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八丈島のおいしい暮らし

毎日のごはん作りと島暮らしに役立つ情報を
八丈島のスーパーあさぬまからお届けしています

たかちゃん@八丈島を彩る人々(10)

2009年11月09日 16時15分36秒 | インタビュー
今日のインタビューは、埼玉県上尾市在住の吉永貴子さん(たかちゃん)です。
当ブログにときどきコメントくださるたかちゃんは、熱烈な八丈島リピーターで、
多い年には毎月八丈島を訪れ、来島回数はこれまで約55回!
毎回宿泊されている「ロッジ・ワイルル」さんとは家族ぐるみのお付き合いで、
いまやワイルルの子どものような存在です。
小学生の頃に発症した筋ジストロフィーという難病を抱えながら、
自分で車を運転して職場へ通勤し、OLとして働き、主婦としての家事もこなし、
ダイビングで訪れた八丈島の人達と次々に仲良くなってお友だちを増やし、
八丈島を故郷のように思って通ってくれる素敵なたかちゃんのインタビューです。


吉永貴子(よしながたかこ)さん
昭和45(1970)年1月22日生まれ 39歳
ワイルル感謝祭にて

●たかちゃんは、どんなお仕事をしてるの?
 わたしの住んでる隣りの市のJA本店に障害者枠で入って、金融課にいます。
それまでは、高校を卒業してから13年半、病院で病棟の事務と受付事務をしてたの。

●たかちゃんの障害は、筋ジストロフィーということでいい?
 そうです。肢帯型の筋ジストロフィー。

●それは生まれつきのものなの?
 いや、小学校の低学年位まではぜんぜん元気で、実家が商売をしてたから、
真っ暗になるまで帰らないほど遊んでたの。それが高学年になって体育の授業が
ハードになったら、体育やった日だけ足が痛くて眠れないみたいなことがあって、
親が心配していろんな病院へ連れて行ったのだけど、ちょうど高学年だし、
どの病院でも「成長痛」ということで流されてしまって…でも母親が、
「こんな痛いのに成長痛のはずがない」といろいろ病院へ連れて行ってくれた。
「東京慈恵医大」にいい先生がいるというので行ったら、たまたまそこに昔の
「国立武蔵療養所・神経筋肉センター」の偉い先生が来てて、
そこで肩の筋肉を採って調べたら、やはりそうだということだったの。
現在は、手も上がりづらいけど、メインは腰から下に力が入らないという症状。

●手もきつい?
 あまり上がらないんですよ。片手で支えると少しは上がるけど。

●病院で、わかったのはいつ頃? 
 中学2年。だから、3年間30か所以上の病院へ行って、やっとわかったかんじ。

●高校へは普通に行ってたの?
 はい。高校のときには、スクールバスにも乗って、電車通学して行けてた。

●就職に関しては、病院の先生に相談して決めたの?
 わたしは子どもが好きで、ちっちゃいときから夢はずっと保母さんになること
だったのだけど、自分の病気と向き合おうと思ったときに、保母さんはできないから、
じゃぁ、何になろう?とずっと思ってて…とりあえずは就職しなきゃいけないから、
座ってできる事務職で、病院だったらいろんな設備が整ってるし先生もいるから、
自分の病気を理解してもらえるんじゃないかと思って、病院の事務を選んだの。
だけど、自分の身体がだんだんきつくなってきたときに、職場の環境改善の
理解が得られなくて、職安に通って、いまの職場に転職したんです。

●職安?そういのをサポートしてくれるセンターとかには行かなかったの?
 まだそこまで……いや、就労支援とかはあったかもしれないけど、
みんな、わたしたちの友達は重症の人が多いから、まず就職することはないし、
養護学校を卒業したら就職先がなくて、HPを作るような能力があっても
会社は雇ってくれない状況です。

●それで職安へ行って、現在のJAに再就職したのね。
 もう8年目に入りました。金融関係だから、人事異動が3年に1回位あるんだけど、
わたしはフルタイムのパートだから、異動もめったなことではないし、
一番の古株だねって、いわれてます。(笑) 


たかちゃん(左)と「Project WAVE」 のユリちゃん(右) ワイルル感謝祭にて

●たかちゃんが、はじめて八丈島に来たのはいつ?
 2000年の9月か10月。
埼玉にあったダイビングショップのツアーが毎年その頃にあったの。

●ダイビングをはじめたきっかけは?
 たまたまテレビのニュースで、65歳の女の人が筋ジスで、
でも海の中を見たいのでダイビングをはじめたというのを見て、
え!?わたしも海の中が見たいから、65歳の女の人がやってるなら
わたしもやってみよう、と。でも、なかなか勇気が出なくて、
毎日の通勤ルートにダイビングショップがあるのだけどなかなか行けなくて、
そのときに母親が、「やってみてだめならやめたらいいのだから、やってみたら?」
といって背中を押してくれた。それで、そのお店に行ってみたら、
障害者ダイバー第1号として面倒みましょう!と受け入れてくれたんです。
そのショップはそれから次々に障害者ダイバーを受け入れて、
20人位ハンディキャップのダイバーが生まれて、健常者のツアーと別に、
ADP(アダプテッド)のツアーに分かれて行くようになったの。

●それは気持ちが楽になった?
 それまでは、わたしはそこでは障害者の第1号だったので、普通のツアーに
行ってたんですけど、みんなは1日に2本潜ってお風呂に入ったりしても、
わたしは身支度とかに時間がかかるから…ADPだったらみんなそういう人達で、
気がねなくのんびりとゆっくり1本潜ってお風呂に入ってお昼を食べて帰りましょう、
みたいなことがね、できるから。

●それで、そのツアーで初めて八丈島へ来たんですね?
 ショップのオーナーと 「Project WAVE」 の神部さんが知り合いで、
八丈島は飛行機に乗ってしまえば空港も近いし空港内をあまり歩かないし、
いろんなポイントまで車で近いし温泉もある、ただネックはトイレで…
トイレを直してもらえるなら、みんなを連れて来れるという話を「ワイルル」に
してくれたみたいで、そしたらジジ(ワイルルのマスター)が、
「トイレ直してあげるから」といってくれて、それで「ワイルル」に来たの。

●じゃぁ、はじめて来たのが「ワイルル」?
 そう。だから、他の宿はぜんぜん知らないんです。(笑)

●島ではどの辺で潜るの?海まで下りるのとか大変じゃない?
 それは、おんぶとか。あとは、「ランディーズ」という水陸両用車みたいな
車椅子があるんですよ。大潟浦の休憩所下とか、岩のゴツゴツしたところは
行けないけど、底土とか、旧八重根とか、ナズマドとかおっちょとかは大丈夫。
あとはボートダイビングで、ボートにさえ乗っちゃえばポイントまで行けちゃうから。

●たかちゃんは、お友達も連れてきてるよね?
「埼玉県筋ジストロフィー協会」の中の「在宅患者の会」というのがあって、
その中で「ピアサポート」という名前で活動をしてるんですけど…
月に1度集まったり、年に何回かお食事会したりとか旅行に行ったりとか、
している仲間がいて、その中からわたしの他にもダイバーになった人がいたので、
「埼玉はがんばってるな~」とか「わたしも(ライセンスを)取りたいんだ~」
と他の支部の人達からいわれて、愛知支部の名古屋の人とか兵庫の人も
ダイバーになったんです。

●そういう情報交換はどこでしてるの?
 「日本筋ジストロフィー協会」 という全部の支部が集まった協会に
ML(メーリングリスト)があって、そこで情報交換してます。

●なるほど。そのMLに「埼玉ではダイビングやってるよ」と書くと、
そういう情報が全国に回るわけなんですね?

