みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第一章 「羅須地人協会時代」の検証(テキスト形式)

2024-03-25 14:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
  〈表表紙〉下根子桜の白花露草         (平成28年8月24日撮影)
   〈裏表紙〉早池峰山のつめくさ(ホソバツメクサ)(平成16年7月10日撮影)
 
裏表紙の短歌五首は、昭和14年12月13日に「賢治先生の靈に捧ぐ」と題して露草(高瀬露の号)が詠んだものである。
               〈『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)より〉
     また、高瀬露は昭和15年9月1日には「賢治の集ひ」と題し、小笠原露の名で次のような短歌四首も詠んでいる。
       師の君をしのび來りてこの一日心ゆくまで歌ふ語りぬ
       教へ子ら集ひ歌ひ語らへばこの部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
       いく度か首をたれて涙ぐみみ師には告げぬ悲しき心
       女子のゆくべき道を説きませるみ師の面影忘られなくに
                          〈『イーハトーヴォ第十號』(同)より〉
    賢治の真実と露の濡れ衣
    鈴木 守
         目次
はじめに 1
第一章 「羅須地人協会時代」の検証  1
1.「賢治神話」検証六点 2
 ㈠「独居自炊」とは言い切れない 2
 ㈡「大正15年12月2日の上京」の牽強付会 2
 ㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治 4
 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」  8
 ㈤ 昭和二年の上京と三か月のチェロ猛勉強 11
 ㈥「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」 13
2.「賢治研究」の更なる発展のために 15
第二章 「賢治伝記」の看過できぬ瑕疵 18
 あやかし〈高瀬露悪女伝説〉 18
 風聞や虚構の可能性 20
「ライスカレー事件」 22
 「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」 24
 虚構だった森の「下根子桜訪問」 26
 冤罪とも言える〈悪女・高瀬露〉 27
おわりに 28
 『白露草協会』の会員募集 30
《用語について》
・「下根子桜」=下根子桜の「宮澤家別宅」のあった場所
・「羅須地人協会時代」=宮澤賢治が「下根子桜」に住んでいた2年4ヶ月
・「旧校本年譜」=『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)所収の「賢治年譜」
・『新校本年譜』=『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)
・帰花=花巻に帰ること
《引用文について》
  基本的にはゴシック体にしてある。
  はじめに
 しばらく前のことになるが、声優で歌手でもあり、第19回イーハトーブ賞奨励賞受賞者でもある桑島法子の父の葬儀に私は参列していた。その際、彼女は宮澤賢治の詩を朗詠して父を送った。なぜか。それは、法子の父正彦は賢治が大好きだったからだ。また、法子が賢治作品の「朗読夜」をしばしば開いているのも、そのような父の影響があったからだ。
 さて、どうして私がそのようなことを知っているのかというと、父正彦は私の中学時代の同級生だからだ。今でも目をつぶれば、かつて何度か私達の前で身振り手振りよろしく朗々と「原体剣舞連」を歌い上げた彼の姿がまざまざと眼裏に蘇る。時に、現在活躍中の作品朗読者の同作品の朗読を聴くこともあるが、正彦のそれに誰も叶わないと私は思っている。
 その同級生の影響もあったからなのだろうか、私も早い時点から賢治が好きで、賢治のことも賢治の作品も共によくわかってもいないのに賢治を尊敬していた。そこで若い頃の私は、尊敬する人物は誰ですかと問われると、
 破滅的で微分的な啄木と違って、積分的で求道的な生き方をして、貧しい農民たちのために献身した賢治です。
などと粋がって答えたものだった。
 しかし、相も変わらず私は『春と修羅』がよくわかっていない。ただ例えば、勇壮というよりはおとなしいとさえも感ずるあの「雛子剣舞」を基にして、よくぞここまで勇猛果敢で、圧倒的迫力のある心象スケッチ「原体剣舞連」に創り上げたものよと、賢治のそのずば抜けた創造力に感心する。
あるいは、私からすれば「第四次」の特異な感覚がなければ書けないだろうと思われる童話「やまなし」や「おきなぐさ」、そして「星の王子さま」に勝るとも劣らないと信じている「なめとこ山の熊」はとりわけ、何度読んでも感動が薄れない。もちろんそこにも、賢治の類い稀なる天賦の才能を見る。

