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「向ふの坂の下り口」に露の家があった

2024-02-07 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露

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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
第一章 露に関して新たにわかったこと
「向ふの坂の下り口」に露の家があった
 ご存知のように、宮澤賢治が下根子桜に移り住んでから約一年後の昭和2年4月21日に詠んだであろう詩の一つに〔同心町の夜あけがた〕がある。それは次のようなものだ。
                  一九二七、四、二一、
   同心町の夜あけがた
   一列の淡い電燈
   春めいた浅葱いろしたもやのなかから
   ぼんやりけぶる東のそらの
   海泡石のこっちの方を
   馬をひいてわたくしにならび
   町をさしてあるきながら
   程吉はまた横眼でみる
   わたくしのレアカーのなかの
   青い雪菜が原因ならば
   それは一種の嫉視であるが
   乾いて軽く明日は消える
   切りとってきた六本の
   ヒアシンスの穂が原因ならば
   それもなかばは嫉視であって
   わたくしはそれを作らなければそれで済む
   どんな奇怪な考が
   わたくしにあるかをはかりかねて
   さういふふうに見るならば
   それは懼れて見るといふ
   わたくしはもっと明らかに物を云ひ
   あたり前にしばらく行動すれば
   間もなくそれは消えるであらう
   われわれ学校を出て来たもの
   われわれ町に育ったもの
   われわれ月給をとったことのあるもの
   それ全体への疑ひや
   漠然とした反感ならば
   容易にこれは抜き得ない
     向ふの坂の下り口で
     犬が三疋じゃれてゐる
     子供が一人ぽろっと出る
     あすこまで行けば
     あのこどもが
     わたくしのヒアシンスの花を
     呉れ呉れといって叫ぶのは
     いつもの朝の恒例である
   見給へ新らしい伯林青を
   じぶんでこてこて塗りあげて
   置きすてられたその屋台店の主人は
   あの胡桃の木の枝をひろげる
   裏の小さな石屋根の下で
   これからねむるのでないか
<『校本全集第四巻』(筑摩書房)72p~より>
 さて、この記述内容に従えば、賢治は当時としては極めて珍しかった高価なリヤカーに「青い雪菜」や「六本のヒアシンス」を載せて同心町(向小路)を北に向かっていた。しかし、雪菜やヒアシンスは今朝もまた売れそうにないし、そろそろ「向ふの坂の下り口」が近づいてきたから、そこまで行ったならばいつものようにそこで待っている子供にこのヒアシンスの花を呉れてやろうか、などと考えて賢治はこのように詠んだのだろうか。
 では、賢治はなぜこの詩の中で次の連
     向ふの坂の下り口で
         ~
     いつもの朝の恒例である
を「字下げ」したのだろうか。
 素朴に考えれば、賢治がこの部分を「字下げ」したということは、ここで詠んでいることは他の部分とは異なる心情を詠んでいたのであろう。そこで逆に「字下げ」以外の部分を概観してみると、下根子桜に移り住んでからもう一年が経ったというのに、未だに地元の人たちとはあまり馴染めず、周りから浮き上がっている賢治の疎外感がまず感じ取れる。ということは、この「字下げ」による転調の狙いは、それとは逆のことを賢治はそこに込めたかった、つまり、「向ふの坂の下り口」とは賢治の疎外感を一時(いつとき)忘れさせてくれる所、賢治の心が救われる場所であるということを詠み込みたかったのではなかろうか。
 そのようなことに思いを巡らしていた頃、私は幸運にもある地図を見ることができて、やはりそこには賢治のそのような想いが少なからずあったのだということを確信した。というのは、この「向ふの坂の下り口」とは賢治にとって極めて象徴的な場所であったことがその地図によってわかったからだ。もう少し具体的に言えば、今でもこの「向ふの坂の下り口」、つまり向小路の北端は下り坂になっているのだが、なんと、
   その「坂の下り口」に高瀬露の家が当時あった。
ということを知ることができたのだった。
 実は、露の生家については上田哲が論文「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―<悪女>にされた高瀬露―」の中で、その住所が
   花巻町向小路二十七番地
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学、平8)85pより>
であるということは既に明らかにしていた。ところがそこが具体的に一体どこなのかについては今まで誰も公には明らかにして来なかった。
 それがたまたま、下根子出身で東京在住の伊藤博美氏から私が頂いた『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)に「大正期の同心屋敷地割」という地図が載っており、幸運にも私は「そこ」が特定できた。同地図によれば、「そこ」、すなわち「花巻町向小路二十七番地」とはまさにこの「向こふの坂の下り口」のことだったからである。
 そこでこの詩〔同心町の夜あけがた〕の記述に従えば、賢治はこの連において 「いつもの朝の恒例である」と詠んでいるから、彼はしばしばこの「坂の下り口」で立ち止まっていたであろうことが窺える。さらには、この「字下げ」はその場所が賢治にとって心が救われる場所であったということを示唆しているようだから、その場所には露の家だけがあるわけではなくてその他の家ももちろんあるにはあるのだけれども一つの可能性として、露の家のある「坂の下り口」に立ち止まればそこでは鬱屈した賢治の心が救われたという見方ができる。
