みちのくの山野草

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「三か月間」の滞京にも(後編)

2016-02-22 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、澤里武治は
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。
「澤里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺はやる、貴方もヴァイオリンを勉強してゐてくれ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛迄セロをもつて御見送りしたのは、私一人でた。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう歸つて呉れ、俺はもう一人でいゝいのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつた、また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大變樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは、殆ど弓を弾ひくこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかかからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふことにだけ、日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうな、はげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
              <「澤里武治聞書」生原稿(現代詩歌文学館所蔵)より>
と証言しているわけで、もし澤里武治のこの証言に従うとするならば、そして現に〝現「賢治年譜」〟はそれ(「関『随聞』二一五頁」)に従っていると言っているのだが、
  (大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
というその記述は常識的にはあり得ない。もちろんそれは、澤里武治の証言を作為的に使っているからであり、不都合なところは無視しているからである。澤里武治の証言を使うのであれば恣意的に使わずに正しく使ってほしいものだ。

賢治昭和2年一年の計
 さて、時間を少し前に巻き戻す。賢治は大正15年に高級チェロを買ったわけだが、その年末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受けたようだ。そして年が明けて昭和2年、賢治は一年の計
    本年中にセロ一週一頁
を立ててチェロの独習を始めたわけだが、この年賢治はもう31歳、プロでもチェロという楽器は極めて難しいというから、賢治はかなり苦労したであろう。
 それは例えば、新日本日本フィルハーモニー交響楽団の主席チェリストであった西内壮一氏でさえも、
 十八歳で弾いた曲は『音楽教室』の生徒なら小学生で弾けるような曲でした。それでやっと先生のレッスンが受けらられるようになったわけです。灰皿投げられたり、譜面台蹴飛ばされたりしながら……。遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉が通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
             <『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』(中丸美繪著、新潮文庫)155pより>
と振り返っているくらいだから、30歳を過ぎた賢治の指は思うようにはならなかったであろうことはほぼ明らか。まして独習であればなおさらであったであろう。
 ちなみに、横田庄一郎氏の『チェロと宮沢賢治』によれば、
    沢里は潜めて打ち明けた。「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが……」
              <『チェロと宮沢賢治 ゴーシュ余聞』(横田庄一郎著、音楽之友社)112pより>
というくらいだから、少なくともこの時点(昭和2年)での賢治の腕前はそれ以前あったであろう。なお、「太湖船」だけは弾けたという話もあるが、それは開放弦だけで弾けるからだという

今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する
 そこで考えられることは、東京に行って暫くの間専門家からチェロの手ほどきを受けようと、昭和2年のある時点で賢治は決意したということである。それは他ならぬ、「澤里武治氏聞書」
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
 あるいは、『宮澤賢治物語(49)』<*1>には、
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、…(略)…その十一月のびしょびしよ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまつておりましたが、先生は、
『風邪をひくといけないから、もう帰つて下さい。おれは一人でいいんです。』
 再三そう申されましたが、こんな寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについてさまざま話合うことは大へん楽しいことです。
 間もなく改札が始まつたので、私も先生の後についてホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して、
『ご苦労でした。帰つたらあつたまつて休んでください。』
 そして、しつかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。汽車が遠く遠く見えなくなるまで、先生の健康と、そしてご上京の目的が首尾よく達成されることを、どんなに私は祈つたかしれません。
              <昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
そして『宮澤賢治物語(50)』には、
 滞京中の先生は、私達の想像することもできないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
 手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持つていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
              <昭和31年2月23日付『岩手日報』より>
と澤里武治が語っていることから容易に導かれる。また賢治の、とりわけ「今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する」の一言から、その決意が並々ならぬものであったこともわかる。
 しかし、実際に東京に行ってチェロを勉強してみたものの西内壮一氏の言うとおり現実は厳しくて、澤里武治の証言「その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」どおりであったであろう。ちなみに、

から明らかなように、この「三ヶ月」に当たると思われる昭和2年11月~昭和3年1月の間の詩の創作がないので、この時期賢治は詩の創作どころではなかったということが窺える。

やはりここにも
 したがって、巷間云われている賢治ならばこの農閑期は近隣の農民のために本来であれば肥料設計をしてやっているはずだが、昭和2年11月頃からの「三か月間」の賢治の上京と滞京があったということは、そうではなかったということになる。思い立ったら周りのことにとらわれずに遮二無二突き進むという賢治の性向がここにも遺憾なく発揮されているとも言える。しかしももともと、「羅須地人協会時代」の賢治がそこまでしてチェロを学習する意味と価値はほぼないように客観的に考えられる(例えば年齢的に)のだし、現実に賢治のチェロの腕は上がらず、あげく神経をすり減らして「病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」という結果となったと言えそうだ。とはいえ、このことから何も意味のあることが生まれなかったかというともちろんそうではなく、この挫折によって賢治は己の「慢」を思い知らされたと十分に考えられるからそれなりの意味はあったであろう。それはあの、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡(258)中の
   殆どあそこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいのもので何とも済みませんでした
             <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)より>
の悔いの典型の一つであったと考えられるからである。

 よって、やはりこの「「三か月間」の滞京」は賢治の「不羈奔放」な性向が遺憾なく発揮されたと私は解釈した。長い目で見れば、この挫折が後の童話の創作や推敲にかなり活かされていると思うところがあるからである。
 
<*1:注> 澤里武治がこの『岩手日報』連載の『宮澤賢治物語』を毎日貼り付けていたスクラップブックが今でも澤里家に残っている。

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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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◇ 現在、拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、以下のように、各書の中身をそのまま公開しての連載中です。

 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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