みちのくの山野草

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白鳥省吾訪問ドタキャンにも?

2016-02-18 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 筑摩書房のいわゆる「旧校本年譜」でも『新校本年譜』でもその「大正15年7月25日」の中に、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
という記述がある。では、この出典は何か。それは千葉恭の次の追想「宮澤先生を追つて㈢」という追想だという。
 ある年の夏のことでありましたが朝起きると直ぐ
「盛岡に行つて呉れませんか」
私は突然かう言はれて何が何だか判らずにをりますと、先生は靜かに
「實は明日詩人の白鳥省吾と犬田卯の二人が訪ねて來ると云ふ手紙を貰つているのだが、私は一應承諾したのだが― 今日急に會ふのをやめることにしたから盛岡まで行つて斷はつて來て貰ひたいのです」
そこで私は午後四時の列車に乗つて盛岡に出かけることにしました。車中で出る前に聞いた先生の言葉が、何んだかはつきり分からずに考へ直してみたのでした。
「私を岩手にかくれた詩人で宮澤と云ふ者がいるさうだが、是非會つて見たいという話だが彼等は都會の詩人で職業詩人だから、我々が考へているやうな詩の詩人ではない――何かうつぼな外美のもので、それを藝術と云ふなら藝術といふものは價値がないと思ふ――私はベートーベンのあの藝術の強みを考へているのです。その場合に彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから――」と云はれたのでした。
 盛岡に着いた時は午後六時でした。あまり出かけたことのない私には盛岡は物珍しく思はれました。邊りを眺めながら講演會の會場である佛教會館に行きました。聽衆は若い女性や若い男性で一杯でしたが、控室に案内されて詩人達に會はして貰ひました。そして「私は宮澤賢治にたのまれて來た者ですが、實は先日手紙でお會ひすることにしていたのださうですが、今朝になつて會ひたくない―斷つて來て下さいと云はれて來ました。」田舎ものゝ私は率直にかう申し上げましたところ白鳥さんはちよつと驚いたやうな顔をしましたが、しばらくして、
「さうですか、それは本當におしいことですが、仕方ありません―」
私が直ぐ立ち去ろうとしましたら白鳥さんは
「ちよつと待つて下さい―ゆつくりしていたらどうですか」
「實は早く歸りたいのですから」
「それでは宮澤さんの事を少し聞かして下さいませんか」
私はしかたなく待つことにしたのでした。
「濟みませんが先生が私達に會はないわけを聞かして下さい」
私はちよつと當惑しましたが、私の知つていることだけもと思ひまして
「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから先生の今の態度は農民のために非常に苦勞しておられますから――」
私はあまり話せる方でもないのでさう云ふ質問は殊に苦手でしたし、また宿錢も持つてゐないので、歸りを忙ぐことにしたのでした。盛岡を終列車に乗つて歸り、先生にそのことを報告しました。
              <『四次元7号』(昭和25年5月、宮沢賢治友の会)16pより>
 もしここで千葉恭が語っていることが本当のことであったならば、賢治は約束していた訪問を直前に急遽拒絶したことになる。しかもこの断りの理由はあくまでも賢治自身の都合であり、その妥当性はほぼないことは自明。だから、断りの使者とさせられた千葉の胸中は如何ばかりだったであろうか。一度は白鳥達の花巻訪問を賢治は応諾しておきながら、その明日の花巻訪問を前にしてその前日に、『今日急に會ふのをやめることにしたから』と賢治からにべもなく言われ、その旨を断りに行くのが千葉であれば気が進まなかったのは当然であったであろう。その心理が「弟子ともつかず、小使ともつかず先生に接して來ました」という表現を千葉恭になさしめている大きな理由に違いない。
 凡人の私人から見れば、このドタキャンはあまりにも身勝手なものだから極めて理解に苦しむところなのだが、『彼等に會ふのは私は心をにごすことになるし、また會ふたところでどうにもならないから彼等のためにも私のためにも會はぬ方が良いようだから』という断りの論理と理由付けはもしかすると賢治の天才の天才たる所以かもしれない。賢治はこのようなドタキャンなど何とも思っていなかったのだろう。これもまた、「不羈奔放」な賢治の性向に近いものを垣間見せていると感ずる。先に触れたように、関登久也が
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすつかり忘れてしまつたやうに、また別の新しい計画を立てたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあつた。
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)の「前がき」より>
と賢治のことを述懐しているが、これもその一つだろうか。
 ただし、この場合にはそのようなことを「二、三日するとすつかり忘れてしまつた」わけではなかろう。というのは、この時のドタキャンは「白鳥省吾の訪問」のそれに対してと云われているようだが、私はどちらかというとその時に一緒に来県した犬田卯に対する謝絶ではなかっただろうかという私見<*1>を持っているからである。
 いずれにせよ、私がかつて抱いていた誠実な賢治というイメージとは真逆の、応諾していた訪問をドタキャンするという行為を知ってしまうとそれはあまりにも「不羈奔放」だなと、この場合の譬え方は違っているのだろうがつい口を衝いて出る。やはり、天才の倫理観というものは凡人の私のそれとは同じ土俵で論じられないのだろう。

