《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
さて、前回「この点からいってもあの澤里武治の証言をますます無視できない」と述べたところの証言とは何か。それは、拙著『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』における拙論の重要な「鍵」となった次の証言、 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(投稿者略)…
その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…
<昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>『上京、タイピスト学校において…(投稿者略)…言語問題につき語る』
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
…(投稿者略)…
その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…
のことである。
そして同書において私は、
あまりにも長すぎる「現賢治年譜」における「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の空白の真相は、
ということを実証した。もちろんこの結論は現通説とはかなり違う。がしかし、現通説にはいくつかの反例があることも同時に同書では示してあるので、現時点では反例の見つからないこの仮説〝♧〟の方が妥当であろう。もしこれに対する反例があるのならばご教示賜りたい。現時点ではどなたからも私のこの仮説に対する反例は突きつけられてはいない。 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♧
である。したがって現時点では、この年の11月に賢治が「貧しい農民たちのために己を犠牲にしながら献身した」ということはなさそうである。それどころか、この11月から賢治は3ヶ月弱花巻を離れて東京でチェロの猛勉強を行っていたとほぼ言えそうだ。1年前のほぼ同じ時期に約1ヶ月間賢治は滞京していたのだが、この昭和2年には、さらにもっと長期のほぼ3ヶ月間の滞京をしていたという蓋然性が極めて高いのである。
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いつも大変お世話になっております。今回のご教示もありがとうございます。
私には今まで考えも及ばなかったことですが、仰るとおり『羅須地人協会立ち上げと労農派シンパ活動の関連から、賢治の上京は東京との連絡もあった』という可能性もたしかに考えられますね。
こうなりますと、やはり伊藤七雄と賢治がどうしてあのような親密な関係になったのか、賢治は七雄とどのようにして知り合ったのでしょうか、その切っ掛けや理由をまずは知りたいものです。素朴に考えれば、この二人の接点は見つけられないのですが一体何だったんでしょうか。
たとえば、『人間織田秀雄』(佐藤秀昭著、青磁社)に挟み込んである小冊子に森荘已池が〝織田秀雄の碑をたてたい〟という小論を寄せていますがその中に、
織田秀雄は、昭和五年に検挙された岩手共人会(岩手県で最も逮捕者の多かった左翼事件)の組織者・指導者だった。
私もつかまって、二週間余勾留された。はじめは私が首領のように、特高にみられた。秘密裡の集会、会合を各地で開き、それが私の名で行われていた。
そのガリ刷りの小さな紙キレに、私たった一人の名が主催者として書かれてあった。全く私の知らないものだった。
特高課長が、取調べに持って来た切抜帳は、私の編集した岩手日報文芸欄の切りぬきで一冊埋まっていた。行ごとに赤線が引かれた織田秀雄のものが多かった。
とあります。
そしてこの織田秀雄は当時の胆沢郡小山村(現奥州市胆沢区)字笹森出身で、大正12年水沢農学校に入学、同15年3月に卒業しております。そしてその5月からは、胆沢郡姉体村の尋常高等小学校の代用教員になっております。ちょうど賢治が下根子桜に移り住んだ頃ですね。
そういえば、その頃からがあの千葉恭(水沢農学校大正13年卒、水沢真城出身)が賢治と一緒に暮らし始めた頃となります。
またそもそも、森荘已池自身は『全く私の知らないものだった』と述べておりますが、織田と全く関係がなかったわけではないはずで、それは賢治もそうだったのではないでしょうか。実際に森荘已池は、『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房)の中で、
宮沢さんは東北砕石工場の話をはじめる。給料のかわりに、五車とか炭酸石灰をよこされたと笑つた。織田秀雄君の家に何俵か肥料を送るということには、自分も心からさんせいする。
と述べてありました。
となりますと、森荘已池、織田秀雄(水沢農学校)、千葉恭(水沢農学校)、宮澤賢治となんらかの糸で繋がりましたから、ひいては水沢出身の労農党の幹部の伊藤七雄がやがて宮澤賢治と繋がることは少なくともこれらのルートであった可能性もありそうですね。
それでは、来月の13日にはどうぞよろしくお願いいたします。
鈴木 守
13日、何人か集まります。楽しみに。
今晩は。いつもありがとうございます。
仰るとおりでした、もっと素直に労農党員であった高橋慶吾のルートをまず探るべきでした。逆に言えば、七雄と慶吾の接点をまず調べてみるべきだということになりそうですね。たしかにそれを今の時代に探り出すことは困難なことではありましょうが。
それでは、13日11時過ぎに参上いたしますのでどうぞよろしくお願いいたします。
鈴木 守