗るのである。「聖女のさましてちかづけるもの」の詩は、まさにこの種の告げ口(告げ口として常套な誇張と悪意とによる)によつて成つたものである。
と結論している。
吉田 そうか、賢治は善良な人物なる忠吉の方を疑ってしまったということか。まして、その告げ口が賢治と親しい人からのものであったならばなおさらその傾向があると、佐藤は賢治を見ていたことになる。だから、このことが〔聖女のさまして近づけるもの〕にまつわる不思議を解く「たしからしい鍵」であると佐藤は言いたいのだな。
◇二つは同じエピソード
鈴木 そして実際この鍵を使って、今度は次のようなエピソードを紹介しながら「手記成立の」理由がわかったと佐藤は言っている。
 私は、「賢治○○」の著者から、病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。その時はそんなにむきになつて弁解した賢治を一寸おかしいと思つたぐらいであつたが、その後にその手記が発表になり、後日「賢治○○」の著者の性格を知り、その後で又このような忠吉さんの話を聞くに及んで、この手記成立の理由が私には明確に解けたのである。(「賢治○○」の著者は、彼の手許に置いていた私の原稿を、無断でそのままラジオ放送に利用したこと一つでその性格が知られよう。)
<以上いずれも『四次元50』(宮沢賢治友の会)10p~より>
荒木 あれっ、これってさっきのエピソード「それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的云々」とそっくりじゃないか。
吉田 言われてみれば、確かに。ちょっと分析しながら比較してみるか。
  病床の彼=賢治
  T女=賢治氏知人の女の人
  T女の行為=賢治氏を中傷的に言ふ
  大層興奮し=違つた場合を見た樣な感じを受けました
  著者の友人の家=関登久也の家
  いろいろと弁明=一應の了解を求め
  むきになつて弁解=曾て賢治氏になかつた事
となると、この二つはまず同じエピソードだと判断できるね。
荒木 さて、では〝「賢治○○」の著者〟とは一体誰なんだべがね。だいたいは予想が付くけど。
吉田 それでは、佐藤が伝えるこのエピソードを僕なりに翻訳してみるとするか。
 賢治と親しい〝「賢治○○」の著者〟Mが病床の賢治にその後の露に関する「噂話」を告げ口をしたところ、賢治はそれを真に受けて、翌日大層興奮してMの友人でもある関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
 その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと勝治は思ったが、実はそうではなかったということが後にわかった。
 他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減なMのことだから、病床の賢治に「噂話」程度の露の行為を告げ口、それも告げ口の常套な誇張と悪意によるそれだったことと、忠一の証言から判るように、人の告げ口を信じやすい賢治のことだからそれを真に受けてしまった。それが元で、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行き、露との事についていろいろと弁明して行った。
 また、後にMは「賢治○○」において露に関わる手記を発表したが、その手記のいい加減さは、他人の原稿を無断で利用するようないい加減さによるものだと捉えれば説明がついたので、私(佐藤)とすればこの手記成立の理由が明確に解けたのであった。
どうやら、佐藤はこう言いたいかったようだな。
荒木 そうすると結局、
「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」

「それが常套な誇張と悪意に満ちた告げ口をMがした」
という等式が成り立つ可能性がある。
吉田 一方で、果たしてその女の人が中傷したかどうかは確たる証拠があるわけではない。その中傷の中身を云々する以前の問題として、中傷行為そのものが事実あったのかどうなのかという問題があるということか。これが、先に鈴木が「それ以前の問題がそこにはありそうなんだ」と言った意味だったのだな。
鈴木 うん、そういうこと。実は、この頃肝に銘じていることの一つに、何を証言しているかだけではなくて誰が証言したものか、ということも極めて大切なのだということがある。その点から言えば、『佐藤勝治はとても信頼の置ける人だった』ということを私は勝治と親交の深かった人から直接教わっているので、この勝治の証言は信じることが出来ると確信している。
 したがって、この「賢治二題」の趣旨に従えば、先程の吉田の翻訳はほぼ妥当だろう。
吉田 要するに、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に」果たして言ったかどうかは定かではないし、はたまたこの「女の人」が露であるのかさえも怪しい。ついては、そのようなあやふやなものに基づいて検証することなどは無意味、検証以前の話ということになりそうだな、またもや。
