みちのくの山野草

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楽団の解散の仕方にも?

2016-02-20 08:30:00 | 「不羈奔放な賢治」
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》

 さて、一般には賢治は昭和2年2月1日付の『岩手日報』の新聞報道を受けて賢治はどうしたかというと、『新校本年譜』に
 協会員伊藤克己によると、賢治は「其の晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては済まない」と言いオーケストラを一時解散し、集会も不定期になったという。誤解云々は思想問題を指すもので、社会主義教育を行っているという風評もあり…(略)…。
              <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)343pより> 
とあるように、「誤解云々は思想問題を指すもので、社会主義教育を行っているという風評もあり」が理由で、「オーケストラを一時解散し、集会も不定期になった」というのが通説のようだ。たしかに、伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」でそう語っている
 しかし実際は、昭和2年2月1日付岩手日報の報道を受けて賢治が止めたことは楽団活動(オーケストラ)だけであり(伊藤によれば「一時」ということだがそれっきりであった)、それ以外の羅須地人協会としての集まりはしばらく止めなかったようで、その後も暫くの間、羅須地人協会で集会等が開かれていたようだ。事実その案内も出されていて、少なくとも4月10日までは引きつづき開かれていたと判断できる。したがって、2月1日の新聞報道を受けて楽団を即刻止めた理由は賢治が『誤解を招いては済まない』と言ったとおりであったのではあろうが、それは「思想問題」としての誤解というわけではなく、もっうちょっと違った「誤解」が理由だったという蓋然性が高かったのではなかろうかと私は推測している。

 ではなぜ、賢治は即刻楽団活動だけを止めたのか。それはその頃の岩手県内の社会情勢を思い起こせばその有力な理由の可能性が私には見えてくる。周知のように、大正15年は赤石村を始めとして紫波郡内の多くの村々が大旱害で飢饉一歩手前にあった。そこで、地元は勿論のこと仙台や東京からも陸続としてその義捐が届くし、若者たちを始めとする救援活動も盛んに行われていた。そしてこの時の旱害の惨状は年が明けてからも相変わらず続き、そしてその被災地のさらなる広がりも知られていった。その罹災の実態と酷さは、例えば 昭和2年1月9日付『岩手日報』の一面を見れば一目瞭然である。そして、この時の旱害による苦悶は紫波郡内はもちろんだが、次の昭和2年1月26日付『岩手日報』の「舊年末を前に本縣下の農村は破産の状態」という見出しの記事
  舊年末を前に本縣下の農村は破産の状態
   借金の苦しさに土蔵を売払ひ家を閉ぢて逃げ隠る
 二三年この方つゞいた未曾有のカン魃とお米が捨て賣り同様の安値のため農村では舊年末を前に悲境のドンぞこに落ちてゐる。これがため家財を売り、遠くで稼ぎに赴いた者も数少なくない模様で稗貫郡某村の如きは中産以上の農家でさへ年末の支払ひに二進も三進も行かず、祖先伝来の土地を売り払ったとの哀話もあり毎日借金取りに攻められるので致方なく家を閉ぢて水車小屋に引き移ってゐるといふ話しもある。況して旱害の程度も一層深酷であった紫波地方の難民は日々の生活にさへ困窮してゐる者が多くその惨状は全く事実以上であらうとのことだ。かくて本県下の農村はいまや経済上破産状態にあるがやがて本県にもいむべき農村問題社会問題がもちあがるのでないかと識者間に可なり憂慮されてゐる
からわかるように、隣の紫波郡のみならず、賢治の住む稗貫郡内でも同様な苦悶に追い込まれる農家もあったということになる。
 本来ならば当時のことだから、一年中で一番楽しみな行事の一つだったはずの旧正月を控えていたのにもかかわらず、この年は近隣の多くの農家が旱害罹災で悲惨な状況下にあり、そのようなことが稗貫でも起こっているというこの報道がなされての1週間後、この2月1日付の次の新聞報道、
 農村文化の創造に努む
         花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
がなされてたということになる。
 さて、ではこの新聞記事を見て地元の周りの人たちはどう受け止めただろうか。当時の社会情勢を踏まえて、客観的に推測してみると、
 稗貫の旱害被害も軽くないし、まして隣の紫波郡内の赤石村や志和村、不動村、古館村等の農民はそれどころかもっと悲惨で「凶歉」状態にあるというのに、賢治は一回り年下の若者達を集めて「協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画」などとほざいて、一体何を暢気なことをしているのか、今はそんなことをしている時勢にはなかろう。多くの若者たちがこの惨状を見かねて何とかしようとして救援活動のために駆かけずり回っているというのに、夜な夜な下根子桜の宮澤家の別荘に「いい若者たち」が集ってギコギコと下手くそな音を立てながら音楽活動をやっているとは情けない。まして、今は大正天皇がお亡くなりになって皆喪に服している時だというのに何と不謹慎なことよ。もしそんなことをしている金と暇があるならばならば、せめて隣村のために少しでもいいから救援活動でもしろ。
というように周りから誹られ、非難されたということが理屈としては導かれるのではなかろうか。