第一章 「羅須地人協会時代」の検証
 ところで、今から約半世紀も前のこととなってしまったが、恩師の岩田純蔵教授が私達を前にして、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
という意味のことを嘆いたことがある。
 一方、その頃私が尊敬していた人物はまさに賢治であり、しかも岩田教授は実は賢治の甥(賢治の妹シゲの長男)だったから尚のこと、恩師の嘆きがその後ずっと気になっていた。とはいえ、仕事に従事している間はそのようなことを調べるための時間的余裕が私にはなかった。それが10年程前に定年となり、やっとそのための時間を持てるようになって賢治のことをそれなりに調べ続けることができた。
 すると、常識的に考えればこれはおかしいと思われるところが、特に「羅須地人協会時代」を中心としていくつか見つかる。そこでそれらの検証等をしてみたところ、やはりほぼ皆おかしかった。
  1.「賢治神話」検証六点
 それでは、常識的に考えればこれはおかしいと思われ、しかも検証してみたところやはりおかしかったものの中から、主だったもの六点をそれぞれ次に取り上げてみたい。

 ㈠「独居自炊」とは言い切れない
 私が最初におかしいと思ったのは「旧校本年譜」の「大正15年7月25日」の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
だった。この記述に従えば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れないので「通説」とは異なることになるからだ。
 そこで、千葉恭なる人物のこと知りたいと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関しては『校本宮澤賢治全集』に殆ど何も書かれていない。となれば自分で調べるしかない。幸いその結果、恭に関して出身地はもちろんのこと、穀物検査所を辞めた日及び復職した日、賢治から肥料設計をしてもらっていたこと、例の楽団ではマンドリン担当だったことなども明らかにできた。
 また、
〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
を立ててみたところその検証もできたのだった。そして実際、恭は「私が炊事を手傳ひました」とか「私は寢食を共にしながらこの開墾に從事しました」(『四次元7号』(宮澤賢治友の會)15p~)とはっきり証言もしていた。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないことになるし、恭のことが今まで意識的に無視されてきたのではないかと思わないでもない。
(詳細は拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』を参照されたい)

 ㈡「大正 年 月 日の上京」の牽強付会
 今度は『新校本年譜』の次の記載、
(大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい
についてだが、この註釈として
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
とあり、これもおかしい。その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」とか、まるで思考停止したかの如き註釈がされているからだ。
 次に、その「関『随聞』二一五頁」を実際に見てみると、
 昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。  
<『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)215p~>
という澤里武治の証言が載っているから更に愕然とする。
 それはまず、『新校本年譜』の引用文において「少なくとも三か月は滞在する」の部分がするりと抜け落ちているからである。さらには、この証言の最後の部分「先生は三か月間の……帰郷なさいました」の「三か月間」の滞京を同年譜の大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしても、下掲の《表1 「現 宮澤賢治年譜(抜粋)」》から明らかなようにそれができないことにも気付くからである。この「要約」には致命的な破綻がある。
 つまり、典拠としている「関『随聞』二一五頁」そのものがこの「要約」の反例となっているから、チェロを持ち、武治一人に見送られて一二月二日に上京したということは事実とは言えず、この記載は当然即刻棄却されるべきもの。ところが、実際にはそれが為されていないので、そこでは牽強付会なことが行われているということがはしなくも露呈している。
(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』を参照されたい)
 ㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 さて、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめたのは、今では殆ど忘れ去られてしまっている松田甚次郎だ。「賢治精神」を実践したと言われる彼は、その実践報告書を『𡈽に叫ぶ』と題して昭和13年に出版し、それが一躍大ベストセラーとなった。その巻頭「恩師宮澤賢治先生」を彼は次のように書き始めている。
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。    <『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p>
 そこで私は思った、その旱魃による被害は相当深刻なものであったであろうと。早速、大正15年の旱害に関する新聞報道を実際に調べてみたならば、『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていた。
 特に12月に入ると、赤石村を始めとする紫波郡の旱魃による惨状がますます明らかになっていったので、それに応じて、
◇大正15年12月7日付『岩手日報』
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
という見出しの、仙台市の女生徒からの援助の記事や、
◇同年12月15日付『岩手日報』
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる數日前東京浅草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の學校で今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった。
というような記事が連日のように載っていて、陸続と救援の手が地元からはもちろんのこと、遠く東京の小学生からのものを含めて、他県等からも「未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」等へ差し伸べられていたということが分かる。
 ちなみに、同年12月22日付『岩手日報』には、
 米の御飯をくはぬ赤石の小學生
 大根めしをとる哀れな人たち
という見出しの記事(次頁上段に掲げたような)が載っていたから、おそらく甚次郎はこの日の新聞報道を見たりして赤石村を慰問したに違いない。
 そして、この旱害の惨状等は年が明けて昭和2年になってからも連日のように報道されていて、例えば同年1月9日付