 そう。それから、1年に1回大会があって東京に集まる機会もあるので、
そのときにオフミーティングをして、みんなで集まって話をしたり。
あとは2年に1回、北海道大会とか秋田大会とか、地方での全国大会もあるので。

●そういう大会に、たかちゃんは積極的に参加してるの?
 行ってます。一応、埼玉県の筋ジス協会の理事なんです。(笑)

●あぁ、すごいね!
 筋ジスは、動ける人が年々重度化してくるし、動ける人は筋ジスが分かっても
会に入ってなかったりとか、会に入っていても役員になる人は少なくて、
結局、自分は参加したくても会に集まるためには送迎が必要だったりとかで…
わたしは自分で運転して会に行けるので。


たかちゃん(下)と「Project WAVE」 の岩崎由美さん(上) ワイルル自宅にて

●いまは家族のようなワイルルとのお付き合いは、どんな風にはじまったの?
 最初は、八丈島へ来たら泊まるのは「ワイルル」だけど、
いろいろ島を案内してくれたりしたのは岩崎由美さんなんです。
「ダイビングで潜るだけが八丈じゃなくて、八丈はいろんなところがあるし、
いろんな季節も見てもらいたいから」といってくれて、じゃぁ、時間を見つけて、
次は「フリージアまつり」のときに来てみようとか、「夢伝大会」に来てみようとか、
そんな風にしてワイルルに何度か泊まるようになったときに、
のんちゃん(ワイルルのお孫さん)がすごくわたしになついてくれて…

●じゃぁ、最初に仲良くなったのは、のんちゃん?
 そう。いまは11歳ののんちゃんは最初に会ったときには2歳だった。
でも、ジジには、「次に来る時までに、ここにこんなのがあったらいいかも」
というのをいったりして、「じゃぁ、手すりを付けといてあげるから、
どの位の位置に何センチのを作っておけばいいんだ?」といって手すりを
付けてくれたり、「わたしたちも勉強になるからいろいろ教えてください」と
ババ(ワイルルのママ)がいってくれたりして、いろいろ親切にしてもらったの。

●いまはもうワイルルのファミリーというか、他のワイルルのお友だちとも
お付き合いの輪が広がって、島はたかちゃんの故郷みたいになってるよね。

 そう。みんな、お帰り~といってくれる。(笑)
ジジとババは、3番目の両親みたい。

●たかちゃんの前向きで積極的な人柄が、お友達を増やしてると思うけど、
もともとそういう性格だった?人付き合いは好き?

 出かけるのは好き。人付き合いも好き。(笑)

●障害のことで、気持が落ちてしまう日もあると思うけど、
たかちゃんのその前向きさ、強さ、明るさはどこからきてるんだろう?

 家にいて落ち込んでるより、出かけて楽しい方がいいと思うからかな。
母親は、「動けなくなる前に動いておこうという本能が働いてるんじゃない?」
というけど、「たかちゃんは、動けなくなっても出かけそう」ともいわれてる。(笑)
できないことを考えるのでなく、こうしたらできるといつも考える。
これができなくなったら、ここに手すりを付ければいいとか、
またできなくなったら、こっちにも付ければいいとか。


たかちゃん(右)とワイルルママ(左) ワイルル自宅にて

●八丈島全体の施設を利用してみて、どうですか?
 わたしたちにとっては、やはりトイレが一番大事だから、
八丈島はトイレがいたるところにあるから安心です。

●八丈島はトイレが多い方?
 うん、多い方。お店になかったとしても、車でちょっと行けば公共のトイレが
たくさんあるから、安心できる。出かけるときには、トイレがどこにあるのかが
すごく心配になっちゃうから。そういう面では、外に遊びに行くのに安心ができる。

●温泉はどう?「ふれあいの湯」の貸し切りは、入りやすいかんじ?
 うん、でも脱衣所に手すりがないので…
完全に車椅子で全介助の人とかは椅子に寝かせて着替えて、だけど、
わたしとかの場合は、立ってて脱がせてもらったり着せてもらったりするから、
壁につかまるところがあったらいいね、と話してます。
一番大きいお風呂はロッカーにつかまるしかないんだけど、
上がった後や誰かが使った後は、濡れていてすべるから、そこで脱ぎ着ができない。

●他はなにか希望することはある?
 愛光さんしか、いまはリフトのタクシーがないんですよね。
団体で来ると町のバスが借りれるみたいなんだけど、個人では利用できないし。
いまは軽の車で後ろに車椅子が一台乗れて、前に家族が乗れる車もあるから、
高い車でなくていいから、家族で来て自分達で乗れる車があったらいいな~と思う。
島がもっとそういうことができると、この島はもっともっと宣伝してもいいと
思うのだけど。。

●八丈島で好きな場所はどこですか?
 南原の夕陽とか、ポットホールも落ち着くので好きだけど、
一番好きなのは、大潟浦園地から見た大坂トンネル。
海や山も見えて、坂の上や下で違った雰囲気が楽しめる中間点のような気がして、
八丈島を表してるような気がするから。

●長いインタビューありがとうございました!
また、いつもあさぬまの島寿司や島唐ピザもご利用いただきありがとう!

 あさぬまの島寿司やピザは、東京へ持ち帰って、その日の夜や
翌日のお弁当代わりに食べてます。今回も注文してますよ。(笑)

◎目指せ!まいにち日曜日 ←クリック
たかちゃんが更新するパワフルで楽しい日常生活ブログ。
__
このインタビューは、10月31日にワイルルさんのご自宅をお借りして行いました。
お友達の多いワイルルさんやたかちゃんに、次々に訪問客が訪れて、
何度もインタビューを中断したり、だれかがインタビューに代わりに答えたりで、
膨大になってしまったテープを編集するのにまたまた時間がかかりました。
更新遅くなって、ごめんなさい。

「家にいて落ち込んでるより、出かけて楽しい方がいいと思うから」
「できないことを考えるのでなく、こうしたらできるといつも考える」
わたしも真似したいと思います。たかちゃん、ありがとうね。
また島で会いましょう!(*´∀`*)ノシ
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ちょっぺさん@八丈島を彩る人々(9)

2009年10月25日 19時50分29秒 | インタビュー
今日のインタビューは、先日のアイラナマーケットで画期的なエコクッションを
発表した「手作り道楽小屋ちょっぺ」(三根)オーナーのちょっぺさんです。
ちょっぺさんのこの素晴らしいアイディアを少しでも世に広め、
素敵なアイディア作品を次々に生み出すちょっぺさんの魅力をみなさまに
お伝えするためのインタビューです。



「手作り道楽小屋ちょっぺ」の場所は、底土海岸近く、底土海岸通りの左手にある
バー「D」の角を曲がり、「パパズイン」を左に見て少し行った先の右側にあります。
※底土通りには画像の看板が出ています。(画像左のお店がバー「D」)


「手作り道楽小屋ちょっぺ」外観

◎ちょっぺさんのお店は、先日、「癒香ブログ」でも紹介されました。
当ブログでご紹介しきれない店内の模様などはこちらをご覧くださいね。


ちょっぺさん、こと伊藤芳枝さん 昭和40(1965)年1月10日生まれ(44歳)

●ちょっぺさんがこのお店をはじめて何年になる?
 2004年の8月からだから、もう5年経ったところ。

●最初はタコの葉細工が多かった?
 そうだね。最初はタコの葉と布ものだね、ほとんど。

●「猫まつり」の頃から、猫ものを作るようになった?
 うん、そう。「猫まつり」がきっかけかな。


大量にもらった色糸と粘土で作った猫の置物(ちょっぺの人気商品)

