みちのくの山野草

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下根子桜からの撤退にも

2016-02-24 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
「演習」とはどんな演習か
 さて賢治が昭和3年8月実家に戻った理由についてだが、
心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
が通説だという。ところが、『阿部晁の家政日誌』によって天気や気温を、当時の新聞報道等によって稲作事情を、さらには賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この通説を否定するものが多かったので、これは下根子桜からの撤退の主たる理由にはなり得ず、どうやらこの通説はおかしいということに気付いた。
 一方、賢治が教え子の高橋(澤里)武治に宛てた同年9月23日付書簡

              〈『羅須地人協会の終焉―その真実』の表紙写真(同書簡び写真は遠野市立博物館所蔵)より〉
中に、
やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
と書かれている。しかし、「すっかりすがすがしくなりました」というのであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと云われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ下根子桜に戻ってそれまでのような営為を行いたい」と伝えたであろうと思いきや、「演習が終るころ」まではそこに戻らないと教え子に伝えていたことになるから変だし、実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって、病気ではなかったということをこの書簡は示唆しているともとれる。

当時岩手では凄まじい「アカ狩り」
 それにしても、そのような「演習」とは一体何のことなのだろうかと長らく気になっていた。それが、たまたま、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。
              〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)〉
という記述に出くわして、「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べ直してみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
              <『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)3p~より>
と述べていた。どうやら、先の直感は正しかったようだ。
 その他にも次のようなことがわかった。この時の「アカ狩り」によって労農党の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三賢治と親交のあった青年八重樫賢師共に検束処分を受けたという。あげくその八重樫は北海道は函館へ、賢治のことをよく知っている小館長右衛門は小樽へと同年8月にそれぞれ追われた<*1>という。また、賢治の母校盛中の英語教師平井直衛が同じく「アカ狩り」でその地位を追われたのもその年の8月だった<*2>。

ソ連でも知られていた賢治なれば
 一方で、賢治は当時労農党のシンパであったということが知られているし、高杉一郎著『極光のかげに』(岩波文庫)

には、著者高杉本人が俘虜収容所である将校から受けた尋問の際の次のようなやりとりが綴られていて、
 尋問がはじまって、姓名、生年、生地、学歴、職歴、軍歴、父の職業などを質ねられる。…(筆者略)…
 「なぜ?」
 「軍人が好きでなかったからです」
 ふん、というような不信の表情を彼は肩で示した。
 「ミヤザーワ・キンジを君は知っているか?」
 宮沢金次、宮沢欣二……私は頭の中であれこれと友人を捜し廻ったが、宮沢なる者は私の友人のなかにはいなかった。
 「知りません」
 「嘘つけ! 君のためによくないことになるぞ。イシカーワ・タクボークは?」
 石川啄木――あることを想い出して、私は咄嗟にはっとした。金次ではない。宮沢賢治だ。私は忽ちにしてこの質問の意味を悟った。…(筆者略)…
 さっきの質問に答えて、私は言った。
 「石川啄木は日本の詩人です。宮沢賢治――キンジではありません――は詩人で児童文学の作家です」
 「彼らはアナーキストだろう?」
 「アナーキスト? 広い意味でのアナーキストと呼ぶことはできるかの知れません。が、彼らは政治的な意味でのアナーキストではありません。文学上のウトピストです。石川啄木は民衆の詩人です。日本のニェクラーソフです」
              <『極光のかげに シベリア俘虜記』(高杉一郎著、岩波文庫)45p~>
という。ソ連の将校が啄木の名よりも先に賢治の名を出すくらいだから、この将校は「賢治は啄木に勝るとも劣らない「アナーキスト?」と認識していた」と言える。
 さすれば、終戦直後のソ連でさえもこのような認識を賢治はされていたくらいだから、昭和3年の岩手に吹き荒れた凄まじい「アカ狩り」の際に、賢治も警察からの強い圧力が避けられなかったであろうことは容易に推測されるところだ。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも窺える。

「下根子桜撤退」の真相
 そこへもってきてあの人間機関車浅沼稲次郎でさえも、当時早稲田警察の特高から
    田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する

            <『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎、日本図書センター)30p >
と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、『浅沼稲次郎』所収の「私の履歴書」に綴っていたことをたまたま知った私は、次のような
〈仮説〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻って謹慎をしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に下根子桜から撤退し、実家で自宅謹慎していた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明が付くことに気付いた。そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡だ。「演習が終るころ」までは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」とはタイミング的にピッタリと重なっているからである。
 その上、この仮説の反例となるものは現時点では一つも見つかっていないので、この仮説の検証がなされたことになる。よって今後その反例が見つからない限りはという限定付きながら、
 昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからというよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等による「アカ狩り」に対処するためだったし、賢治は重病だということにして実家にて「自宅謹慎」をしていた。
というのが、その後賢治は下根子桜にはもう戻らなかったということが知られているわけでもあるから、「下根子桜撤退」の真相だったとしてもよいだろう。

貫く棒の如き太い「不羈奔放」
 したがって今までのことを振り返って見れば、賢治自身は余程のことがあって下根子桜に移り住んだと言えるのかもしれないが、客観的には、「羅須地人協会時代」に貧しい農民たちのために如何ほどのことを為し、如何様に献身したかというとそれらはかつての私が抱いていた賢治像からは程遠いものであった。なぜならば、そのよう賢治の具体的な実践が殆ど見出せなかったからである。それよりはそこに見たものは、この2年4ヶ月ほどの賢治の「羅須地人協会時代」、何ものにも束縛されずに、己の欲するところを遮二無二思うが儘に突き進むというを太い棒の如きものだった。もちろんもともと高邁な精神が宿っているのが「不羈奔放」だとは思うが、やはりこの棒が私には「不羈奔放」に見えたし、これが賢治の実生活の面ではマイナスに作用していることが多いと思うのだが、そんなことは賢治にとっては本質的なことではない(凡人の私の規範で賢治をあれこれ測ってもしようがない)し、少なくとも賢治作品が生まれるための必要条件だったのではなかろうか、というのが私の辿り着いた現時点での結論である。もちろん必要条件だから、これがなかったならば賢治の素晴らしい作品は生まれることはなかったという意味の、である。

<*1:注> 上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」の中で、
 労農協議会に属していて最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~より>
と述べている。
<*2:注> 金田一京助、平井直衛、金田一他人、荒木田家寿は皆兄弟であるが、その荒木田家寿が、
『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった。
              <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37p >
と兄の直衛が盛岡中学の英語教師をクビになった事情を説明しているし、『白堊同窓会名簿』を見てみれば、「平井直衛 T12.3~S3.8 英語」となっていることから、盛岡中学を辞めさせられた時期が昭和3年の8月であることが確認できる。

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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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