『岩手日報』には下掲のように、トップ一面をほぼ使っての大旱害報道があり、その惨状が如実に伝わるものであった。しかもそれは、紫波郡の赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村も同様であったことが分かるものだった。
 ではこの時、稗貫郡の場合はどうだったのだろうか。まず
菊池信一の追想「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」には、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終つた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つ
てゐた日が酬ひられた。
<『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)417p>
と述べられていることから、菊池の家がある稗貫郡好地村でも旱魃がかなり酷かったということが導かれるので、あの賢治のことだ、この年の旱魃は稗貫郡内でも早い時点から起こっていることを当然把握していたはずだ。
 その他にも、例えば大正15年10月27日付『岩手日報』は、
(花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模樣
とか、花巻の米商連の昨今の検査によれば、
 粒がそろはぬのに以て來て乾そうがあまりよくない、之は収穫期に雨が多かつたのと諸所に稻熱病が發生したためで二等米が大部分である
ということを報じていたから、賢治は稗貫郡下の旱害等による稲作農家の被害の深刻さもよく知っていたはずだ。
一方、9月末時点で既に、大正15年の県米の収穫高は「最凶年の大正十(ママ)二年に近い収穫らしい」と、そして11月上旬になると前年に比しそれは「二割二分二十五萬石の夥しい減少となり」そうだという予想がそれぞれ『岩手日報』で報じられていた。
 よって、巷間伝えられているような賢治であったならばこの時には上京などはせずに故郷に居て、地元稗貫のみならず、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の紫波郡内の農民救済のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたであろうことが充分に考えられる。
 しかしながら実際はそうではなくて、12月中はほぼまるまる賢治は滞京していたのだから、上京以前も賢治はあまり「ヒデリ」のことに関心は示していなかったようだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったと、残念ながら客観的には判断せねばならないようだ。
 では、大正15年の岩手県産米の実際の作柄はどうだったのだろうか。そこで、『岩手県災異年表』(昭和13年)から、不作と凶作年の場合の稗貫郡及びその周辺郡の、当該年の前後五ヶ年の米の反当収量に対する偏差量を拾って表にしてみると、左掲のような《表2 当時の米の反当収量》となった。よって同表より、赤石村の属する紫波郡の大正15年の旱害は相当深刻なものだったということが改めて分かるし、稗貫郡でも確かに米の出来が悪かったということもまた同様に分かる。
 そこで、「下根子桜」に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等を始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものを私は何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、伊藤克己の次のような証言だった。
  その頃の冬は樂しい集 りの日が多かつた。近村 の篤農家や農學校を卒 業して實際家で農業を やつてゐる眞面目な人々 などが、木炭を擔いでき たり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。…(筆者略)…
 そしてその前に私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集りも不定期になつた。それは或日の岩手日報の三面の中段に寫眞入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時は思想問題はやかましかつたのである。
  <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~>
 さて、伊藤が語るところの「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」とは何年の何時頃のことだろうか。まずは、「悲しい日がきてゐた」というその日とは昭和2年2月1日であることが知られているから、「樂しい集り」が行われたのは昭和2年の2月以降ではなかろう。しかもそれ以降の賢治は、農民に対しては肥料設計等の稲作指導しかほぼ行っていなかった言われているからでもある。
 となれば、「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」というところの「冬」とはまずは大正15年12月頃~昭和2年1月末の間となろう。ところが、大正15年の12月中の賢治はほぼ滞京していたわけだから、伊藤が「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」という期間は、昭和2年1月の約1か月間のこととなってしまう。
 したがって、トップ一面を使って隣の紫波郡一帯の大旱害の惨状が大々的に報道(5p)されていたような昭和2年1月頃に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集りの日」を持ってはいたが、彼等がこの大旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりしたとはどうも言い難い。少なくとも伊藤はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。
 また、賢治がそのために東奔西走していたとすれば、それは農聖とか老農とさえも云われている賢治にまさにふさわしい献身だから、当然そのような献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだがいくら調べてみても、残念ながらそのような証言等を誰一人として残していない。一方で、「下根子桜」に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない。せいぜい、昭和2年4月1日付〔一昨年四月来たときは〕の中に、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」が見つかるだけだし、しかもこの旱魃は「一昨年」とあり、この時のものとは言えそうにない。
 つまるところ、極めて残念なことになってしまったのだが、「羅須地人協会時代」の出来事であった大正15年のヒデリ、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村・不動村・志和村等の未曾有の大旱害罹災に対して、賢治が救援活動等をしたということを示す証言等は一切見つからないということであり、どうやら、「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治がそこに居たということになってしまった。
 すると、賢治はこの大旱害に対してほぼ無関心でいたということにもなってしまう。延いては、
 少なくともこの当時の賢治も羅須地人協会もそしてその活動も、地域社会とはあまりリンクしていなかった。
という、思いもよらぬ結論を導かざるを得なくなってしまいそうだ。だから当然、この無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていき、その慚愧が〔雨ニモマケズ〕に繋がっていったのではなかろうかということを、私は今考えている。
 なお、昭和3年の40日を超える夏のヒデリの時にも実は「涙ヲ流シ」たとまでは言えないということが、よくよく調べてみたならば分かったから、「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たということも言えそうにない。
  (詳細は拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を参照されたい)