●「猫まつり」は、発案はちょっぺさん?
 あれは別の人がいいだして、猫好きの人達みんなで考えて始めたかんじ。

●一番最初に「猫まつり」をやったのは、神湊の上の公園でしょう?
 そう。てか、まだ2回しかやってないけど。今年はちょっとできなさそうだね。

●ほんとは年1ぐらいのペースでやろうと思ってた?
 やりたかったんだけどね。でも、あれは、やりたいことをやりたいようにやろうよ、
て、それが猫なかんじじゃない?気まぐれにさ。
だから、気分が乗らないときに、そろそろ時期だからというのじゃなくて、
みんなのテンションが上がったときにやればいいじゃん、と思ってるわけ。

●あれは準備も大変でしょう?
 大変。ぜんぶ手作りだからね。
ゲームにしても看板にしてもぜんぶ手作りだから…それにこだわりたいわけ。
だから準備期間は半年ぐらいかかってる。

●じゃあ、それから猫ものをはじめて、いまはどういう品揃え?
 タコの葉細工、猫もの、ビーチコーミング系=拾いもの系。
海岸に流れ着く漂流物でもいろんな作品を作ってる。

■ちょっぺの商品ラインナップ■
◎商品紹介 ねこ系
◎商品紹介 ひらめき系
◎商品紹介 タコの葉系
◎商品紹介 布系
◎手作り道楽小屋「ちょっぺ」の紹介(ちょっぺさんのご主人のブログより)


ウキで作ったウエルカムのカエルがショップの前に置かれてある

●だんだんバラエティに富んできたね。
 目がそういう目で見るようになってきてるから、これなにかに使えないかな?
て、いつも思ってるからね。ビーチだけでなく、木の実でもなんでも、何に対しても。

●今回のエコクッションが画期的で、食品トレイを素材に使うというのが
とてもいい発想で、エコに関心のある人たちの注目を集めるだろうし、
大喝采だと思ってるんです。
わたしはスーパーのブログをもう3年以上書かせてもらっていて、
いつも売ることばかりを一生懸命に書いてることが、自分の中でバランスが
とれているだろうか?と感じることがあるのね。売ることに関わる人は、
その反対側、回収する側も考えないといけないと思うけど、
実際にはわたしはなにもしてないから、これならできそうと思うし、
それでよけいに惹かれるのね、このエコクッションには。

 あぁ、そうなんだね。そういうタイミングもあったのね。


ちょっぺさん発案のエコクッション(カバーをかけてない状態)

●だって、これ、中身がスーパーのトレイでしょう?
スーパーはこれをどんどん出すわけだから、これを回収して上手く利用して
くれるということには、ぐっと心惹かれるよね。
わたしは人にお料理のお裾分けをするときに、このトレイを洗っておいて、
そこにラップを1枚してからお料理をのせてあげてるの。
でも、そんなことぐらいではたいして使えないから、たくさん捨ててるのね。
それがクッションになって、島の各家庭にはこのクッションがいっぱいあったら、
すごく楽しいだろうなと思ったの。それっていいよね!

 わたしは自分がクッションが好きだから、クッションカバーを作るのも好きだし、
意味なくクッションが家にいっぱいごろごろしてるのが好きなのよ。
抱えるのと足のせるのと頭のせるやつとかね。

●今度のP連作品展でもやってくれない?エコクッション講座とか。
 今度の作品展には出そうとは思ってるけどね。
でも、もともとの出だしはエコとかそんな大袈裟なことじゃないから。
水海山の活動をしてる友人達から、ゴミのことを考えるようになったという話を聞いて、
ゴミか~ゴミのことなら自分でもなにかアイディアが出せるかもと思って、
前々から気になっていたトレイをとりあえず捨てるのをやめてみるか、と思ったの。
とりあえず捨てないでためてみて、なにか作れるか考えてみようと。
そしたら、たまったたまった!何ヶ月か経ったらワサワサすごい量になってるじゃない。
どうしようかな~と思って、平らな底の部分だけを重ねて猫を作りはじめたの。
そしたら、周りの部分のカスがいっぱい出るじゃん。
そのカスを捨てたら意味ないな~と思って、なんとなく切り刻んでみて、
あ、これはクッションの中身にできるかも、と思って作ったのが試作品第1号。
だから、「エコ」とか「ゴミの減量化」とか、そんな風には書かないでほしい。
このクッションは、呼び名が思いつかなくて「エコクッション」としたけど、
ほんとはそんな大袈裟なものじゃないから。
あのトレイだって、それなりの技術で作られてるものだと思うわけ。
いろんな形状だってあるし、それを1回で捨ててしまうのはもったいないな~
と思ったのがきっかけなので。そんな大それたことじゃないから。

●で、作ってみたら意外とよかった、というかんじ?
 そうそう、意外とよかったの。ちょっとこのカシャカシャ音が気になるかな~?
とは思うけど。でも、悪くない、と。
試作品は、座ってみたり踏んづけてみたり、いろいろやってみたけど、
潰れないから大丈夫だと思う。アイラナでもみんなに座ってもらったの。


アイラナマーケットでエコクッション販売の模様 中身は700円(カバー別売り)

●このクッション1個に、ゴミ袋1袋分のトレイが入ってるんでしょう?
 ちゃんと量ってないけど、たぶんゴミ袋1ぱい分くらい。
それを6時間かけて切ったんだよ。

●6時間!?これ、6時間かかってんの!?Σ(°Д°;)ノ
 わたしが切って6時間だからね。(笑)
たぶん慣れない人が切ったら、わかんないけど、1日かかるかもしれない。

●なにかいい方法ないかな?
 それをいま考えていて、シュレッダーを2つ持ってる友人がやってみてくれると
いってて、できたら1つシュレッダーをくれるといってるんだけど。
電熱線を組んで溶かし切るとか、カッターの刃を組んで切るとか、ちらりと考えたけど、
それをやってる間に切った方が…わたしは単純作業が好きだから、
これを黙々と切るという作業が嫌いじゃないんだよね。
でも、もっと早く作れて、もっと安く提供できれば、それはその方がいいんだろうな、
とも思うし。いろんなアイディアがあればね、やってみたらいいと思うし。

●1回これをみんなが45ℓの袋にためてみて、作ってみるといいよね。
 そうそう。アイラナのとき、「これを切ったら持って行っていい?」といわれたけど、
せっかく自分で切ったら、自分で作ってみたらいいと思う。
できないなら持ってきてもらってもいいけど、できる人はやってみたらいいと思う。

●これはいくらで販売するの?
 まだはっきり決めてないけど、市販のが1.000円オーバーだから、700円ぐらいかな。

●手間的にはぜんぜん合わないけどね、それぐらいが買いやすいね。
これをこれからもっと作るの?根気が必要で、大変そうだけど。

 うん、需要があればね、作る根気はあるよ。作る自信はあるけど、需要があればだね。


キッチンのテーブルで制作中のちょっぺさん

●ちょっぺさんの生まれはどこ?
 千葉の松戸。

●八丈島の前は小笠原にいたそうだけど、海が好きで島に暮らしてるの?
 小学6年生のときに一度ダイビングのライセンスを取ったけど、
高校生になって自分の意志でもう一度ライセンスを取り直そうと思って、
アルバイトをしてお金を貯めて、高2のときに取り直したんだ。
そこからずっとアルバイトをしながら海に潜りに行ってた。
OLをしてたときに、ダイビングをやりたくて、OLを辞めて小笠原にひとりで行ったの。

●え?そうなの?じゃあ、ご主人とは小笠原で知り合ったの?
 そう。向こうで結婚したの。ほんとは小笠原に骨を埋めるつもりでいたのだけど、
内地の転勤族の人と結婚してしまったから、旦那の任期が終わって、
一緒に内地に引きあげたのね。