<*1:注>
 板垣邦子氏によれば、当時(大正14年~昭和3年頃)の総合雑誌『家の光』は、
 農村の経済的不振、青年男女の都会集中、小作争議の頻発にみられる農村良風俗の荒廃を憂うという立場から、『家の光』は農村文化の建設を提唱する。その趣旨は、農村が独自の立場を堅持し、なおかつ現代文明を摂取して農村にふさわしい文化を建設し、生活の豊かさをとりもどさねばならないというものである。退廃に堕した都会文化への憧憬を捨て、健全な農村文化を築くべきであるという。
ことで、当時すこぶる疲弊していた農村を憂い、農村文化の建設を提唱していたという。そいえばこれと似た「趣旨」はどこかで見たことがある。そうそうあの大正15年4月1日付の『岩手日報』の
    新しい農村の建設に努力する/花巻農學校を辞した宮澤先生
という見出しの記事だ。
 そして、『家の光』は具体的にはその農民芸術運動を盛り上げようという意図で農民劇等に関する記事を載せたりしているのだが、その中で最も活躍振りが目立つ一人が犬田卯である。その頃犬田卯は「農民文芸研究会」や「農民文芸会」を組織しながら活発に活動し、
 その後この農民文学研究会は、佐伯郁郎・中山議秀(のちの中山義秀)、和田傳・足帆図南次など早大出身の気鋭のメンバーを加え活発な活動を展開、大正(ママ、15の脱字あり)年一〇月に「農民文芸会」と名を改め、それまでの研究成果を『農民文芸十六講』として集成し、上梓する。
              <『現代文学の底流』(南雲道雄著、オリジン)348pより>
ということである。
 ちなみにこの来県の際に帯同した佐伯の名も上掲メンバーの中に見えるが、佐伯はこの来県の際に暫く岩手に残って農民文芸十六講』の原稿を外山で書いている。しかも、人首出身のこの佐伯は宮澤安太郎(賢治の従弟)と友達であり(賢治、安太郎、佐伯はともに「東京啄木会」の会員)、佐伯は「御親類の安太郎さんを通じて「修羅と春(ママ)」をいたゞいてゐます」と昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』朝刊で、安太郎を介して『春と修羅』をもらっていることを紹介している。
 一方、例えば『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)の「受信人索引」によれば、
<阿部芳太郎(あべ よしたろう)>
 明25・12・5~昭和21・2・5
 画家を志して出京し、小川芋銭に師事したが、これは生計の資とはならないためい帰郷し…動植物を愛し、賢治との交際を持った。
という人物がいて、芳太郎とは賢治が花巻農学校在職していた当時の演劇に関して、中村末治が次のように証言する人物である。
 やがて上演する日が迫り、わしら生徒は汗みずくになって教室から教壇を運び込み、それを並べて舞台を作ったりした。背景なんかは画家の阿部芳太郎さんがやってきて、せっせと描いていた。
                     <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞盛岡支局)153pより>
 したがって、これらからは
     賢治―阿部芳太郎―小川芋銭―犬田卯
という人間の繋がりを知ることができる。なぜならば、犬田は小川芋銭に頗る世話になっているからだ。
 そしてこれだけでなく、先に述べたことから
     賢治―宮澤安太郎―佐伯郁郎―犬田卯
という繋がりを知ることができる。よって、これらの二つのルートから、賢治は犬田卯の情報はそれなりに得ていたであろう。
 またもちろん、岩手県農会は農業関係の蔵書が相当数あつたものだ。この蔵書を賢治は読んでゐた。
            <『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)280pより>
ということだから、賢治は『家の光』もまず間違いなくを読んでいたであろうし、その中で犬田卯が『農民劇』を中心として活発に活動実践をしていたことも知っていたであろう。
 そこで何を私が言いたいのかというと、『犬田卯の思想と文学』によれば、実は犬田は
    〝土の芸術〟というのは農民文芸の上に存在する最高の文学形態あると考えていた。
    〝土の芸術〟というのは、農民が自らの手で創作した芸術・文学であらねばならないのである。