 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 不思議なことに、昭和2年の賢治と稲作に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定的な表現を用いて述べている。
(1) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。   <『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、
翰林書房)152p>
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(筆者略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。                  <同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
 <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。     <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p>
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
    <『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収の年譜より>
(5) (昭和二年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
  <『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p>
(6) 昭和二年(1927 年)は未曽有((ママ))の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました…(筆者略)…」とある。
<帝京平成大学石井竹夫准教授の論文より>
(7) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。
      <『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p>
(8) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
 つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。
 しかし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候に基づけばこれらの断定はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それ故、私はその典拠を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年)317p>
と述べているから、これが、あるいは引例の「孫引き」がその典拠と言えそうだ(私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは見当たらないからだ)。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 ところが、先の『阿部晁の家政日誌』のみならず福井自身が発行した『岩手県気象年報』(〈註一〉)(岩手県盛岡・宮古測候所)や「稻作期間豊凶氣溫」(盛岡測候所、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)、そして、『岩手日報』の県米実収高の記事(〈註二〉)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを実証できる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
 だからおそらく、常識的に考えて、『新校本年譜』等はこの福井の証言の裏付けを取っていなかったということになろう。また、おのずから、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」訳でもなければ「昭和二年は未曾有の大凶作」だった訳でもなかったので、前掲の断定表現の引用文も同様に事実誤認だったということになり、これらの論考等においてこの誤認を含む個所は当然論理が破綻してしまい、修正が迫られることになるのではなかろうか。
(詳細は、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において実証的に考察し、それを詳述してあるので参照されたい)

 なお、賢治が盛岡中学を卒業してから「下根子桜」撤退までの間に、稗貫が冷害だった年は全くなかったことは農学博士ト蔵建治氏も次のように、
 この物語(筆者註:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(筆者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。  <『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~>
と指摘している通りである。また、昭和六年は確かに岩手県全体ではかなりの冷害だったが、稗貫はそれどころか平年作以上であったことは先に掲げた《表2 当時の米の反当収量》(6p)から明らかである。それ故、賢治は実質的には冷害を経験したことは結局ないとも言える。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれまた実はできなかったのだった。つまり、「羅須地人協会時代」の賢治は客観的には、
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
というようなことはしなかったし、
サムサノナツハオロオロアルキ
しようにもそのようなことはできなかったのだった。