 したがって、賢治はある時期から露を拒絶し出したと一般には言われているようだが、少なくともその頃の賢治にとって露はかなり気になる存在であったということをこの「字下げ」は暗示していると共に、賢治が「字下げ」した訳はそこに露への想いを込めかったためだったという可能性も浮かび上がってくる。
 どうやら、賢治にとって「向ふの坂の下り口」とはかなり象徴的な場所であったであろうことだけは、これでもはや間違いなさそうだ。
 さて、賢治の詩友で、深い親交があった森荘已池の著書『宮沢賢治の肖像』の中に「宮沢清六さんから聞いたこと」という一節があり、次のようなエピソードが紹介されている。
 白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(筆者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。二階の窓から顔を出した兄へ、「おもしろいお客さんを連れてきた」といいましたら、兄は「ホウ」と、喜んで、私とロシア人は二階に上ってゆきました。
 二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさんという婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。リムスキー・コルサコフや、チャイコフスキーの曲をかけますと、ロシア人は、
「おお、国の人――」
と、とても感動しました。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭49)236pより>
 この清六の証言からは、賢治が下根子桜に住まっていたある日、賢治は露を招き入れて二人だけで二階にいたことがわかる。なぜなら、当時そこに出入りしていて、オルガンで讃美歌が弾けるイニシャルTの女性といえば露がいるし、それ以外の女性でこれ等のことが当てはまる女性は考えられないからだ。もちろんこの清六の証言に従えば、この当時、賢治と露の関係はオープンであり、しかも親密で良好であったということもわかる。
 さらに清六は次のようなことも証言しているということを、他ならぬ露の教え子A氏(昭和十年代に遠野尋常高等小学校で露に担任してもらったという)から最近教えてもらった。
 それは、〝ポラーノの広場のうた〔「ポラーノの広場」の歌(四)〕〟に関する
 この歌の原曲は、明治三十六年初版の『讃美歌』(前出)の第四百四十八番『いづれのときかは』で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
<『新校本全集第六巻 校異篇』(筑摩書房)225pより>
という記述があるということをである。よって、賢治は露から讃美歌『いづれのときかは』を教わっていたということを清六が証言していたということになる。
 したがってこれらの清六の二つ証言からは、当時の賢治と露とはとても良い関係にあったことが導かれるから、この頃の露が賢治にとって<悪女>であったはずがなかろう。
 惜しむらくは、前のロシア人のパン屋のエピソードのみならずこのようなことまで清六が知っていたのであれば、露は巷間言われているような<悪女>ではないことを清六は十分に弁えていたはずだから、露はそんな女性では決してないということをどうして世間に訴えなかったのかということだ。もし清六がそうしていたならばそれだけで、巷間言われている<露悪女伝説>などは決して起こらなかったのではなかろうか。
 また、清六のその一言を天上の賢治も待っていたはずだ。賢治はこれだけ親しく付き合っていた相手の露が<悪女>にされることなど望むはずもなく、また、露が巷間そう言われていることは延いては賢治自身が貶められていることでもあるということに忸怩たる想いでいるはずだからである。なお不思議なことに、<悪女伝説>に言及している賢治研究家の誰一人として清六のこれらの証言を取り上げて、だからこの<伝説>には問題があるのだということを指摘していないという実態がある。
 一方、賢治の許に出入りしていた当時の露は周りからどのように受けとめられていたのだろうか。当時の花巻共立病院の院長佐藤隆房はそのあたりを次のように述べている。
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子さんといふ、たゞ一人の女性がありました。…(筆者略)…
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利で有難がつて、
「この頃は美しい會員が來て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
 と、集つてくる男の人達にいひました。
「ほんとに協會も何となしに潤ひが出來て、殺風景でなくなつて來た。」
 と皆もいひ合ひ、
「その内、また農民劇をやらうと思ふが、その中に出る女の役はあの人に賴めばいゝと思ふ。どうだね。」
 と賢治さんも期待を持つてをりました。
 ところで、その内田といふ人は、自分が農村の先生であるので、農村問題等に就いても相當理解があり、性質も明るく、便利といつては變だが、やつぱりさういふ都合の好い會員でした。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)175p~より>
 もちろんここで内田康子という名は仮名(かめい)であり、露のことである。そしてこの記述に従えば、下根子桜の協会に来て何くれと手伝ってくれる露に賢治は感謝し、そのことを協会員たちも喜んでいたことになる。しかも、計画していた農民劇では役を頼もうということまで賢治は考えていたことや、下根子桜を訪れる露は賢治からかなり感謝されていたいたこともわかる。
 ただし気になるのが「便利と言つては變だが、やつぱりさういふ都合の好い會員でした」という個所であり、もしかすると露は都合よく利用されたのだということを著者佐藤隆房は我々に示唆しているのかもしれない。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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