何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

回復力

2011-08-09 22:27:10 | Book Reviews
「回復力 失敗からの復活 畑村洋太郎・著、講談社現代新書1979、2009年1月20日

p.5 「回復力を信じる」といっても、そのためには多少のコツが必要です。そのコツとは、「失敗との付き合い方」と言い換えてもいいかもしれません。

p.28-9 失敗した人や失敗のリスクを負う人をこのような形で必要以上に追い込まないようにするには、根本的には、失敗に対する社会の認識を変えるしかないのです。
 だから一方では、失敗した人や失敗のリスクを負う人が潰されないようにするための取り組みを、社会や組織として真剣に行わなければならないと思っています。
 そして、その前提には、人は誰でも失敗するし、そうした場合は、誰でもうつなどの精神的ダメージを受ける可能性があるという認識が必要なのです。だからこそ、大きな失敗をした人に対しては、精神的なケアを含む周囲のサポートが重要なのです。

p.33 失敗をしたら、それをすぐにカバーすることで周りからの信頼を取り戻したくなります。ところが、失敗直後はダメージを受けてエネルギーが失われているので、なかなかうまくいきません。それどころか、焦っているうえに頭が働いてくれないので、むしろ間違った行動をすることで、ダメージをさらに大きくしてしまうことのほうが多いのです。
 このような自滅パターンにはまり込んだ人には、ある共通点があります。それは冒頭で述べた「人は弱い」という認識が欠けていることです。

p.37-8 失敗をした人に向かって、よく「もっと頑張れ」と声をかける人がいます。その人はよかれと思ってやっているようですが、これはほとんどの場合、相手には励ましどころかたいへんな苦痛になっています。
 失敗した人は、心の中では「いまの状況に負けずに頑張りたい」と思っています。しかし、そう思っていてもエネルギーが枯渇しているのでなかなか行動することができません。そのときに周りがかける「もっと頑張れ」という言葉は、「もっとエネルギーを出せ」と言っているのと同じです。つまり、エネルギーがないのにエネルギーを出すことを強いるのです。これでは励ますどころか、逆に失敗した人を追い込むことにしかなりません。

p.38 エネルギーを失ったときには、人は失敗に立ち向かうことはできません。それはどんなに強い人でも同じです。そのことを理解しないと、失敗後の対処をうまく行うことはできないのです。これは失敗を考えるときの大前提です。

p.40 いずれにしても、エネルギーが戻ってくると人は必ず自発的に行動したくなります。誰にでもその時期は必ずやって来るのです。多くの失敗者と接するなかで、私はそのことを確信するようになりました。
 だから、自分の「回復力」を信じて、その瞬間をひたすら待つのが失敗への最高の対処法なのです。

p.55 この「想定外」も大きくふたつに分けられます。起こってしまった現象が、まったくの想定外であるということがそのひとつです。しかし多くのケースでは、一応は想定していたものの、そんなことが実際に起こるということを計算に入れていなかったのです。
 つまり、知識として知っていたり、頭の中では「そうしたことが起こるかもしれない」と考えているのに、それでも失敗してしまうのです。この原因は一言で言うと、「油断」です。

p.60-1 何か失敗が起こると、必ずこの“正論”を振りかざして、失敗した人を責め立てる人が現れます。「もっと注意すれば防げた」とか、「管理の問題云々」というのがそれです。
 しかし、こうした正論の通りに行動したところで、実際には失敗が完全に避けられることはほとんどありません。なぜなら、こういう場合に使われる正論の多くは、きちんとした分析によって導かれたものではなく、たんなる建前論になっているからです。正論とは名ばかりで、その人の主張を正当化するための詭弁であることもあります。

p.70 明らかに自分のせいで失敗した場合、人は目の前で起こっていることが失敗であると認めたくないので、目の前で起こっている悪い結果をなるべく見ないようにします。そして、周りから何も言われなければ、何事もなかったかのようにそのままやり過ごそうとします。
 失敗した人がこのような曖昧な態度を取りたがるのは、失敗を認めた瞬間に、前章でも説明したように、辛くてたいへんな思いをしなければならないからです。背負わなければならない荷物も出てきます。だから可能であれば、何事もなかったかのように振る舞おうとします。これは一種の自己防衛反応です。 #RM