荒木 したがって、
 関登久也の「面影」における『賢治氏知人の女の人』絡みのエピソードによって<仮説:高瀬露は聖女だった>を棄却などする必要はない。
ということになる。いやあ嬉しいな。
吉田 おっ、今度は『いやあ嬉しいな』が出たな。
鈴木 今回も露にとっては好ましい結果だったので抃舞している荒木を見て私はほっとしているのだが、つい「稲コキ用のモーター」の件を喋ってしまったので、賢治を尊敬する荒木に対してはちょっと気の毒なことをしてしまったと思っている。
荒木 いやそれとこれとは別だ。いみじくも関が、「それだけ賢治が普通人に近く見え、何時よりも一層親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたといふ私の賢治を説明する常套語とは反對の普通の親しみを多く感じました」と吐露しているように、俺も賢治に一層親しみが増した。それこそ《創られた賢治から愛すべき賢治に》ということで、歓迎すべきことだよ。
吉田 ともすると、賢治の言動に対しては良心的解釈をする傾向があるが、まずは常識を大切にしないとな。人間賢治のことを考える場合には特別扱いなどせずに、普通の感覚で見ていかないと肝心なことを見誤ってしまって、賢治以外の人を傷つけてしまいかねない。
荒木 そういう点から言えば、この件に関しては賢治に非があったことは明らかであり、関登久也の言うとおりであったということだよ。いくら賢治が好きな俺だって、それぐらいのことは弁えている。
 また賢治にしたって、他人を傷つけてまでして自分を庇ってもらうというような卑怯な扱い方など、ちっとも望んでいないはずだ。
 それではこれで検証作業は全て完了か。

 賢治と中舘武左衛門
鈴木 いや、実はあと一つまだ残ってるんだ。
荒木 そおなんだ……よし、じゃもう一踏ん張りしてみっか。
鈴木 では最後に残った一つ。それは以前、荒木が『そこに露の名が出ているぞ』と教えてくれた『年表作家読本 宮沢賢治』に載っていることに関してだ。
荒木 あっ、そういえばそんなことがあったな。
鈴木 念のため、当該個所をもう一度見てみよう。昭和7年6月の出来事の一つとして、このようなことがそこには述べられている。
 二二日 中舘武左衛門(盛岡中学の先輩で、自称「行者」)宛返書。賢治の病気の原因が、父母に背いたことや女性との関係にあるというような内容の手紙がきたらしい。「大宗教」の教祖、中舘に対して、言葉は丁寧だが厳然たる調子で反発している。
<『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)197pより>
荒木 そおそお思い出した。そこには露の名は出てこないが、その頁の下段のところに註釈があってそこに露の名が出ていたはずだ。どれどれ、やはり
 一時噂のあった高瀬露との関係についても「終始普通の訪客として遇したるのみ」と一蹴している。普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが、わざわざ反論しているのは、妹の死・父母への反抗・高瀬との関係、それぞれが、賢治の心の傷だったからかも知れない。
<『年表作家読本 宮沢賢治』197pより>
となっている。
荒木 ところでこの中舘某という人物、以前チラッと名前が出たような気がするが、どんな人なんだ?
鈴木 確かに前に少しだけ触れた人だが、『白堊同窓会会員名簿』(昭和59年版)によれば、
 明治43年3月卒 中舘武左エ門 一高・京大 本籍 気仙郡世田米村
となっていて、世田米村出身だがわざわざ盛岡中学に行き、その後一高を経て京都帝國大學法科に進んでいる。
荒木 え~と、賢治は盛岡中学をたしか大正3年に卒業しているはずだから中舘は盛中の四年先輩。ということは、旧制中学は「5年制」だから、盛中で一年間は一緒だったのか。
鈴木 一方中舘は、大正15年8月18日及び同22日に『岩手日報』に「霧多布の海」というタイトルの随筆を寄稿している。とりわけその中で興味深いのは、その22日分の中に
 わたしは實に淋しい人である。この淋し味を慰めて鞭撻してくれるのは友人諸君である。花卷の佐藤金治君からは多年骨肉も及ばぬほどの應援を受けて來た。
           <大正15年8月22日付『岩手日報』四面より>
と述べているところだ。
吉田 この佐藤金治とは、例の賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人であり、その中でも一番成績のよかった級長の佐藤金治その人のことだろう。もちろんその他の二人のうちの一人が宮澤賢治であり、もう一人が小田嶋秀治だ。
荒木 そうそう秀才の「三治」って聞いたことがある。そしてその金治の家は賢治の家の直ぐ近くだったはずだから、金治から「多年骨肉も及ばぬほどの應援を受け」というほどに親密であった中舘であれば、その金治から賢治のことについては結構情報を得ていた可能性があるな。