●いままでどの辺に転勤したの?
小笠原→内地→大島→内地→小笠原→八丈島。

●それは、ちょっぺさんがご主人をそそのかして島へ行ってるわけ?
 違うよ、行きたいのは旦那の方だからね。(笑)

●八丈島は何年目?
 いま、8年目。

●それは、子どもが大きくなって、学校とかの問題で動けなくなったってこと?
 そう。小笠原の赴任が終わるときに、長男が中2だったから、
もうこれで島は終わりだね、と覚悟を決めてたの。
もう東京へ行って、家でも買って、という計画でいたのだけど、
たまたま八丈島と大島に空きが出て、どうか?と声がかかって、
(え~~!?あんなに覚悟を決めたのに…)と、人参をぶら下げられたみたいに…
それで、家族会議を開いたら、子どもらに「どうせもう行くって決めてんでしょ?島に」
といわれて、(笑)「もうこれで最後だから、もう1回だけ島に行こう!」といって、
大島は一度暮らしたことがあるから、八丈島の方を選んで、来たの。
で、小笠原を出るときに子ども達を見てて、(転校が)これはかわいそうだな、
と思ってて、そしたら八丈島で暮らしてしばらくしたら、いつもクールな長男から、
「八高を卒業させてくれ」といわれたのね。そうだよね、と思って、それまでは、
いろんなところを転々とはするけど、家族はいつも一緒だという方針でいたけど、
それはもう譲ろうと、だから旦那が単身赴任になっても子どもはここに残せるように
しようって(夫婦で)話してね。(※ご主人は現在、東京に単身赴任中)

●その辺の悩みは、転勤族には共通の悩みでしょうね。
じゃあ、末っ子(現在高校1年生)が卒業するまでは八丈島にいる予定なんだね?
その後は、どうするの?

 わかんない、まだ決めてない。それまでには旦那も赴任終わって、こちらへ
帰ってくると思うけど。でも、子どもが全部出ちゃったら、わからないね。
旦那は五島列島が好きだっていってた。わたしは行ったことがないけど。
わたしはね、ほんとはね、北に行きたいの。わたし的にはね。


小笠原にいたときに作ったタペストリー

●これからの創作活動は?エコクッションみたいなものをどんどん作っていく?
 そうです。エコに限らず、閃き勝負で、どんどん新しいものを作っていきたい。

●こういうエコクッションみたいの閃いたときは嬉しいでしょう?
 そう、すっごい嬉しい。それと、いろんな人がいろんなものを持ってきてくれるから、
「捨てる」という言葉に弱くて、なんでももらっちゃうんだけど、そういうものを
使っていいものを思いついたとき、失敗もいっぱいするけど、いいものができたときが
すごく嬉しい。

●気に行ったものを創り出したときに、手放すのが惜しくならない?
 よくいわれるんだけど、わたしは売れないものは値段落としてでも売って、
次のが作りたい。あまり執着はしない方だと思う。売れないとたまっちゃうから、
次のが作れないでしょう?

●よくこれだけ細かいものを次々に作るよね。感心する。
 止まってないよね、いつも手を動かしてる。最近腰が痛いから、夜なべできないけど、
腰が痛くなければ、ず~と作っていたいぐらいなんだよね~。
わたしは生き方が不器用だから、作ることでしか表現できないというか、
わたしが作るのをやめちゃったら、だめな気がするのよ。
作るのに頼り過ぎてる気はするんだけど。作るのは好きだけど、発信するの下手だし。

●そう!今日はそれもいいたかったの!このいい作品を見せないともったいない。
ちょっぺさんにブログをやるように、またいおうと思って来たの。(笑)

 はい。(笑)新しいものを作ったときに、見てもらいたいなと思うから、
前は旦那のブログにUPしてもらってたんだけど、いまはそれができないから、
もっと自分で宣伝しなきゃいけないとは思ってたところ。じゃぁ、教えてね!

●了解!いつでも喜んで!ちょっぺブログ作ろうね!

__
…というわけで、ちょっぺさんにブログを作らせる作戦も成功しました!(`・ω・´)ゝ
ちょっぺさんの作品には、どの作品にもちょっぺらしさが溢れている。
捨てられてしまうものに心の引っかかりを感じて、閃きと止まらない指先で
新しい作品に甦らせることのできるちょっぺさんのブログをお気に入りに入れたい人は
きっと多いことでしょう。一緒にエコクッション展をやろうね、なんて話もしました。
きっとやります。やりたいです。

追記(11/1) ちょっぺブログ開設されました!
◎手作り道楽小屋 ちょっぺ ←ちょっぺさんのブログ
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デューク金子さん@八丈島を彩る人々(8)

2009年10月19日 07時10分11秒 | インタビュー
本日のインタビューは、10月6日(火)の記事でご紹介した
「OCEAN LEGEND _ オーシャンレジェンド」のデューク金子さんです。

10月4日(月)、「癒香」さんから携帯にメールをいただきました。
カヌーで八丈島から江ノ島まで、手漕ぎ横断を計画している
デュークさんという人を紹介したい。彼の話には熱い言霊があるから、
本人に会ってほしいと。そんな内容で、その日の夜に初めてお会いして、
翌日の5日(火)に行ったインタビューです。

その後、八丈島への直撃は免れたものの予想外に被害の大きかった
台風18号が到着予定地の江の島へも被害を与えたために、
デューク金子さんは一時離島されて、現在は茅ヶ崎のご自宅で、
天気図と波の予報を分析しながら、再度八丈島へ戻って
この壮大なプロジェクトの第2ステージをスタートする日を待たれています。

彼がまたこの島へ戻ってくるまでの間に、このインタビューを読んでいただき、
ひとりでも多くの方が彼のスピリットに触れ、応援してくださる方が増えるよう、
彼の熱い言霊を(かなり長文ですが)なるべくそのままお届けしたいと思います。

※インタビューのすべては掲載できませんので、
デュークさんがなぜこのプロジェクトをはじめたか?そのきっかけとなった
ハワイの「ホクレア号」の話に焦点を当てて編集しました。


デューク金子さん 昭和38(1963)年4月9日生まれ(46歳)

●デュークさんは茅ケ崎にお住まいだそうですが、
あの…お仕事はなさってるんですか?

 仕事はしてます!してますよ。(笑)
「BEACH HAYAMA」というスポーツクラブでアウトリガーカヌーを教えています。
それ以外に、自営業でアクセサリー販売の営業もしています。

●プロジェクト名の「OCEAN LEGEND」とは、どんな意味ですか?
 直訳すると「海の伝説」という意味ですが、僕は「海洋民族の伝説」という意味で
使っています。このプロジェクトでは、日本人の海洋民族のスピリットを甦らせる
とともに、島と島を繋ぐということも目的としています。

●最終的に、6人乗りのカヌーで、小笠原まで行くのが目標ですか?
 いや、それが最終目標じゃないです。
今回のこのプロジェクトのファイナルではありますが。

●企画書に、いろんな人たちを乗せていくと書かれてありますね?
 何人かすごく漕げる若い人たちはいます。それ以外に、プロのサーファーとか、
プロのウィンドサーファーとか、プロのカヤッカーとか、一般の人たちとか、
そういう人たちも乗せていきたい。でも、どちらにしても日程が決まらないと、
みんな仕事がありますから、行けるかどうかの予定が決まらない。
行きたいという人たちはいますね。