p.71-2 そもそも失敗を失敗として認めないうちは、そこで何が起こっているかを正しく理解できません。悪い現象が起こっていてもすぐに「そんなはずはない」と否定してしまうし、自分が悪い状態にあることを自覚しても、原因についてはせいぜい「自分は運が悪かっただけなんだ」くらいにしか考えられないからです。これでは失敗後の対処がうまくできるはずもありません。
 しかし、不思議なもので、「これは失敗なんだ」と自分の失敗を認めることができた瞬間から、状況が一変します。

p.72 裏を返せば、失敗を失敗と認めないうちは、失敗後の対処など考えることができないし、悪い現象を前にして何ひとつ手を打つことができないのです。だから失敗にうまく対処するには、自分の失敗を認めることが大切な第一歩なのです。

p.74 失敗や失敗した人の責任を過大に評価して責め立てることには、結果として社会に大きなマイナス効果をもたらす危険性があるのです。

p.75-6 「自分の評価」と「他人の評価」、それぞれに過小評価や過大評価になりやすいという欠点があるので、どちらの評価がいいかということは一階には言えません。
 それよりも重要なのは、その評価が何をよりどころにしているかです。そうしたとき、ぶれることのない「絶対基準」があると、正しい失敗の評価が行えます。

p.76-7 それでは失敗を見るときの「絶対基準」は、具体的にどのようなものでしょうか。これは古臭い言い方かもしれませんが、結局は「お天道様に向かって堂々と話せるかどうか」ということではないかと私は考えています。

p.78-9 「責任追及や関係者の利害と切り離したところで事故の調査を行わないと、後本当の原因は明らかにできない」

p.80-2 (失敗を評価する)その中でもとくに重要なのは「物理的視点」「経済的視点」「社会的視点」「倫理的視点」です。
 物理的視点というのは、目の前でどのようなことが起こっているかをありのままに見ることです。
 経済的視点は、いわば損得勘定で失敗を見る視点です。
 社会的視点は、具体的には「社会の中でその失敗がどう見られているか」とか「社会がその失敗にどう反応して動いているか」などを見ることをいいます。
 倫理的視点は、人としてやらなければいけないことがきちんとできているかどうかを判断するためのものです。

p.85 大きな失敗は即企業の存亡につながるということを考えると、安全性と利益は決して対立するものではないと思います。

p.85-6 いくつかの相反するもののどちらかを選択しなければならない状況では、どうしても判断ミスが起こりやすくなります。加えて組織の中では、それまでの活動を通じて培ってきた独自の文化の影響を受けやすいという問題があります。そのためすべての活動において組織独特の基準の影響が強く、失敗や失敗原因の評価についてもこの基準によって行われています。

p.90 仮に自分の正当性を主張できたとしても、そのように動くことがトータルとしてその人にとって本当に得になるとは限りません。これは会社などの組織の中にいるときによく起こることです。とくに、独特の価値観に凝り固まった運営が行われているような組織では、一般的な常識が通じないことがよくあります。

p.91-2 私は、失敗後の対処は“損得勘定”をしてから行えばいいと考えています。もちろん、その場合でも失敗をきちんと評価して、何が起こっているかを正確につかんでおかなければなりません。
 そのうえで謝ったほうが自分に得になるなら、理不尽に思えても頭を下げればいいし、そうでなければ開き直るというふうに、自分にとって最も得になる行動をしたほうがいいと、私は思います。
 真面目な人、プライドの高い人は、おそらく理不尽な場面では、自分の正当性を主張したくなるでしょう。それは悪いことではありませんが、その場合はどこまでその正当性を押し通すのかをあらかじめ考えておく必要があります。頑張って正当性を押し通したところで報われることのほうが少ない、たいていはいびつな論理に負けて挫折することになります。その挫折の後に自分に何が起こるかということを含めてあらかじめ想定し、妥協点を探しておくのです。
 それをせずに感情や正義感の赴くままに突っ走ると、回復不能の状態に追い込まれてしまいます。それよりも自分の被害が一番小さくて済む方法を選択し、後でリベンジすることを考えるべきです。ちなみに、そのような行動指針を私は「被害最小の原理」と呼んでいます。