鈴木 また、賢治は『昭和二年日記』の断片の1月7日(金)分にこう書いている。
中館武( (ママ))左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
<『校本全集第十二巻(上)』(筑摩書房)409pより>
したがって、中舘武左衛門は正月松の内に下根子桜の賢治の許を訪れるような人物だから、昭和2年頃の賢治は結構中舘と親しくしていて良好な関係にあったと思われる。
吉田 また、一番先頭に中舘の名前を書いていることからは、賢治は敬意も払っていると推察できる。
鈴木 ところがその中舘宛の昭和7年の、とても賢治が書いたとは思えない内容の書簡下書が実はあるというんだな。
荒木 えっ、賢治らしからぬとな。
鈴木 それは、昭和7年6月22日付中舘宛書簡下書〔422a〕であり、
  中舘武左衛門様                          宮沢賢治拝
     風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亘りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
 次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
 尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなどの俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。  敬具
<『新校本全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)407p~より>
というものだ。
吉田 最初は「御親切なる御手紙を賜り」と慇懃に始まったと思いきや、最後は何と、吃驚仰天「呵々。妄言多謝」という皮肉たっぷりの言葉で締めくくられている。さぞかし賢治は中舘をとことん嘲ってみたかったのだろう。おそらく、中舘からの来簡に対して賢治は腸が煮えくりかえっていたに違いない。
鈴木 ちなみに米田利昭のこの「書簡下書」についての見方は、「まじめに対応し、真実を吐露した手紙である」とか、「こんな相手にではあってもわるびれずに真実を告げている」というもので(『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)271pより)…
荒木 「まじめに云々、真実云々…」か。それはちょっと良心的過ぎる見方じゃないべが。
鈴木 …さすがに賢治もそこまで激昂してはいなかったと思うが。とはいえ、盛岡中学の大先輩に対して『この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝』と言うのもな。
 賢治を振り子に例えれば、〔聖女のさましてちかづけるもの〕で極端にまで振れ、そして〔雨ニモマケズ〕でその対極にまで振れ、またこの書簡下書〔422a〕ではまた元の極に戻ったような振れ方をしている。賢治って感情の起伏がかなり激しかったのかな。
吉田 先に荒木が『賢治は感情の起伏が激しかったと俺も人づてに聞いていた』と言っていたが、賢治の激しい気性に関連しては菊池忠二氏も、
 これらの回想の中で、私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしていあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という話なのだ。
<『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)36pより>
と述べているから、一概に否定もできんだろう。
鈴木 さて、この「書簡下書」中の「次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て」という部分からは、昭和3年の夏8月に実家にて病臥する前の年、すなわち昭和2年に「御目にかゝりし」ということになるから、この時二人は相見えているということとなり、これが例の昭和2年1月7日の年賀の挨拶のことを言っていることになるだろう。
荒木 とすれば、さっき鈴木も言っていたように、昭和2年の正月松の内に下根子桜の賢治の許に訪ねて来るような中舘だったのだから、昭和2年当時二人の関係はやはり良好だったのだということか。

 賢治遠野へ露を訪ねる
吉田 では、肝心の「聞き込みたる、若しや旧名高瀬女史の件」についてだ。
荒木 あれっいま気付いたのだが、「旧名高瀬女史」と賢治が表現しているから、この書簡下書の日付である昭和7年6月22日頃には賢治は露が結婚したということを知っていたということにはなるのだろうが、露の新しい姓は知らなかったのかな?