●いろんな人たちを乗せていくということに意味があるんですね?
 そうですね。海に携わってる人達ってたくさんいるんですけど、
意外と敵対していたり、すごく垣根があるんですね。
たとえば、サーファーの中ではロングボーダーとショートボーダー、
サーファーとウィンドサーファーとか、ヨットマンと漁師とか、
お互いを認めなかったり、すごく垣根があるんです。
同じ海を使わせてもらっている者たちが海に感謝をこめて、
気持ちを一つにして漕ぐということに意味があると思っています。
一人乗りのカヌーなら、僕ひとりが漕げばいいけど、
6人乗りのカヌーは6人の気持ちが一つにならないと絶対進まないんですね。
カヌーってそういう乗り物なんです。

●練習しなくて大丈夫なんですか?
 練習しなくても気持ちが一つになって、邪念がなくてエゴがなければ大丈夫です。
いままで僕はずっとカヌーを教えてて、練習すれば速く進みますけど、
一番大切なのは、お互いを信頼しあって、気持を一つにするということなんですよ。
純粋に島を目指そうという気持ちのある人なら、漕いでるうちに必ず合うように
なってくる。そういう乗り物なんです。
ただ、はじめて漕ぐ人がほとんどなので、もちろん練習はします。
もうすぐハワイから練習用に6人乗りのアウトリガーカヌーが届くので。
そしたら定期的に練習のアナウンスをして、漕ぐ練習はします。


デュークさんのアウトリガーカヌー ダイビングショップ「ビエントス」にて

●わたしが知識がなくて申し訳ないんですが、どういうのがアウトリガカヌー?
 アウトリガーというのは、この横の補助輪みたいなでっぱりの部分のことなんです。
出てる部分がアウトリガーで、アウトリガーの付いてるカヌーがアウトリガーカヌー。
この島にもあるじゃないですか?カヌーと呼ばれてるけど、あれもエンジン付きの
アウトリガーカヌーです。

●ちなみに、このアウトリガーカヌーはいくらぐらいなんですか?
 この一人乗りので50万弱ぐらいです。6人乗りで100万位。輸送費入れて150万位です。
3人で買おうと思えば、そんなに高いものでもないですよ。
ただ、6人乗りだと12mあるので、置いておく場所が日本では一番問題なんですよね。
6人乗りは、重さも200キロありますからね。

●この一人乗りはどの位の重さですか?
 これは軽いですよ。20キロ位ですから。簡単に担げますよ。


デュークさんと一人乗りのアウトリガカヌー(黄色の部分がアウトリガー)

●これで、八丈島から江ノ島までどのくらいで行く予定ですか?
 三宅まで11時間の予定で、その後、江ノ島までが14時間位の予定です。

●このプロジェクトをはじめたきっかけは、どんなことなんですか? 
 ハワイの「ホクレア号」という船がきっかけです。
ホクレアとは「幸せの星」の意味で、実際に星の名前なんですけど、古代、
6千年とか7千年とか前に、タヒチとハワイの人々が船で行き来していた時代に、
タヒチの人がハワイを目指して漕いで行くときに、その星を目指していけば、
必ずその下にハワイが現れるというホクレアという目印の星があるんです。

●その時代に、タヒチとハワイが船で行き来をしていたという
文献かなにか残ってるんですか?

 そう、そうなんですよ!それが残ってないんですよ。残ってないから…
ちょっと話が長くなってもいいですか?

●大丈夫ですよ。お聞きしたいです。
 その「ホクレア号」が造られたのは1975年なんです。
最初の航海は1976年(ハワイ→タヒチ)なんですけど、
それを作ったきっかけというのは、もともとハワイにはハワイ王国があって、
言葉はハワイ語があったんですけど、文章というのがなくて、
フラの歌とか、フラの踊りの中にいろんな意味があるんですね。
それと「チャント」といって、唱える言葉がたくさんあるんですけど、
その中で、どうやら自分達の祖先は、南の島からハワイを目がけてきた民だという
歌が残ってるんです。星を目印に渡って来たんだよ、という歌があるんです。
でも、なんの証拠もない。同時に白人達は、ハワイアンはとても野蛮で、
彼らは遭難してどこからか流れ着いた人達だという考えを持っていた。
それはハワイの人達にとったらとても侮辱的なことです。
違う、自分達の歌の中では、自分達にはとても航海能力があって、
ある場所からここへ移ってきたのだという歌が残っているのだから、
それを証明したいということで、昔からハワイの石に描かれてある絵を基にした
船を作ったんですよ。彼らはそれをカヌーと呼ぶんですが、
カヌーを2つ連ねて間に板を渡して帆を張ったイカダのような船です。

●木製ですか?
 木製を作ろうとしたんですね。でも、1975年のその時代には、
もうそれだけ大きな船体を作るだけの大きな木がハワイには残ってなかったんですよ。
昔はあったんですよ。コアウッドといって、樫の木のような木です。
それで仕方なく、船体の部分だけはFRPという強化プラスチックで作ったんです。
あとは全部木とコットンで、ネジや釘は一切使わず、昔のやり方で作ったんです。

●それでタヒチまで航海をしたんですか?
 行こうとしたんですよ。ところが、その時代、1976年の時代で、
すでにハワイはアメリカの文明に侵されていて、星を見て航海できる人は
ハワイにはもう誰もいなかったんですよ。
それで、いろんな人に聞いてみたら、ミクロネシアのサタワル島という小さな島に、
昔の航海術で海に出てる人がいるという話を聞きつけたんです。
その人の名は、マウ・ピアイグという人で、いまでも生存してますが、
ハワイの人たちはマウ・ピアイグに会いに、サタワル島まで行ったんです。
マウピアイグの家は代々ナビゲーター、航海士の家でした。
星の歌を覚えていて、星を見ながらその歌のとおりに行けば、
どこに行くというのを身体の中に全部覚えている人なんです。
「ウェイファウンダー」といいますが、夜は星を、昼間は太陽の位置と
鳥や波のうねりを見て、自然からのサインだけを頼りに航海する能力がある人です。
それで、マウ・ピアイグを連れて来て、「ホクレア号」に乗ってもらって、
タヒチまでの約6000キロの航海を予定通り31日でぴったり行ったんですよ。



●それはすごいですね!
 GPSも海図も六分儀も何も持たないで、ただその人の能力だけで行ったんです。
それは、ハワイの人達にとったらすごいことなんです。
「ハワイアンルネッサンス」というんですが、ハワイの人達はこのことによって
自分達の誇りとアイデンティティを取り戻して、それまでアメリカの文化や宗教に
よって妨げられていた自分達の文化も取り戻していったんです。
ところが、マウ・ピアイグは、航海中のハワイアンと白人との確執に嫌気がさして、
タヒチに着くと身を隠してしまった。マウ・ピアイグがいないとハワイへ帰れなくて、
帰りは普通の航海術で帰ってきたことに、ハワイの人々はショックを受けた。
それで、そのときに船に乗っていたナイノワ・トンプソンという人が、
現在54歳ぐらいの人ですが、ハワイのヒーローみたいな人です。
ハワイのビショップミュージアムにあるプラネタリウムに毎日通って、
そこですべての時間のすべての星を記憶したんです。

●その人は、それまでなにをしていた人なんですか?
 タクシードライバーをしたり、カヌーを漕いだり、普通の人ですよ。
それから、マウ・ピアイグを招いてマウ・ピアイグにトレーニングしてもらって、
どうやってタヒチまで行くかを勉強して、すべて記憶したんです。
何年か後に、今度はナイノワ・トンプソンがナビゲーターをしてタヒチまで行き、
タヒチからハワイまで帰ってきました。その後はニュージーランドへ行ったり、
ポリネシアトライアングルを世界を7周するぐらい「ホクレア号」は航海してるんです。
すべて星を頼りにそのナビゲーションのやり方でです。