 そして、当時この楽団のメンバーは
   第1ヴァイオリン 伊藤克己
   第2ヴァイオリン 伊藤清
   第2ヴァイオリン 高橋慶吾
   フルート     伊藤忠一
   クラリネツト   伊藤與藏
   オルガン、セロ  宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。

         <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より>
ということだから、このメンバーのうちの親の誰かなどは、この「推測」のようなことを心配もしたであろう。そしてその心配は賢治にも直ぐ伝わっていったのではなかろうか。あるいはまた、常識人である父政次郎から露との場合と同じように賢治は厳しく叱責されたということも考えられる。
 そこで賢治自身も、そう言われてみれば自分はこの時の大旱害に際して何一つ救援活動をするでもなく、全く無関心でこのような暢気なことをしてきたと覚り、恥じ入って即刻賢治は楽団活動を止めてしまった、ということは常識的に考えれば十分に現実に起こり得たであろう。
 そしてこのことは、伊藤克己の「先生と私達―羅須地人協会時代―」における、
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
 セロは一時花陽館と云ふ映畫館に身賣りした。私達は無料券を貰つて映畫を觀に行つたものである。今にして思えばほんたうにすまない譯である。
             <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)397P~より>
という回想からも窺える。それは、賢治は協会員の若者たちがその後もそれぞれの楽器を習えるような手立ても講じているようだから、この新聞報道を境として賢治がその楽団を直接指導することが急遽できなくなったというよりは(この時に許されなかったことは楽団活動そのものというよりは)、下根子桜の宮澤家の別宅で楽団を率いているという賢治自体が問われたのであろうということでもある。

 いずれ、こうと思ったら即実行に移すという賢治の性向がここでも発揮されて、このように新聞報道を受けてあっさりと楽団を解散してしまったということになるのであろう。しかも、楽団を急遽止めたいなどとメンバーに打ち明けてから決定するなどということはせずに、己の判断でさっさと決めてしまったと言えそうで、そこにも賢治の性向が現れている。ただ、今回のこのようなことを「自分のやりたいようにやる」ということが「不羈奔放」かと言えばそれは的確な表現ではない。そこに新たな意味のあることが生まれているわけではないからだ。がそれに近いともまた言えるから、楽団の解散に仕方に「不羈奔放」もどきが垣間見られるとなろう。
 さてこれで、この新聞報道によって即刻楽団を止めた真の理由が「思想問題」であるというよりは、隣の郡内は「凶饉」状態にあり、しかも天皇が亡くなったばかりでもあるというのになんと暢気に不謹慎なことをやっているのか、という周囲からの厳しい批判を受けたことにあった、いわば「社会性の欠如」を批難されたことがその真の理由だったという蓋然性の方が高いということだけは少なくとも明らかになったと納得した。

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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
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 『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』         『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』       『羅須地人協会の終焉-その真実-』

 『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)               『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』

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