<註一> 福井規矩三発行の『岩手県気象年報』に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温をグラフ化してみると下掲の《図1 花巻の稲作期間気温》となるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作」とは言えず、これは福井の誤認であったことが一
  《図1 花巻の稲作期間気温》
  《図2 岩手県米実収高》
目瞭然と言える。そもそも大正15年も昭和3年も共に旱魃傾向の年であり、しかもこの両年のデータと昭和2年のそれとを比べてみれば昭和2年の夏はその中では一番気温の高いことがわかるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候…ひどい凶作」ということはあり得ない。言い換えれば、福井自身発行の著書が福井のこの証言は彼の単なる記憶違いであったとするのが妥当だということを教えてくれている。
<註二> 上掲の《図2 岩手県米実収高》は、岩手県米の大正11年~昭和6年の実収高であり、昭和2年は反収1.93石だから、「昭和二年は…ひどい凶作であつた」などということも決してあり得ない。

 ㈤ 昭和二年の上京と三か月のチェロ猛勉強
 さて、本章の〝㈡「大正年月日の上京」の牽強付会〟において、「通説」となっているような賢治の上京の仕方は事実とは言えないということを明らかにできた(3p)。では、あの「関『随聞』二一五頁」における武治の証言は全く無意味なものかと言えばもちろんそうではない。
 ここは、武治の証言を恣意的な使い方などせずに、証言通りに「三か月間の滞京」の「三か月間」を『新校本年譜』の昭和2年11月~同3年2月の間に素直に当て嵌めようとすれば、次頁の《表4『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》にはそれだけの空白期間があるから、すんなりと当て嵌まることが判る。
 したがってこの〝関『随聞』二一五頁〟が、次のような
〈仮説〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたがそれがたたって病気となり、三か月後の昭和3年1月に帰花した。
が定立できるということを否応なく教えてくれている。
 そしてこの仮説に関しては、例えば次の二人がそれぞれ、
 (a) 伊藤清が「羅須地人協会時代」の賢治の上京について、
 そして冬に、帰って来られました。
〈『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)268p〉
 (b) 柳原昌悦が、菊池忠二氏に対して、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。
〈菊池忠二氏の柳原昌悦からの聞き取り〉
と証言しているからこの仮説の妥当性を裏付けてくれる。
 なんとなれば、前者(a)からは、伊藤が「そして冬に」と言っていることに注意すれば、賢治が花巻を出立した時期は当然「冬」ではなく、なおかつ、賢治が帰花したのは「冬」であるということが言えるからである。つまり、これは大正15年12月2日の上京のことを指してはいないし、逆に〈仮説〉のような上京であればピッタリと合う。しかもその他に「羅須地人協会時代」のこのような上京は知られてはいないからである。
 また後者(b)からは、ここで柳原が言っている「あのとき」とは、もちろん「澤里一人に見送られた」と巷間言われてる大正15年12月2日の上京の時のことを言っているはずであり、この時には澤里だけでなく実は自分も一緒に賢治を見送ったと、職場の同僚だった実証的賢治研究家菊池忠二氏に対して柳原が証言していたということになるからである。
 あるいはまた、かつての「賢治年譜」には、昭和14年発行の『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店)所収「宮澤賢治年譜」の、
  昭和三年 三十三歳
△一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。
を皮切りとし、昭和28年発行の『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店)所収の「年譜 小倉豊文編」の、
昭和三年(1928) 三十三歳
一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
の間までの「賢治年譜」は皆おしなべて、
  昭和3年1月 漸次身體衰弱
と記載されている。よって、この年の1月頃賢治は体調が優れなかったということになるから、この仮説の妥当性が裏付けられる。
 そして一方で、現時点ではこの仮説に対する明らかな反例は一つも見つからないから晴れて検証できたことになる。当然これに伴って、これまでの「賢治年譜」は、
・大正15年12月2日:柳原、澤里に見送られて上京。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治はひとり見送る澤里に言い残して、チェロを持って上京。
・昭和3年1月:滞京しながらチェロを猛勉強していたがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身体衰弱。
というような修訂が必要となる。こうすれば、「三か月間の滞京」期間もすんなりと当て嵌まって、先の致命的な破綻も解消される。
(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』
を参照されたい)