●素晴らしいですね。
 ナイノワ・トンプソンは、日系人に育てられたんです。
それで、日本人に尊敬の念を持っています。
昔、ハワイに移民した日本人とハワイアンは共につらい時代を過ごしたらしいです。
だから、ナイノワ・トンプソンは、「ホクレア号」でいつか日本に行きたいと
ずっと思っていたんですね。それをやっと3年前に果たしたんですよ。

●日本へ来たんですね。
 ハワイから、ヤップ島とかミクロネシアの島を経由して、沖縄の糸満に着いて、
沖縄→熊本→長崎→福岡→広島→宇和島→横浜まで行ったんですよ。
それは、アロハスピリットを日本人に伝えたいという想いで、
移民がたくさん出た港を訪ねて行ったんですね。
その日本での航海に僕は参加したんです。

●え!?そうなんですね?
 僕は長崎出身なので、長崎にホクレアを呼ぼうと思って一生懸命動いていて、
沖縄まで迎えに行ったときに、ナビゲーターから一緒に船に乗るようにいわれて、
そこからクルーになったんです。それで横浜までの旅を彼らと過ごしたんです。

●何人ぐらい乗ってたんですか?
 それはハワイからずっと同じ人が乗ってきたわけではなくて、
いろんな島でいろんな人が交代交代で乗ってきたんです。
一度に乗れるのは12人位です。

●手漕ぎ?
 セーリングです。帆で動くんです。風を頼りに帆を上げて。



 それで、僕は3ヶ月ハワイアンと過ごして、その中で、僕は僕なりにずっと
ホクレアがなぜ日本に来たのかを考えていたんです。
それは、単にアロハスピリットを伝えるためとか、移民の港に挨拶をするため
だけじゃないだろうと。もっともっといろんな意味があるだろうと考えていたんです。
彼らはしきりに「デューク、これははじまりだよ」というんです。
彼らと話をする中で、日本は海に囲まれているのに、だれも海の方を見てない、
森と海はコンクリートで遮断されている、いたるところで海に鳥居があったり、
神社がったあったりするのに、海を大切にしてないのはおかしいといわれたりした。
そして、クルーの中には、自分達の祖先は日本のこの近海から来たんじゃないか、
といった人もいたんですよ。ハワイアンの祖先は日本人じゃないかと。
日本はたしかに歴史を遡ってみると鎖国以来、海に出なくなってしまったけど、
もっともっと遡れば、いろんな文献から、日本人はどんどん海に出て行った
素晴らしい海洋民族であったことがわかる。
「海を渡った縄文人」という本があるんですが、あれは仮説だけれども、
日本人は南アメリカとか、いたるところへ星を頼りに旅をしていたと書かれてある。
ホクレアが示したハワイとタヒチよりももっと遠い距離をもっと昔に、
ヨーロッパの大航海時代よりも前に、日本人は危険をかえりみずに航海した
民族だというその仮説を僕は信じたというか、すごいなと思ったんです。
これは、現代の子ども達とか、現代の日本人にもっともっと知ってもらうべきだと、
伝えるべきだと思ったんです。
そして、沖縄へ行きサバニという船に乗ったりしているうちに、
この「OCEAN LEGEND」をやるべきだというのが僕の中ででてきたんです。

●なるほど、よくわかりました。
 最初は、一人で漕ぐとか、大島から立って漕ぐとかいうのはなかったんですね。
僕は、小笠原へみんなで漕いで行ったらいいんじゃないかと思ったんですね。
小笠原は身近であって遠い。東京都でもあるし、みんなに知ってもらうためには、
いいんじゃないかと。1.200キロ位ですが、漕いで行くことはできるだろうと。
昔の人は、きっと行っただろうと思ったんです。
でも、それをやるには仲間が必要だし、お金も船も必要だし、
芸能人でも有名人でもないただのデュークがこれをやるには、
本気でやろうと思ってるということをみんなに知ってもらう必要がある。
それで、ファーストステージとセカンドステージを考えたんです。

●とてもよくわかりました。
多くの協力者が得られるといいですね。
八丈島からのセカンドステージをいい条件で出港されて、
無事にプロジェクトが成功することを心からお祈りしております。

 インタビューしていただき、ありがとうございます。
ブログを通して多くの方々にこのプロジェクトを知っていただけることを
心から願っています。八丈島では多くの協力者を得られて本当に感謝しています。

__
ホクレア号のお話は、まるで冒険小説を聞いてるように面白かったです。
本当はもっと他にもお聞きしたのですが、全部掲載できずごめんなさい。
でも、このプロジェクトの意味はよくお分かりになったのではと思います。
さらにこのプロジェクトをお知りになりたい方は、どうぞHPをご覧くださいね。

◎「OCEAN LEGEND」HP
◎「Ocean Legend. net」blog デューク金子さんの近況はこちらから

尚、編集に時間かかりました。
本当は昨日の夜に掲載の予定でしたが、遅れましたことをお詫びいたします。
コメント (2)
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浅沼このみさん@八丈島を彩る人々(7)

2009年10月04日 16時05分14秒 | インタビュー
本日は、お待たせのミス八丈島インタビューです!

本年度のミス八丈島、三根在住の浅沼このみさんのお母様は、
わたしよりも4歳年下と聞いて衝撃を受けた海風おねいさんですが、
なんとか気持ちを立て直してインタビューに挑みました。

「緊張しなくて大丈夫よ♪」と何度もいったのですが、
ハートのドキドキがこちらまで伝わってくるような、
とってもピュアなこのみちゃんのインタビューをご覧ください。


第37回ミス八丈島 浅沼このみさん 昭和61年1月16日生まれ(23歳)

●ミス八丈島おめでとうございます!
ミス八丈島の発表があったのが7月末で、あれからまだ2ヶ月しか経ってませんが、
ミス八丈島のお仕事はもうなにかされましたか?

 ありがとうございます。
「ぱしふぃっくびーなす」「ふじ丸」 寄港セレモニーで、花束贈呈をしました。

●花束はどんな花束ですか?島の花?
 !?…緊張して、どんな花だか見ている余裕がありませんでしたね。(笑)

●黄八丈の着物を着て?あれは、役場が貸してくれるそうですね?
 はい。黄八丈の着物を役場から貸していただいて着て行きました。 

●年間スケジュールは役場からもういただいていますか?
 はい。昨年のミス八丈島のお仕事の記録と、島外にいつ行くかなどの
大まかなスケジュールはいただいています。

●年内には、なにかミス八丈島のお仕事は入っていますか?
 はい。10月も11月も…セレモニーや島外の物産展などです。

●物産展は、どんな?
 板橋で、観光協会の物産展のお手伝いです。

●ミス八丈島の一番大きな仕事は、春のフリージアキャラバンでしょうか?
 そうです。日数的にも一番長くて、3月に4~5日間、東京で、国関係、都関係、
新聞社とかテレビ局とか、いろんなところを回ることになっています。

●まだ短い間ですが、ミス八丈島のお仕事で大変だと思うことはありませんか?
 着物を…自分で着なければいけないので、練習してるんですけど、
慣れてないので、それが大変です。東京でのお仕事のときに、
着せてくれる人がいないので、それで自分で着れるように勉強中です。 


ほわいとはうすにて 10月1日撮影

●ミス八丈島は、選定委員会があって決められるそうですが、
最初に選ばれたことを知らされたのはいつですか?