              <『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)26p~より>   
という強い信念があったということなので、賢治は犬田の、特に「農民が自らの手で創作した芸術・文学であらねばならない」という基本理念を賢治は直前に知って反撥し、訪問をドタキャンしたのではなかろうか、という私見を私は持っている、ということをである。
 言い換えれば、この時の犬田や佐伯の来県の際に、彼らの『農民文芸十六講』の基本理念を知って、『農民藝術概論』とは相容れないものであると覚り、急遽訪問を謝絶したという可能性もあるのではなかろうか。賢治は近々出版されるという『農民文芸十六講』の影響などを受けることなく、『農民芸術概論』を完成させたかったという考えがあったのではなかろうか、などと穿鑿してみたりしている。
 
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《鈴木 守著作案内》

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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3 コメント

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 されば、ジコチュー身勝手なるべし ( 辛 文則)
2016-02-18 19:13:58
  鈴木 守 様

  「曖昧模糊として何を言いたいのかワカラン」ような長過ぎるコメントをツ図家手続けて申し訳もございません。
  で、はっきり簡明に書いてしまいますが、この論文のコンテクストで用いられている〈不羈奔放〉という語用は、「多義性という意味でのアムギュアス(え両義的)」ではありませんよね。小生の短慮かもしれませんが、「一義的な意味での〈ジコチュウな身勝手〉」としかうけとめられませんでした。
  慥かに、守先生の「ドタキャン因縁解釈」が妥当だと受け止めれば、小生の狭視眼ではそういう受け止めかたに。
   で、吾が敬愛する〈吾輩猫にして赤シャツなる送籍者漱石師〉がその『私の個人主義』で用いている「人真似としての他人本位ではない自己本位」について、『漱石を読みなおす』(1995)に於いて、「漱石が言う自己本意はエゴイズム(利己主義)でもエゴティズム(自己中心主義)でのエゴセントリズム(幼児的自己中心性)でもないのです。」、と書いて、東大教授や東北大教授をその親分にしていた自由史観論者達の猛烈な「批判(クリティーク)ではなく非難(ブレイム)」を浴びていました。批判と非難の根柢的な別異性は哲学的思索動機が内蔵されているか否か、たとえば、佐野茂樹先生が取り組んだE・カントの『純粋理性批判』とか『実践理性批判』での〈批判〉で、今村仁司氏の『批判する意志』というコンテクストでのそれですね。〈非難〉派と云えば、〈誹謗中傷罵詈雑言〉の類と云えばワカリヤスイと思います。その中でも下劣なのが〈売国奴〉〈国賊〉〈非国民〉という非難語三セットですね。少なくとも、リベラルデモクラシーを好しとする社会では〈知性(インテレクチュアリティ)〉や〈知性的認識(インテリジェンス)〉が用いるべきではない差別語に違いりません。すぉの差別排除三語が、〈九条の会〉やその支援者に対けて吐き出されがちな時代がやって来ている心象を懐かざるをえないというのは、……。
