みちのくの山野草

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「三か月間」の滞京にも(前編)

2016-02-21 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
あり得ない牽強付会 
 なんと、『新校本年譜』の大正15年において、 
 一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
となっていて、
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
という注釈がある。その変更の根拠も明示せず、その上、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」という思考停止をしたような表現が、『校本』と銘打った全集の中に登場しているというまことに奇妙な現象が起こっている。
 次に、その「関『随聞』二一五頁」を実際に見てみると、
 昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
              <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書、昭和45年)215p~より>
という澤里の証言が載っているから、愕然とする。それは、この証言の最後「先生は三か月間の…帰郷なさいました」の部分を『新・旧校本年譜』共に無視していることに気付くからだ。換言すれば、いくら四苦八苦してこの「三か月間」を大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしてもそれができないことにすぐ気付くからだ<*1>。同年譜では、牽強付会なことがしれっとして行われている<*2>。もちろん、証言を恣意的につまみ食いするなどということは許されるべきことではなく、ここは素直に解釈して賢治は昭和2年11月頃の霙の降る寒い夜に、賢治は澤里に一人に見送られながらチェロを持って上京したとするのがまずは妥当だろう。

澤里武治氏聞書の初出
 ところで、そもそもこの「関『随聞』二一五頁」の澤里武治の証言の初出はどうなっているのかというと、その生原稿は北上の現代詩歌文学館に所蔵されていて、次のような推敲を経て『續 宮澤賢治素描』に所収されたのが初出で、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、(→)根子村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月の(ビショ→)びしよびしよみぞれの降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺はやる、貴方もヴァイオリンを勉強してゐてくれ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛迄セロをもつて御見送りしたのは、私一人でた。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしても(偲び→)しのびなかつた、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは、殆ど弓を弾ひくこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかかからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふことにだけ、日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふ(火の炎えるやうな→)はげしい、はげしい勉強に遂に御病気になられ、(帰国→)歸郷なさいました。
 (セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なもにの対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした。→)セロに就いての思ひ出のうち特に思ひ出されることは、先生は絶對私以外の何人にもセロには手をつけさせなかったことです<*3>。何か貴重なものに對する如く、セロにだけは手を觸れさすことはありませんでした。
              <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~より>
というように変化している。
 つまり、
 ① 「赤い文字」部分は削除されていた部分
 ② 「茶色文字」部分は付け加えられた部分
 ③ 「→)」の先の茶色文字部分は変更された部分
である。
 すると、まず不思議に思うのが
    (→)根子
の訂正部分である。なぜなら、この生原稿は表紙に「昭和19年」と書かれたノートの一番最初に、タイトル「三月八日」として書かれているので、この生原稿は「昭和19年3月8日」に書かれたはず故、もしこの生原稿を関登久也自身が書いていたとすれば、「根子」と書くべきところを「」と書くことはほぼ起こり得ないからである。
 もう少し説明を付け加えれば、
(1) 関は明治32年3月28日、花巻川口町生まれだから、この原稿が書かれたであろう昭和19年3月8日であれば45歳である。つまり永らく関登久也は地元に住んでいた。
(2) 『續 宮澤賢治素描』の前に出版された『宮澤賢治素描』(共榮出版、昭和18年)の口絵の「羅須地人協會のあつた森」の説明文の中には、
 曾て賢治氏の居住された下根子、櫻と呼ばれてゐるところです。
とか、その6pには、
 四月にはこの櫻に家に地人協會を開設しました。櫻といふのは、花巻町の東南の、下根子桜にある地名で…
とあるから、本来は「根子村」と書くべきところを、花巻の川口町に生まれた当時45歳の関がそれを「村」と書くことは流石になかろう。
 したがって、この生原稿に関登久也の虚構や創作などはなく、澤里武治の生の声が反映されていると判断できる(つまり、このノートに「村」と書いたのは関登久也以外の人物と考えられる<*4>から、そこに虚構などは入り込みにくい)から、この証言中の
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。

 そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうな、はげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
も、共に信憑性は高いと判断できる。

現「宮澤賢治年譜」の修訂
 では現「賢治年譜」のこの欠陥あるいは矛盾はどうすれ解消できるかだが、それはこの生原稿等における澤里武治の証言と次の二人の証言、
 (1) 伊藤清の証言
 (「羅須地人協会時代」に)上京されたことがあります。そして冬に、帰って来られました。〈『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)〉
 (2) 柳原昌悦の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。〈菊池忠二氏の柳原昌悦からの聞き取り〉
を組み合わせればおのずから導かれる。
 具体的には、三人の証言を補完し合いながら組み合わせれば次の、
〈仮説〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
が定立できるし、それを検証してみたところいろいろと裏付けることはあっても、この仮説に対する明らかな反例は一つもなかったから検証できた(詳しくは拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』を参照されたい)。よって、そのような反例が見つかっていない現状では、「賢治年譜」は次のような修訂が必要であろう。
大正15年12月2日:柳原、澤里に見送られて上京。
昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は澤里に言い残して、チェロを持って上京。
昭和3年1月:3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり帰花。漸次身體衰弱。
 しかも、この修訂が妥当なことは、かつての賢治年譜には必ず言っていいほど記載されていた
 昭和三年 三十三歳(一九二八)
  一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過労と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す
の昭和3年1月賢治は「漸次身体衰弱す」であったことも裏付けてくれる。

 いずれ、現「賢治年譜」は大正15年12月2日の上京の典拠にしている証言を恣意的に使っているので、そこにはいわば「三か月間問題」という地雷が埋まっていると言える。
  **********************************************************************************************
<*1:注> どうあがいても、現「賢治年譜」にこの「三か月間」を大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしてもそれはできない。 


 一方で、昭和2年の11月以降であればいともたやすく当て嵌めることができる。こちらの場合は現「賢治年譜」はその当該期間、全くの空白だからである。


<*2:注> 「関『随聞』二一五頁」とあるが、この『賢治随聞』は著者は関登久也となっているものの、この本が出版された昭和45年にはもう鬼籍に入っていて編集は森荘已池が行っている。しかも、この澤里武治の証言はそれ以前に既に『宮沢賢治物語』(昭和32年)に載っているし、関登久也は昭和31年になくなり、その少し前まで関登久也は『岩手日報』に「宮澤賢治物語」と題した連載で同じ内容のものを公にしている(なお、この連載が単行本化されたのが『宮沢賢治物語』(昭和32年)なのだが、関登久也以外の何ものかによってこの澤里武治の証言の重要な一部が改竄されている)。そして、そもそもこの澤里武治の証言の初出は『續 宮澤賢治素描』(昭和23年)である。これだけの著作にこの澤里武治の証言が載っているのにもかかわらず、『新校本年譜』は「関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる」としているのである。まさか、同年譜はその初出、あるいは新聞連載のことを、あるいは『宮沢賢治物語』に所収されていることを知らないわけはなかろうかから、何か隠しているのだろうかとあらぬ疑いを逆に持たれるのではなかろうかということを私は他人事ながら危惧している。
<*3:注> 通説はこのように、
    絶對私以外の何人にもセロには手をつけさせなかったことです
となっているから
    澤里にだけには賢治はチェロに触らせた
となるわけだが、少なくとも生原稿によれば、
    澤里といえども賢治はチェロに触らせなかった
となる。したがって、通説と生原稿は全く逆の意味となっている。
<*4:注> ちなみにこの「村」の筆跡は明らかに関登久也の筆跡ではないことは直ぐわかったし、また澤里裕氏(武治の息子)は、父の筆跡でもないと教えて下さった。
 
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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