吉田 案外な。…でも待てよ、あの澤里武治が昭和7年の3月末に上郷小学校を去って高等師範に入ったのと、露がその上郷小学校に着任したのは入れ違いではあるけれども、なにしろ武治が養子縁組をした澤里家と露の嫁ぎ先の小笠原家は一本の道路を挟んで筋向かいだからな、露が小笠原家に嫁いだということを賢治が知らないわけがないか。あれだけ書簡のやりとりを頻繁にしていた賢治と武治なのだからな。
荒木 しかも、下根子桜時代に武治は賢治の許を幾十回となく訪ねていたという(『續 宮澤賢治素描』(関登久也著、眞日本社)70p)ことだから、露のことは知らないはずがなかろうからな。
鈴木 そうそう「訪ねていた」といえば、この度一般には知られておらずしかもとても有力な「訪ねていた」情報を知った。
 過日、遠野市在住のAという方が私のところに訪ねて来られたのだが私は不在だったため会えなかったということがあった。そこでA氏は拙宅の郵便受けに、「露先生の教え子です」というメモを書いたご自分の名刺を入れて帰られた。もちろん、私は押っ取り刀で遠野市の同氏宅を訪問した(平成26年7月14日)。
 同氏からは、
 恩師のあの優しい露先生が「悪女扱い」されていることを知り今はびっくりしている。決してそのような先生ではないのでそのことを知ってもらいたく、先日鈴木さんをお訪ねしたのです。
と言われた。そして、
・同氏の家と露先生の家は近かったから、露先生はしばしば同氏の家に来ていた。
・同氏の妹と露先生の次女は同級生で仲良しだった。
・同氏の妹に露先生の次女が、
 母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということなどを教わった。
吉田 じゃじゃじゃ、凄いじゃないか。何と、遠野に嫁いだ露を賢治がわざわざ訪ねていたいうのか。確かにこれは初耳だ。ところでこの遠野訪問時期だけど、それは何年のことだと言ってた?
鈴木 それははっきりは判らないと言ってた。とはいっても、露が遠野に嫁いで行ったのは昭和7年の春で、賢治が亡くなったのが昭和8年9月だから、少なくともそれは昭和7年か8年かのどちらかの年となるだろ。そして、どちらかといえば昭和7年だろう。「賢治年譜」等からは、昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられたようだが、昭和8年はほぼそうとは言えなさそうだからな。
荒木 いやそうであったとするならば、「どちらかといえば」ではなくて、ほぼ間違いなく昭和7年だべ。
鈴木 なんでまた?
荒木 だって、さっき引用した関登久也の追想「面影」の中に、「亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました」とあったじゃないか。
 となれば、「昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられたようだ」ではなくて、同年のある時、賢治は「病氣がひとまづ良くなつて」実際関の家に「一應の了解を求めに來た」と関がそう証言していることになるのだから、「昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられた時期もある」ということだべ。
鈴木 あっそうだよな、一本取られた。確かに荒木の言うとおりだ。したがって、
『賢治が遠野の露に会いに来ていた』という意味の露本人の証言があるし、それはほぼ昭和7年のことであった。
ということか。
吉田 とすればこれは凄いことが起こりそうだぞ。露本人が次女に話した『賢治が遠野の露に会いに来ていた』という意味のこの証言で全てが皆繋るんじゃないあかな。
荒木 へえ~どんなふうにだ。
吉田 とは言っても、これから話すことは一部推測部分もあるので「思考実験」だからそのつもりで聞いてほしいのだが、他でもない聞き込みたる、「若しや旧名高瀬女史の件」とはこの証言に関する風聞のことだったのだよ。おそらく。
鈴木 あっそうか、
  聞き込みたる、「若しや旧名高瀬女史の件」
   =「賢治が遠野に嫁いだ露を訪ねて来た」という風聞
という等式が成立する可能性が大ということか。
荒木 そおかそおか。おそらく昭和7年に、賢治が遠野に露を訪ねて来たことに関するよからぬ「風聞」が広まっていたのか。
鈴木 知ってのとおり、露が嫁いだ小笠原家といえば遠野南部の名家中の名家だ。その名家に嫁いだばかりの露の許に、あろうことか三十半ば過ぎの男性がわざわざ訪ねて行ったのだ。普通そんなことをしたら誰だって訝しく思うだろう。
吉田 おそらく一方で、このような事柄に対しては無頓着だと思われる性向がある賢治のことだから、しかも小笠原家の家格のこともさらにあって、そのことがたちまち周辺にスキャンダルとなって広まってしまったのだろう。
荒木 確かにな。もしこの賢治の遠野訪問が事実であったとしたならば、結婚したばかりの露のところへ周りから見れば怪しげな風体の中年男が訪ねて来たのだから、小笠原の家柄のこともありその訪問はたちまちスキャンダルになった可能性大だ。となれば、おそらく賢治のそのような行為は周りから顰蹙を買っただろうから、それは良からぬ「噂話」となって遠野どころかたちまち花巻にも伝わって来ただろう。