  ところで、漱石は『私の個人主義』を問いた大正三年という晩年期、丁度、吉野作造らの大正デモクラシーが社会性を帯び始めていたころの晩年、〈則天去私〉という、通俗的な意味での〈自己本位〉とは真逆の四文字を揮毫して床の間に飾っていたといいます。
  『漱石とその時代』五部作をそのライフワークとした保守派の著名評論家江藤淳は、その第五部に、    〝 ……伝記作者の眼から見れば、むしろこの時期になって漸く胃潰瘍と神経症とが完全に合併したと見る方が事実に即している。つまり、神経の変調が直接肉体を蝕むという状況が、はじめて漱石に発生したのである。したがって、『私の個人主義』で漱石が語っている言葉は、一語たりともこの状況を無視して解釈されるべきではない。つまり、それは「思想」というよりはむしろ病者の叫びである。そして「思想」ではなく病者の叫びだからこそ真実味を帯びて、聴ものの心を揺さぶろうとするのである。〟
  こう書いた江藤は間もなく細君の後追い自死をとげたというのは。『漱石とその時代』が、実証的論文であるのか、私人的エッセイであるのか、小生には量りかねますが、『私の個人主義』を『草枕』や『文学論』とならべて、最も大切な漱石テクストと観ている一個人としては残念でなりません。なにしろ、『漱石とその時代』は史料的価値の高い漱石文献として有名だったのですから。
  さて、「賢治テクストを如何に読むか?」という問題意識と、「生活者宮澤賢治の実像や如何?」という問題意識との間には、如何なる興味関心の差異があるのでしょう。たとえば、「夫や父としての夏目金之助の人間像や如何?」という問いを立てて一冊の本を書いたなら、鏡子夫人からの聞き書きによるそれの如くにかなり無惨な漱石観が蔓延る源にも、……。なにしろ、そこには、ドメスティックヴァイオレンスを実行する漱石が描かれているのですから。
  事実として人間像に迫ろうとすればするほどその双面背反性が浮かび上がってくることは否めないでしょう。それのへの両価両義性を思量すれば、〈双面背反的な人間像〉というのも重要だと思います。実際、小生は、『興福寺阿修羅像』を〈両義的自己内省像としての双面背反像〉と読み、正面の顔相をその両者と対峙し対自する〈まなざし〉と作して描いたデッサンを〈文遊理道樂洞からの声音〉と題したブログの扉絵に用いているわけです。
   で、いわばそれを、〈阿修羅賢治〉へのオマージュとしています。よって、「野の聖者なる聖人君子」として祀り上げられた賢治像には悪感を覚えずにはいられません。〈ナントカ大聖人〉などと絶対性神格と化されたアヤヤオヨヨに絶対服従している賢治観を好しとすることと同様。
  で、これからどう書いたらいいのかは、「未だしの感」 ということで。固より、「不羈奔放という道を如何に享受するか?」という問題設定に関して、ですね。
  2016,2,18 19:12     文遊理道樂洞の住人 
返信する
前言一部訂正です (辛 文則)
2016-02-18 20:46:26
  鈴木 守 様