 なお、この「賢治昭和二年の上京説」は以前拙ブログ『みちのくの山野草』おいて投稿した「賢治の10回目の上京の可能性」に当たる。その投稿の最終回において入沢康夫氏から、
祝 完結 (入沢康夫)2012-02-07 09:08:09「賢治の十回目の上京(=昭和二年の上京:筆者註)の可能性」に関するシリーズの完結をお慶び申します。「賢治と一緒に暮らした男」同様に、冊子として、ご事情もありましょうがなるべく早く上梓なさることを期待致します。
というコメントを頂いた。しかもご自身のツイッター上で、
入沢康夫 2012年2月6日
「みちのくの山野草」http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku というブログで「賢治の10回目の上京の可能性」という、40回余にわたって展開された論考が完結しました。価値ある新説だと思いますので、諸賢のご検討を期待しております。
とツイートしていることも偶々私は知った。そこで私は、先の〈仮説〉及び「新説」(チェロ猛勉強のための「賢治昭和二年の上京説」)に強力な支持を同氏から得たものと理解している。

 ㈥ 「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
 最後に、賢治が昭和3年8月に実家へ戻った件については、
心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説だと私は認識していたが、先の『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気や気温を、更には賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この通説を否定するものが多かったので、これもおかしいということに気付いた。
 一方、賢治が教え子澤里武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)には、
……やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡』(筑摩書房)〉
と書かれている。しかし「すっかりすがすがしくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと云われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ「下根子桜」に戻って以前のような営為を再開したい」と伝えたはずだ。
 ところが実はそうではなくて、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと澤里に伝えていたことになるから、常識的に考えてこれもまたおかしいことだということに私は気付いた。同時に、賢治が実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気ではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも考えられる。
 ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~>
という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの昭和3年10月に岩手で行われた「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
 また、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言しているということだし、上田仲雄や名須川溢男等によれば、この時の「アカ狩り」によってその労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われたともいう。
 しかも高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、何とその将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない『アナーキスト?』と目していた」と言える(前掲書49p)くらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治は警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも窺える。
 そこへもってきてあの人間機関車浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していた(『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)30p )ことを偶然知った私は、次のような仮説、
 賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習が終るころ」までは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」とは時期的にピッタリと重なっていることだ。その上この反例は一つも見つからなかったから、この仮説の検証がなされたことになる。
 よって今後この反例が見つからない限りは、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったと、そして、賢治は重病だということにして実家にて「おとなしくしていた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとしてよいことになった。
(詳細は拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の中の章「「羅須地人協会時代」終焉の真相」を参照されたい)
 さて、こうして約10年をかけて主に「羅須地人協会時代」の賢治のことを私は調べてきた訳だが、その結果いくつかの「真実」を明らかにできたり、おかしかったことはやはりおかしかったということなどを実証できたりした。それ故結果的には、いわば「賢治神話」のいくつかを検証したとも言える。そして、これらの一つ一つが恩師岩田教授が嘆いたあの「いろいろなこと」に当たっているのかと私は得心し、幾ばくかは恩師に恩返しができたものと思って今はひとまず安堵している。

  2. 「賢治研究」の更なる発展のために
 ただし正直言えば、私のこれらの検証結果の方が実は「真実」ではなかろうか、ということをもっと広く世に訴えることのできる機会と場があればなと思わないでもない。とはいえ、これらの検証結果は「通説」とは異なるものが多いし、たとい「仮説検証型研究」という研究手法で検証できたからといってそれが100%正しいと言えるのかと訝る人も多かろうから、今直ぐにはそれは無理だろうということは承知している。
 そしてそんなことよりもなによりも、私自身がまずは真実を識りたいという一念だったから、自然科学者の端くれとして、「仮説検証型研究」等によっていくつかの「真実」を明らかにできたことだけで自己満足できたし、それで十分な約10年間だった。しかも結果的にではあるが、「羅須地人協会時代」の賢治は「己に対してはストイックで、貧しい農民のために献身した」と以前の私は思い込んでいたのだが、一連の実証的な考察結果から導かれる賢治はそれとは違っていて、それこそ「不羈奔放」だったとした方が遥かにふさわしい面もあるのだということも識ることができ、《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》より近づいたということで私自身はとても嬉しかった。