吉田 そしてその頃であれば、遠野出身の佐々木喜善は昭和7年4月~5月、エスペラント講習会を開くために花巻に滞在していたことがあるから、そのスキャンダルは喜善の知るところとなった可能性もある。
 しかも、先ほどの中舘宛書簡下書〔422a〕には「新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり」とも書かれていることから、中舘と喜善とは親交があったとも考えられる。
鈴木 あるいは中舘と佐藤金治とはとても親密だったから、それも含めたいずれかのルートを通じてこのスキャンダルが中舘の知るところとなったのだろう。
荒木 それゆえ、賢治は中舘に対して「新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることあり」と述べてはいるものの、わざわざ中舘が「岡つ引き」のするような「聞き込み」などせずとも、その「風聞」が自然に中舘に伝わっていったかもしれんな。
吉田 そこでこのスキャンダルを知った中舘はここぞとばかりに思い立った。というのは、以前書簡〔241a〕で
 ご昇天は何時でもおできでせうから。…(筆者略)…あなたの様に石からも鳥からも道を得られる方ならばともかく、まづ大低の所はご失望と軽べつに終られるのが例ですからなにとぞ齢く( (ママ))ださらぬやう
<『新校本全集別巻 (補遺篇)』(筑摩書房)27pより>
と賢治からたっぷりと皮肉られていたこともこれあり、賢治に「先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる」と書いた手紙を賢治に出して意趣返しをした。
 そしてその中にはこのスキャンダルがらみのことも中舘はあてつけて書いておいた。その部分が、賢治の中舘宛下書稿〔422a〕で「心配の何か小生身辺の事」に対応していたのだろう。
鈴木 そこで賢治は「別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之」というように、露との間には何も特別のことはありません「普通の訪客として遇したるのみに」と弁明し、返す刀で
 憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき…何分の慎重なる御用意を切に奉仰候
とか、
 新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることあり…この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。
とこれまた辛辣な言葉を連ねて中舘に逆襲した。
荒木 そこには二人の間の激しい丁々発止があったということはこれでほぼ明らかだし、逆に、やはりこの「風聞」はかなり周囲から顰蹙を買っていたものだったということが導かれる。
吉田 つまり賢治は痛いところを中舘から突かれたから怒り心頭に発し、辛辣に「岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝」と締めくくって、逆襲しようとしたのだ。
 これで思考実験は終了。
荒木 あっそうかそういうことだったのか。賢治は皮肉を連ねてはいるけど、内心怒り心頭だったのだ。まさに、この時の賢治の激昂振りと「曾て賢治にはなかつた事」のそれとはそっくりではないか。これのことだったのだな、吉田が先に「この娘さんの証言で全部繋がりそうだ」とのたもうたのが。
鈴木 な~るほど、そういうことか。

 全てが皆繋がった
吉田 先に引用したように、この中舘と賢治との間のやりとりに関して山内修氏は、「普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが」と疑問を呈している。
荒木 確かに。もし自分に非がなかったのであれば、賢治も当時30代半ばだったのだからそこまでムキになる必要もなかっただろうに。
鈴木 まして中舘は盛岡中学の四年も先輩だ。その中舘に対して賢治が「呵々。妄言多謝」と述べていたということは、常識的に考えればそんなことはあり得ない。あまりにも失礼な言動だから。
吉田 しかし現実にはそのようなことが起こっていたわけだから、それは、賢治からすれば相当痛いところを厳しくズバリと中舘から指摘されたということの裏返しだろう。
荒木 そうだよな、大人の分別をもって「黙殺」すればいいのに。賢治は余程腹に据えかねていたということか。
吉田 では一体その時どんなことを賢治は中舘から言われたのかというと、残念ながらその内容については従前知られていなかった。ところがこの度、
 露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たとことがある』と言っていた。
という露の次女の証言を教わって僕はピンときた。まさしくこの賢治の行為ならばその「内容」にピッタリと当て嵌まると。
荒木 確かにな、小笠原家に嫁いだばかりの露の許にわざわざ賢治が訪ねて行ったのだから、露は立場がなくなるし、もしこれが夫の小笠原牧夫や小笠原家の人々に知れてしまったならば、当時のことだからただでは済いし、このことが噂となってたちどころに広まったであろう。なにしろ、小笠原家はかつて遠野南部の名家中の名家の家柄だったのだから。