  いつも通り前略です。
  前回のコメントに〈ブログ『文遊理道樂遊民洞からの声音』〉の扉絵として『両義性阿修羅像デッサン』を掲載している、と書いてしまいましたが、フェイスブック〈FUMINORI KANOTO〉の方の扉絵でした。ブログの扉写真は、岩手県立美術館所蔵舟越保武師の『青い魚』でした。
  その作品には、野草と共に「やがて○○見えず、ふり向けば月見草」と刻まれています。美術館員の解説では、○○の文字を〈浮子(うき)〉と読み、『巨岩と花びら』に事寄せて、「渓流釣りが好きだった先生と〈魚釣りの浮子〉」と書き、そのレクチャーが二十年近く持ち家に権威づけられつつあります。
  実は、保武先生と親しく、県美の腑名S腰舟越作品と松本竣介作品の半分以上の買い入れの仲介をとったMORIOKA第一画廊主の上田浩司氏(小生の企画個展を開いてくれた人。藤井勉や百瀬寿を世に出した画商)から、「この文字を何と読む?」と訊ねられて、「う~ん、遊子かな…」、と。「正解!」、と。
  〈遊子〉という語の一般的な意味は、藤村の「小諸なる古城のほとり 遊子かなしむ」で知られるような〈旅人〉。それも〈観光ツーリスト〉ではなく、いわば西行や芭蕉あるいは山頭火のような〈高踏遊民的旅人〉の意。つまり、「時流や権力や利得に流されない不羈奔放人」といった意味での〈遊子〉。小生としては先ず一番に松本竣介を想い浮かべたのでした。
  美術館友の会に所属して、ボランティアもやっている妻が最近、「あれは浮子ではなく遊子よね。浮子だと意味合いが浅くなりすぎる」と言い出しました。で、小生も持論を。実は、深読みが高じて、『荘子・逍遥遊篇』に描かれている、「北冥の魚なる鯤」をも譬えているのではと考えていたのですが、その解釈には、「穿ち過ぎ!」の一言が。
   まあ、「藝術作品のコトバ」の〈読み(解釈)〉は、一義論理言語の解読とは違って、さまざまな読みがあってううのですが、「作者の表現意図を全く無視してよい」、というポストモダン流テクスト解釈観にもまるまる同意というわけには、…。
   ところで、守先生、FB開いて遊ぶ気はないですか。原則は実名で自分の顔写真を出すのがキメゴトになっていますが、それなりに面白いです。トモダチと称して相互承認すると、〈一般公表閲覧記事写真〉と〈トモダチ限定閲覧用〉に分けができます。〈ダイレクトメッセージ〉として「私人同士の通信欄」もあり、トモダチ通信の投稿やDメッセージがあるとパソコンメール上に通知されます。身分情報を申告して会員にならないと、他人のFBの公開情報も覗くことはできません。好まぬ他人の耳目をブロックする方法もあるようですが。因みに、八十九人目のトモダチと通じましたが肝心の娘からはブロックされたままです。四十五歳離れた娘との関係はムズカシイです。
   尚、ブログやツイッターと違って、全世界開放です。小生のトモダチにも、アイマイエルコトノナイが海外の画家が三人ほど。トモダチ関係を結んでいて小生の作品に興味を懐いたらしくトモダチ申請をしてきTくぁのを受け入れました。固より、その人の掲載自作を観ての上です。コメントは簡単に翻訳されて掲示されます。
  ブログと同様、所見も書け、コメントも書いたり貰ったりできますが、ブログほど濃厚にはいきません。小生のトモダチは、元教え子や高校や大学での同期生や同窓生です。若い美術教師とは繋がれますが退職者世代でFBを開いている方は殆どいません。 
  小生の場合は、澤口たまみさんや何人かの画家のように、ブログ更新通知と読み手の開拓が主でしたが、美術旧作や過去に新聞に載った記事、吾子の展覧会通知などが主たる情報です。
   守先生の場合、PC技術的には開くのは造作ないでしょうが、「実名応対が原則」という世界では、…。娘の世代のように〈若いこれからの女性〉にとってはアブナイ世界ですが、「もはや失うものは何もない老翁」としては気楽と云えば気楽です。不徳な匿名者に悩まされる心配は原則ないようです。いかがですか。
   
返信する
ご助言ありがとうございす (辛様へ(鈴木))
2016-02-18 21:24:50
辛 文則 様
 ご指摘のとおりですね。無理があったと今反省しております。
 本来の「不羈奔放」の意味
   何ものにも拘束されず、思いどおりに振る舞うこと。
   常識などに囚われずに、自分のやりたいように、自由に行動しているさま。
を、ついつい 「自分のやりたいように」に目が行ってしまって「放埒」「自己中」 に近い意味で使ってしまいましたね。
 少なくとも「不羈奔放」ということであれば、新たに何か意味のあることをを少なくとも生み出すものであるはずですが、今回の「ドタキャン」はなにも生み出さないか、せいぜい白鳥と草野心平の丁々発止しか生み出しておらず、そこに新たな意味あるものは何もございません。
 つきましては、このシリーズは今すぐにはできないかもしれませんが、いずれタイトルも含めて再検討したいと思っております。ご助言ありがとうございました。
 それから、FBですが、少なくとも今しばらくはやらないのではなかろうかともう一人の私が後ろで笑っております、お前の顔写真を出したならば、「志村」と間違えられるぞと。そんなわけで、折角のお勧めなのですが申し訳ございません。
                              鈴木 守
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