 ところが2年程前に、ある式辞を知ってからはこのままではいけないと私は考えを改めることにした。その式辞とは、平成27年3月の東京大学教養学部学位記伝達式における学部長石井洋二郎氏の式辞のことであり、その中で同氏は、あの有名な「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」というエピソードを検証してみたところ、
 早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。
という思いもよらぬ結果となったことを紹介していた。私は愕然とした。それこそ「この幻」を信じてきたからだ。
 そして石井氏は続けて、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年度教養学部学位記伝達式式辞(東大教養学部長石井洋二郎)〉
と戒め、警鐘を鳴らしていた。
 私はこの式辞を知って、賢治に関する「通説」や「年譜」のいくつかにおいてまさに石井氏の指摘通りのことが起こっていると首肯し、共鳴した。確かにこれらの中にはあやふやな情報を裏付けも取らず、あるいは検証もせぬままに、それが真実であるかの如くに断定調で活字にして世に送り出されたものなどが少なからずあることを、ここ約10年間の検証作業等を通じて私は痛感してきたからだ。
 例えば、先の〝㈣〟の場合、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」はあやふやな情報なのだが、当時の盛岡測候所長の証言であるという「真実の衣を着せられて」その証言が「賢治年譜」に載せられてしまうとたちまち「世間に流布して」しまい、「もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります」ということがまさに起こっているように、だ。
 更に石井氏は続けて、
 本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。
と懸念している。そして確かにその通りで、
・昭和二年は…(筆者略)…未曾有の大凶作となった。
・一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
というような、先の測候所長の事実誤認の証言を露ほども疑わずに、鵜呑みしたかの如き記述が今でも横溢している。
 さりながら、この実態を今更嘆いてばかりいてもしようがない、そのような批判精神を今後作動させればよいだけの話だ、ということもまた私は石井氏から気付かされた。そこでこれからは、自己満足という殻に閉じこもってばかりいないで、間違っていることは間違っていると世にもっと訴えるべきだと私は考えを改めたのだ。
 そしてこのことは、実はこの式辞を知って、今までの私のアプローチの仕方は間違っていないから自信を持っていいのだと確信できたことにもよる。それは、石井氏は同式辞を、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
と締めくくっているのだが、次のようなことから、この「本質」と私のアプローチの仕方は通底していると認識できたからだ。
 以前から私は、「学問は疑うことから始まる」と認識していたので、一般に「賢治に関する論考」等においては、裏付けも取らず、検証もせず、その上典拠を明示せずにいともたやすく断定表現をしている個所が多過ぎるのではなかろうかということを懸念していた。そこで私は、自分で直接原典に当たり、実際自分の足で現地に出かけて行って自分の目で見、そこで直接関係者から取材等をしたりした上で、自分の手と頭で考えるというアプローチを心掛けてきた。そしてその結果、前掲の〝㈠~㈥〟などのような、特に「羅須地人協会時代」の賢治に関してのあやかしや、知られざる「真実」のいくつかを明らかにできたものと思っている。

 とはいえ、私の主張が全て正しいと言い張るつもりはない。それは、私が定立した仮説が検証できたといっても所詮仮説に過ぎないからだ。しかし、私の場合の検証は定性的な段階に留まらずにできるだけ定量的な検証もしたものだ。だから当然、反例が提示されれば私は即その仮説を棄却するが、されなければしない。ましてや、『新校本年譜』には前掲の「三か月間の滞京」を始めとしていくつかの反例が現にあり、一方で、それに対応する私の立てた仮説には反例が存在しないから、同年譜は修訂が不可避だと言わざるを得ない。
 そこで私は今までの考え方を改め、何よりも「賢治研究」の更なる発展のために、おかしいところはやはりおかしいと、粘り強く主張し続けることにした。それはもちろん、私達がそのことを怠れば「賢治研究」のさらなる発展が望めないということは歴史が教えてくれているところだからでもあり、もしかすると、「創られた偽りの宮澤賢治像」が未来永劫「宮澤賢治」になってしまう虞もあるからだ。
 譬えてみれば、「賢治年譜」は賢治像の基底、いわば地盤だから、そこに「液状化現象」が起こっているとすればそれは真っ直ぐに建たないのではなかろうか。しかも実際に、『新校本年譜』にはその現象があることを否定できないということをここまでの検証によってお解りいただけたと思う。
 ついては手始めに、
『新校本年譜』の、少なくとも「羅須地人協会時代」については早急に再検証せねばならない実態にある。
と声を大にして言い、まずは問題提起をしておきたい。

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【旧刊案内】『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)

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