p.93-4 以前に比べるとだいぶ変化がみられるとはいえ、日本ではまだまだ失敗は「悪いもの」「恥ずかしいもの」とされたり、失敗した人や組織は、「ミスをしたダメな人間・ダメな組織」として扱われます。
 概して言えるのは、失敗を隠したがる人は、世間から低く評価されることを怖れる気持ちが強いということです。失敗を見るときも、「自分がどう思うか」よりも「周りがどう見ているか」が気になります。こうういう人にとっては、自分が失敗したことを確かに知られていないのは「失敗がなかった」というのと同じです。だから失敗したことが周りにバレさえしなければ、とくに気にすることもなくそのことをやり過ごすことができたりします。

p.95 もともと失敗について検討するときには、人は、「自分は悪くない」という理由づけをどう行うかを重点的に考える傾向があります。そして、そのことばかりに気をとられているうちに、時間の経過とともに自分を正当化する理由だけが頭の中に残るのです。その一方で、失敗を招いた自分の悪い行為に関する記憶はいつの間にか消えてしまいます。その結果、頭の中ではいつの間にか自分にとって都合のよい架空の記憶へのすり替わりが起こるのです。
 こうした状態で失敗が隠蔽され続けると非常に危険です。そうでなくても「隠す」という対処には失敗を拡大再生産させるリスクがあります。それは隠すことで、失敗の原因が放置されることがよくあるからです。周りの状況は以前と同じままであるうえに、本人には自分が失敗を起こした自覚がないとなると、隠したのと同様の失敗が再発する可能性は当然高くなります。

p.98-9 失敗を起こした企業がその失敗の事実を「隠蔽」していたと見なされた場合、社会から徹底的に叩かれるというケースが目立ちます。
 一方で、私が、失敗した企業の関係者から相談を受けると、彼らの多くが「世間やマスコミは自分たちのことを誤解している」「実際以上に悪く報道されているのは納得できない」といった不満を口にします。
 確かに彼らの言っていることにも一理あります。しかし、そのように話す人には、誤解されたり不当な扱いを受けている原因が、自分たちにもあるという認識が明らかに欠けています。これでは状況を変えるのはなかなか難しいのではないでしょうか。

p.112 そのことを反省はしているものの、当時の行動を否定する気はありません。自分がしたことが間違いだったというのは、あくまでも後から考えたときの判断だからです。少なくともその時点では、自分が正しいと考えたことを一生懸命やっていました。そのこと自体は認めなければいけないと私は考えています。

p.155 社会が何を求めているかをきちんと見極め、それに順応しながら柔軟に動いていくこと、これがまさしく「コンプライアンス」の本当の意味であり目的であると私は理解しています。

p.160 社会のシステムがいままでどおりにあてにできてもできなくても、個人は個人で生きていかなければなりません。そのことを前提にしていないと、困難な状況に追い込まれたときに何もできず、結果として自分が不幸になるだけです。

p.164 本書で繰り返しているように、人の命に関わることは、何があっても最優先というのが私の持論です。そのためには杓子定規で考えてはいけません。仮に成果主義と自殺の増加に関連があるとするなら、ときにはインチキをするなどのぬるい対応が行われることがあってもいいと考えています。

p.172-3 裁判で責任がないことが明らかになったのに、それでも会社が個人に失敗の責任をかぶせるようなことを行うのは、早い話が世間を納得させるためです。本人に責任はないとはいえ、失敗の責任を追及された人が失敗後も同じ部署で同じ仕事を続けているのを知ったら、世間は「あの会社は反省していない」「また同じ失敗を繰り返すのではないか」と批判します。そのような批判をかわすために、会社は懲罰人事のような目に見える形の対策を行うのです。

p.182-3 話を伺って私は、彼らが前に進むことができない最大の原因は、愛する人の死を「無駄死にだったかもしれない」と感じさせられていることにあると思いました。それはつまり、日本航空が事故後に遺族に対してきちんとした対応をしてこなかったということにほかなりません。
 じつは日本航空は、この事故で得た教訓を一切社会に示してきませんでした。それだけでなく、その教訓が自社の安全対策に生かされている姿も、外に向かって一切見せてこなかったのです。会社の立場で考えると、事故のイメージを引きずるのはマイナスなので、事故に関する情報発信に消極的になる気持ちはわからなくもありません。日本航空に限らず、大きな事故を起こした会社はどこもそのように動きがちですが、これは遺族にしてみればたまらなく不快なことだと思います。

p.184 批判は批判として甘んじて受けつつ、事故から学んだことを生かして、より安全なものをつくり出していくというのが、事故を起こした者の社会的な責任の果たし方ではないかと私は考えています。

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