 6月頃ですね。役場の方と婦人会の方が家に来られて、
「やりませんか?」みたいなかんじでした。びっくりしましたね。

●うれしかった?それとも、困った?
 びっくりしましたけど、うれしかったですね、ちょっと。(笑)

●周囲の反応はどうでしたか?
 ときどき、図書館のお客さんからいわれます。

●経歴をお聞きしてもいいですか?八丈高校を卒業されたんですか?
 はい。八丈高校を卒業して、東京の和菓子屋さんで1年だけ販売をしてました。
それから島に帰ってきて5年ぐらいになります。ずっと図書館で働いてます。

●島に帰ってきたのは?
 なんかやっぱり…島の方が好きだからです。

●島のどんなところが好きですか?
 わたしがのんびりしてるので、島はのんびりしていて、
時間がゆったり流れているかんじが好きです。
緑がたくさんあって、星もきれいに見えるところがいいですね。

●ミス八丈のお仕事で聞かれることもあるかと思いますが、
八丈島のおすすめスポットを教えていただけませんか?

 夕陽を見に行くのが好きで、南原によく見に行きます。
南原の夕陽がおすすめです。

●島のおすすめの食べ物はなんですか?
(まるで来るべき日に備えた練習のようになってます)
てか!島の食べ物食べれる?ブドとか、食べられる?

 食べれます!…でも、食べれるのと食べられないのがある。(笑)

●やっぱり?作り方で?(笑)
 あの、シーチキンとか入ってるやつは食べれるんですけど、
海の香りがすごいするのは、ちょっと苦手です。

●島の食べ物で好きなものはありますか?
 クサヤとかよく食べますよ。
家で、もらってきたクサヤとか、よく食べてます。 


笑顔のかわいいこのみちゃん♪

●図書館のお仕事についても聞かせてくださいね。
図書館には、毎日どのくらいの人が来てるんですか?

 多いときは150人ぐらい、少ないときは50人来ない日もあります。

●意外と多いですね!最近は、どんな本が人気がありますか?
 いまだったら、「1Q84」 とか人気ですね。あと、東野圭吾さんとか。

●あぁ、やっぱりね。
図書館で働いてるのは、本が好きだからですか?

 いや、そういうわけでも…(笑)本はたまに読む程度です。

●お仕事がお休みのときには、どんなことをしてますか?
 休みの日は、ドライブをしたり、家ではインターネットやテレビを見たり。

●インターネットはどんなことを?ブログやmixiはやってますか?
 ブログはやってませんけど、mixiはやってます。

●趣味はテニスと聞いてますが?
 はい。毎週1回、コミュニティセンターでテニスをやってるんですけど、
最近ちょっと用事が多くなって、行けないことが多くなりました。

●あの、ちなみに、彼氏はいるんでしょうか?
 あ、それはノーコメントでお願いします。(笑)

__
23歳!若い!初々しくて透明感のある素敵なお嬢さんでした。
写真より、実物の方がずっと素敵です。
最初に図書館でお会いしたときに、ドキッとするほど「かわいい」と思いました。
三根にお住まいですが、お母様と一緒によく「あさぬま」で夕飯のお買物を
してくださるそうです。ありがとうございます。
これからミス八丈島として、八丈島のPR活動がんばってくださいね!

また、このインタビューには、八丈町産業観光課の小川課長が同行されて、
新人アイドルを売り出すマネージャーのように、また父親のように、
温かく細々と気を配られていました。小川課長、ありがとうございました。
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奥山日出和さん@八丈島を彩る人々(6)

2009年09月20日 14時57分16秒 | インタビュー
明日は敬老の日ですから、本日は島のお元気なお年寄りを代表して、
大賀郷在住の奥山日出和さん(77歳)のインタビューをお届けします。

「よされ会」八丈太鼓の奥山善男くんのお父様、
いろんな会の代表や理事・役員をなさっていて、
カレンダーは予定でぎっしり、月に10日は飲み会に出席されているという、
スーパーお元気なおじいちゃん、かつ、大賀郷の有名人です。


奥山日出和さん 昭和6年12月10日生まれ ご自宅にて

●今年の夏の花火大会には、喜寿のお祝いと結婚50周年のお祝いの
2本の花火を打ち上げられたそうですね。おめでとうございます!

 お宅のお父さんとは1歳違いで、疎開があったものだから、
一緒に中学3年を昔の大賀郷公会堂で勉強しましたよ。
疎開から帰ってきて、そのときにはじめての中学校ができたから、
その頃は三根も一緒で富士中だったけど、島の中学の一期生だったんだよ。

●そうでしたか。島の中学校の一期生なんですね!
 そうそう、その後に中学校が建って、そしたら今度は公会堂が高校になったから、
また公会堂へ通って、高校へ行ったわけさ。
急ごしらえだから、机は長テーブルで、そこに3、4人が腰かけて勉強したんだから。

●おじさんは、疎開はどちらへいらっしゃったんですか?
 おまえ、親父から聞いてないの?そのくらいちゃんと聞いとけよ~

●あ、すみません!( ̄▽ ̄;)!! 聞いたけど、どこだか忘れました。
 疎開は、第一疎開と第二疎開があって、第一疎開は6000人ぐらいが行ったんだから。
最初、6月(昭和19年)に行った人たちは、東京のそこら中へ行ったの。
で、俺らは第二疎開で同じ年の9月頃に、200人ぐらいが板橋の養育院へ行って、
硫黄島の人たちが先に来ていた。そこで行き先を探して、東村山の家政国民学校へ
入ったんだ。軍事工場へ行って働いたり、農家へ行って農業をしたり。
それから、翌年の終戦の年の3月に、第三、第四の疎開があって、
その人たちは軽井沢や長野へ行ったんだ。

●小さくても働いていたんですね。(おじさん10歳の頃)
 当時、八丈島や伊豆七島は乳牛をけっこう養ってたから、
みんなが疎開してしまうと牛乳が東京へ行かなくて、
国の命令で三多摩で乳牛を養えということだった。
そこらの農家は豚は養ったことがあるけど牛は養ったことがないんだから、
しょうがないから豚小屋で雌牛を養うわけだけど、しぼれもしないよ。
俺らは八丈でしぼれるんだから、先生だよ。
朝晩、牛乳をしぼって大変だったけど、食べ物には困らなかった。
農家の先生なんだから。他の人たちは着物を売ったりして大変だったけど、
俺らは食糧には一度も困らなかった。いいもんだね~芸は身を助けるってわけだ。
小さな頃から乳しぼりをして、それが役をしたわけだ。

●おじさんは、なんで乳しぼりができたんですか?
 だって八丈では学校で教えたんだから、俺は小学校2年生から乳をしぼってるよ。
大正時代に国から補助金が出て、ここらの周りには牛小屋がたくさんできた。
うちは左官屋だったから牛は飼わなかったけど、土地が広いから牛の売買をする人に
土地を貸して、牛がいっぱいいたんだよ。俺が小学生になったら、牛飼いのおじさんが
面白がって俺に牛を1頭あげるから飼ってみろといった。
俺は嬉しくてもらったけど、さ~大変だ!それで小学生から乳しぼりだよ。(笑)

●昔は、農事試験場もすぐそこにありましたね。
 そうそう。戦争で男がどんどん出て行くから、小学校の高学年になると、
女の子たちに学校で乳しぼりを教えて、うちにも女の子が乳しぼりを習いに来たよ。


身振り手振りで戦時中の様子を話してくださる日出和さん

●戦争中の島の様子はどんなでしたか?
 兵隊さんがいっぱいいたよ。
終戦間際になるとでたらめで、輸送船がここを通るときに、
「間違えました」と、みんなそこらの海岸へやし上げちゃうんだから。
ここから先へ行くと潜水艦にみんな沈められちゃうから、
サイパン、テニアンと名札の付いた船がみんな八丈へやし上げて、
兵隊から荷物からみんな八丈へ降りるもんだから、島は兵隊は多くなるわ、
荷物は多くなるわで、兵隊は2万も3万も八丈にはいらないんだけど、
八丈島の浜は、そういう輸送船のインチキ突っ込みでいっぱいだったんだよ。