鈴木 それではこれで大体実験道具は揃ったようだから、あとは一つだけ
 この「昭和7年に賢治は遠野の露に会いに行った」という「噂話」が花巻にも伝わってきた。……④
ということを仮定して、以下このことに関する思考実験をしてみよう。
吉田 それでは今までのことを踏まえて、僕が以前翻訳したことを修正しながら思考実験を再開してみると、
 賢治と親しいMが、「昭和7年、遠野の小笠原家に嫁いだばかりの露のところにあろうことか賢治が訪ねて行った」という「噂話」を聞きつけたので、早速Mは病床の賢治にご注進に及んでこの「噂話」を告げ口をしたところ、賢治はそれを真に受けて大層興奮して関登久也の家に、病臥中の身にもかかわらず出かけて行き、露を遠野に訪ねた事についていろいろと弁解して行った。
 その時はそんなにむきになって弁解したという賢治を一寸おかしいと勝治は思ったが、実はそうではなかったということが後でわかった。それは、他人の原稿を無断でラジオ放送に利用するようないい加減な男Mのことだから、告げ口の常套である誇張と悪意を以て病床の賢治にこの「噂話」をしたに違いないし、しかも賢治は人の告げ口を信じやすいタイプだからそれを真に受けてしまったと判断できる。それゆえ、賢治は翌日大層興奮して関登久也の家にわざわざ出かけて行て、露との事についていろいろと弁解して行ったのだった。
 そして、そのむきになって弁解している賢治の姿は関の目から見れば、「私は違つた場合を見た様な感じを受けました」と見えた。
ということになるのだろう。
鈴木 そうか、今まではこの「噂話」の中身がわからなかったからいま一つ釈然としなかったが、これですっきりとした。
荒木 でもさ、どうして「関登久也の家に」だったのだべ?
鈴木 素直に考えれば、
 賢治に訪ねてこられた露としては彼のその行為は迷惑この上ないことだったから、そのことを花巻高等女学校の級友でもあった関登久也の妻のナヲに『賢治さんが私のところに訪ねてきたので困っている』と相談した。
というあたりだろう。
吉田 それ以前にも、露が賢治から貰った本を返却しようとした際には、露はナヲにそれを頼んでいたから、その可能性は充分にあり得る。しかも、その本の返却の件を夫の登久也が日記に書いているくらいだから、この「噂話」の場合もナヲは夫の登久也に話したであろう。そしてそれが登久也からMにも伝わっていったのであろう。
荒木 そうすると、以前〝曾て賢治氏になかつた事〟で話題にした関登久也の「面影」の一節、
 …亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
(傍線〝   〟筆者)
<『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)4pより>
についても、
 賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ
   →「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」
という「風聞」があるという
と置換すればすんなりと当て嵌り、すんなりと理解できる。
鈴木 この表現「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」そのものからは、いかにもその「女の人」の側の行為にこそ問題がありそうな印象を受けるが、もしこの「女の人」が実際「賢治氏を中傷的に言ふ」たのであれば、それが露であるということの蓋然性は極めて低い。そのようなことをする時間的余裕がない、遠距離であるという地理的困難さがある、そもそも結婚したばかりの露が賢治を中傷する必要性がない等々、少なからずその理由は挙げられるのだから。
荒木 それと比べれば、実質的には昭和7年に、「賢治は遠野に露に会いに来た」という意味の露の証言があるのだから、賢治のこのような行為があったという蓋然性の方が遙かに高かろう。こちらならばその中身が具体的にわかっているわけだが、一方の「賢治氏を中傷的に言ふ」たについてはその中身が何かもわかっていないのが実態だから、なおさらにだべ。
吉田 だから、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」は実は事実ではなく、真相は「昭和7年、賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねた」という「風聞」があったということさ。
鈴木 ではそろそろ思考実験はこのあたりで終えることとして、この思考実験の結果も踏まえ、なおかつ先の仮定〈④〉以外の推測部分は極力排除してまとめてみようか。
荒木 まかせろ、それは大体こういうことになる。
 昭和7年のこと、
(1) 賢治は結婚したばかりの露を遠野に訪ねて行った。その訪問は賢治からすれば「神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之」という程度の認識ではあったが、世間一般から見れば常識的にはあり得ない訪問だったのでそれは良からぬ「風聞」となってたちまち広がってしまった。