●そうでしたか…
 負けるときになると、人間そうなるんだよ。
ここから先へ行ったら死ぬんだから。

●死にたくないですよね。
 そうだよ。だから、八丈へやし上げて、ここで助かった人がいっぱいいたんだじゃ。
すると、ここ(いなば)は広場だから、輸送するはずだった荷物がいっぱい上がって、
食糧からなにからいっぱいあったんだよ。

●では、食糧には困らなかったんですか?
 いや、だからって、そう簡単に配給はしないよ。
戦争がいつ終わるかわからないんだから、少ーしずつ配給をするんだよ。
終戦になった時に、これならもう少し食べさせればよかったと思ったかもしれないけど、
それまでは締めてかからなきゃいけなんいんだからさ。

●戦後の八丈島はどんなでしたか?
 疎開した人たちが東京で焼け出されたりして、夫婦の片方が八丈だと、
こんどはみんな八丈へ帰ってきたわけだから、八丈の人口はどんどん増えた。
だから、そのときには島中の木を切って、どこもかしこも畑だよ。畑、畑、畑。
三原の山は切らないところはないくらい木を切ったろう。
てっぺんの絶壁のいまでは人も行かないようなところまで木を切ったよ。

●炭を焼いたからですか?
 炭も焼いたけど、塩もなかったから、どんどん木を切って薪を燃して、塩も焼いた。
浜で海水を炊いて塩をこしらえたわけ。八丈富士の大穴の中でも炭を焼いたりしたし。

●それだけ人口が多かったてことなんですね。
 そうそう。その頃は貧しくて食えないといっても、みんながそうなんだから。
みんなが変わらないんだじゃ。いまみたいに食べものがなんでも届く時代じゃないし、
カンモを作って食べたり、へんごを食べたりするのが当たり前の時代でね。

●おじさんとおばさんは、どこで知り合ったんですか?
 それはもっと後の話で、昭和26年に上京して、三鷹で左官屋の修行をしたんだ。
それまで家で働いたり(左官業)青年団をやったりで、高校の夜間部へ行ってたから、
3年半夜間部へ通って、もう少しで卒業というときに、先方の都合で
すぐに行かなきゃいけなくて、あちらの高校へ入れてもらう約束で行ったけど、
高校が入れてくれなかった。こんちくしょうと思ったけど、仕方がないからね。
そこで6年間修業して、島へ帰ってきた。

●あちらではどんな生活でしたか?
 ちょうどテレビがはじまった頃でね。街頭テレビで力道山や相撲をみんなで見た頃。
仕事をサボって見たりした。(笑)力道山が出るなんていうと食堂は人でいっぱいで、
食堂の営業ができないから、券を売るんだよ。後で食べてくれってわけでさ。
その頃にはまだ車はない、バイクはないから、自転車で東京中を走り回って、
後楽園なんかはよく行ったから、いまでも詳しいよ。
あちらでは苦労もしたけど、それが帰って来てからの商売の力になった。
帰ってきてすぐから、ここで店を開いて人を雇って、「奥山左官店」をはじめられた。

●その頃は、仕事がいっぱいあったでしょう?
 うん、いっぱいあった。だから儲かった。
だけど左官屋は下請けだから、元請けばかりに儲けられるのもしゃくだから、
それで建築の方もはじめて、俺も請負をはじめたんだ。
その頃に、見合い写真で結婚して、おっかない奥さんをもらって、
50年間こうして苦労しているわけですよ。(笑)

●なにを仰る!素敵なかわいい奥さんで!ね~おばさん♪
 おばさん:こごんどう話をして、また酒がおいしけだぁよ。(笑)
(お隣でうなずいて話を聞いていらっしゃったおばさんが笑っておられました)


昔を回想される日出和さん

●現在はお仕事は引退されて、いろんな役員をされてますよね?
 青少年対策協議会の第一委員長、老人クラブの会長(=八丈老連の理事)、
大賀郷の振興委員の代表、部落長を40~50年、ごみ処理とか汚泥処理の委員会とか、
いろんな委員会がいっぱいあるんだな~商工会の理事は今年息子に譲ったけど、
飲み会だけは俺が行くの。(笑)大賀郷中学校の後援会長もやってる。
余計なしゃべりをして、「作りましょう」と、俺がいったものだから、
いまでもずーと俺が会長をやってる。口は災いのもとでね。(笑)
飛魚会(病院勤務の方々の懇親会)、交通安全協会と懇話会、
いろいろあるんだな。それで飲み会が年中あるんだよ。

●おじさんは、薬師様も守ってらっしゃるでしょう?
 薬師祭りのときには、ここで前日に8割餅をついて、残り2割を当日に薬師様でつく。
もう何十年だか忘れるくらいやっている。

●薬師祭りは、全部振る舞いご馳走ですが、予算はどこから出てるんですか?
 そこらから拾ってくるんだじゃ~(笑)

●この辺の方々の寄付?
 うん。いまはもらっては歩かない。きただけでやってるけどね。
ほんとは最初は、あそこで働く人のために芋とかおにぎりとか作ってたんだけど、
みんなちょうだいっていうから。(笑)みんな、買うよりタダのが面白いだろう?
薬師様の水は菊池旅館の山から出てる水だけど、昔は東京都にあげてたの。
4~5年前に権利が持ち主に返って、持ち主と話して、いまは権利は薬師様にある。

●おじさんが昔から島を見ていて、最近の八丈島はどう思われますか?
 じいさんばあさんが一緒だと、島言葉を聞くだろうけど、
いまは、じいさんばあさんと暮さないから、島言葉がわからないだろう?
仕方がないんだろうけど、島言葉ってのは、女の子なんかが話すと、とっても
いい味があるんだけどね~可愛くってさ。残念ながら、いまはそういうのがない。
だから、昔の島のかんじがぜんぜん感じられなくなったね。

●そうですね。島言葉でしゃべって島のムードですものね。
 昔は高校生なんかも島言葉でしゃべって、ほんとに可愛かったんだよね。
そういうものが無くなっていくのは、ものすごく残念だぁの。
それと、若い人の働くところがないということですよね。こないだも
「もっと老人ホームを作って、そこで若い人を働かせれば?」と話したのだけどね。
ここは空気はいいし、八丈はいいとこなんだもの、どんどんそういう施設を作って、
都会から老人を呼んだらいいと思うけどね。

●いろいろ聞かせていただき、ありがとうございました。
最後に、おじさんの健康の秘訣はなんですか?

 今年の2月に腰の手術をして人工の骨が入ってるから、温泉へ行ってリハビリしてる。

●腰の調子が悪くても、そんなにいろいろ活動されてる、その気力はどこから?
畑もされてて、自然のおいしいものをずっと食べてるからですか?

 俺はいつも飴玉でもなんでも、そこらに転がしておいて子どもに食べさせろという。
そうするとバイ菌でもなんでも食べて、抵抗する力がつくから、強くなるんだよ。
最近の親は、やれ手を洗え、ここへ落ちても、汚いと食べさせない。
落っことして、かき混ぜて食わせろいうんだよ。
いまの親は、あれもだめ、これもだめ、だから子どもが丈夫に育たないよ。

*薬師堂の湧き水
__
長年生きてきた方の仰ることは説得力があります。
戦時中の話から、興味深いお話が次々飛び出して、話に惹き込まれて、
今回もまた長いインタビュー記事になりました。(これでも半分切ってます)
昔の青年団のお話なども面白いので、ほんとは全部載せたいのですけどね。
日出和おじさん、いいお話をたくさんありがとうございました。
どうぞこれからもお元気で、島の若い者たちにいろいろと教えてくださいね。
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