(2) もちろん訪ねられた露としてもその「風聞」はとても困ったことだったので、それまでも何くれと相談に乗ってくれていた高等女学校時代の級友ナヲに相談した。それでナヲはそのことを夫の関登久也にも知らせ相談した。一方登久也から友人でもあるMにもそのことが伝わった。
(3) そこでMがそれを賢治に知らせたところ、これはまずいことになってしまったと思った賢治は、まだ病臥中の身ではあったが関登久也の家に行って弁解した。
なお、関登久也の「面影」の
 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
と佐藤勝治の「賢治二題」の
 病床の彼にその後のT女の行為について話したら、翌日大層興奮してその著者である彼の友人の家にわざわざ出かけて来て、T女との事についていろいろと弁明して行つたと、直接聞いたのである。
という二つののエピソードは実は同一のものであった。
(4) 中舘宛書簡下書〔422a〕で賢治が書いている「若しや旧名高瀬女史の件」とは、実は「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という「風聞」のことであり、中舘がこのスキャンダルを賢治に書簡で伝えたところ、賢治は「終始普通の訪客として遇したるのみ」ととぼけると共に「呵々。妄言多謝」と辛辣な言葉を用いて強く反撃した。
鈴木 なるほどな、今までこれらがそれぞれ別個のものだとばかり思っていたが、こうして皆すんなりと全てが繋がった。実は何のことはない、いずれも皆一つのことについて述べていたということだったのか。
荒木 つまり、事の起こりは「昭和7年、遠野の名家小笠原家に嫁いで行った露にあろうことか賢治がわざわざ会いに行った」ことにあったのだったということになるべ。
吉田 したがって、これだけ合理的に説明ができたわけだから逆に、先の仮定〈④〉もほぼ現実にも起こっていたであろうし、
 露本人が次女に、『賢治さんが遠野の私の所に会いに来たとことがある』。と言っていた。
という証言も、しかもそれが昭和7年であったことの信憑性もかなり高いものとなったとも言えるだろう。
荒木 どうやら、関も中舘も勝治も、そして露本人も皆このことに関連していると判断できそうな証言を残しているから、賢治は昭和7年に、遠野に露に会いに行っていたということはほぼ事実で、そしてそれは一大スキャンダルとなったということはかなり蓋然性が高いということになったしまったか。
鈴木 というわけで、次の3つの資料
   ・関登久也の「面影」
   ・佐藤勝治の「賢治二題」
   ・中舘宛書簡下書〔422a〕
における「昭和7年」の露に関する記述内容の幾つかが<仮説:高瀬露は聖女だった>の反例となる可能性があるかというと、ある一つを除いてはほぼあり得ないだろうということが今までのことからほぼわかった。そしてその「ある一つ」とは、「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」のことである。
 しかし、実はそもそも果たしてこの「賢治氏知人の女の人」 が露その人であるかどうかもはっきりしていないし、はたまた露がそのようなことをしたという何らかの裏付けがあるというわけでもない。しかも、中傷的に言ったというその中身も全くわかっていないのだから、所詮これは「あやかし」に過ぎない。
吉田 しかもこの「賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふ」の部分は実は嘘であり、この部分は正しくは「「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」という風聞が広まっていた」という蓋然性が、また、「昭和7年、賢治は遠野に露に会いに行った」ということ自体もその蓋然性がそれぞれ極めて高いということも共に知り得た。
 もちろん、これらの3つの資料の中に今回のことに関わって露がその非を問われるものは前掲の「ある一つ」以外にはない一方で、賢治のそれはかなりあると言ってもよいということもまたわかった。
鈴木 したがって、これらの3つの資料のいずれによっても〈仮説:高瀬露は聖女だった〉が棄却されるということはない。そんなことをしたならば、それはあまりにもアンフェアなことだということもあるが、それ以前にこの「ある一つ」それこそが「あやかし」なものなので、そんなもので検証などはできないからだ。
 それから、これら以外のことで「昭和7年」において検証作業をせねばならない資料や証言は今のところないはずだから、これで「昭和7年」に関してはその作業は全て終了した。
荒木 ということは、「昭和7年」関連についてもこの<仮説>の反例は何一つ見つからなかったから、やはり今回も
  <仮説:高瀬露は聖女だった>は棄却しなくてよい。
ということか、いやあ嬉しいね。先につい口走ってしまったが何と、この<仮説>は「晴れて雛になって歩み始める」ことができそうだ。

 続きへ。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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