TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

tsutaju calls me

2009-08-27 | bookshelf
       講談社文庫「東洲斎写楽はもういない」1993年第1刷発行

ちょっと買い物があって、遠い駅まで歩いて行く途中の交差点で信号待ちをしていた時、道路の向こう側にある古本屋の看板を何気なく見ました。
「つたや書店」。アルファベット文字表記の大手書店ではありません。
その交差点を通っても、いままで気にも留めなかった書店名も、今の私にとっては何か因縁めいたものを感じて、立ち寄ることにしました。

店先には、超廉価本30~300円の棚が価格で3段階に分けられたラックにぶち込んであります。文庫、ハードカバーから美術カタログ、雑誌類まで雑多な中から掘り出し物でもあらんかと、ざっと背表紙に目を走らせ…と私の目は走らないうちに止まってしまいました。視線の先には「東洲斎写楽」の文字が。
こんなところに写楽本が。著者は聞いた事もない名前で、紹介がどこにもされていないし、さわりを読んだら何だかいかがわしそうな感じだったので、どうせ面白おかしく書いてある本だろうと思ってラックに戻しました。

イースター島の謎とかムー大陸の謎とか、ミステリー本を選ぶときはその著者がどういう人物であるかということが、私にとっては重要です。
どこかの雑誌記者とかフリーのライターとか、とにかく原稿料欲しさに売れる本を書くためにセンセーショナルに書き立てて終わっている無責任な本が数多く存在するからです。これらは都市伝説とおんなじで、根も葉もない虚構が実像化され、それによって真実が捻じ曲げられてしまい、遂にはまことしやかに現実として受け容れられてしまう可能性が懸念されます。徳川埋蔵金のように笑って終わるものなら罪はないでしょうが。

さて、私の見つけた「東洲斎写楽はもういない」という文庫本。写楽の謎解き本な訳ですが、共同執筆で挙げられている人物の紹介がない上、1人は匿名です。
本の中で2人の身分・職業が推測できるような記述がありはしますが、匿名の人物は正体を明かしたくないという希望があり最後まで謎です。ただ、両人が正式な学者や作家でないことは確かなようでした。果たしてこんな本を読んだところで、どうなるんだろうか?
やっぱやめよう。

と帰りかけたが、ふと、この書店の「つたや」とそこでたまたま見つけた「写楽本」、なんか蔦屋重三郎が私に語りかけてるみたいな気がして(実際写楽関係なので蔦重や十返舎一九の事も書いてある)、再度手に取りました。
裏表紙の上に鉛筆書きで「80」。80円なら ま、いいか。

帰りの電車の中で読み始めたら、ちゃんと史料を調べて裏づけをとってから書いてあることがわかりました。「○×先生の△△という著書に□□と出ていました」というものではなく、国会図書館で蔵書を直に読み調べて事実関係に迫ったものでした。そしてその蔵書自体に事実でない事や誤りがある、ということも書かれてありました。成程、なかなか真摯です。

気をよくして帰宅後、就寝前に読み始めました。
それでも、著者のことが気になり、「あとがき」とか「解説」とかに書いてあるかもと思って後ろのページをめくりました。
そこで私はショックを受けました。
長い「あとがき」の途中のページをめくったら、次のページと文章が繋がらないのです。ページが破損してるのか?とページ数を見ても続きページになっています。
そしてまた数枚めくると前の内容の文章になっているのです。
そう、その本は「乱丁本」だったのです。

本文は大丈夫かどうかまだ解りませんが、「乱丁本」が古本屋にあるなんて珍しいと思いました。だって、買った人は出版社に送れば正本を送り返してくれる訳だし。そういう手間が面倒だったのか、そこまで読まなかったのか:笑。
とりあえず落丁でなければいいのですが。

なんだが、蔦重にからかわれた感じがして、頭の上が気になります。

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tsutakaramaru

2009-08-24 | bookshelf
              蔦屋重三郎 江戸後期の有力版元・耕書堂店主

東洲斎写楽の肉筆画が発端となって「要注目人物」となった、写楽仕掛け人・蔦屋重三郎という人物。
ネットに載ってる以外で何か参考になる(自分の発想の裏づけとなる)ものでもないかと、書籍を取り寄せて読みました。
とりあえず、苦労せずに入手できた本が、れんが書房新社から1997年に出版された「探訪 蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人」でした。著者は、学者でも作家でもなく商業界の方で、第2次世界大戦後大学へ復帰して卒論テーマに悩んでいたら父親から蔦重のことを教えられ調べたことがきっかけとなってその後何年もかかって本業とは別に独自に調査した結果というか集大成にしたものでした。

「本業ではない」というところで、詰めの甘さも多く(逃げ口上的な文章がいくつかある)読んでいるうちにイライラしてくることもありましたが、江戸時代の一商人の記録などきちんと残ってはいないので(その後江戸は幾度も大火に見舞われ家も墓も焼失している)無から調べるのは大変な作業だったろうと察します。
それでも当時の古書から蔦重がどうやって出版社を起こし大きくしていったのか、という事実関係を拾い集めまとめてありました。
欲を云えば、狂歌本などに描かれてあったという蔦重の姿も掲載して欲しかったです。

上の画像が、蔦屋重三郎本人です。
袖についている紋章(手をついてるので模様は横向きになってます)が蔦屋の紋章なので、確かです。
このロゴは「入り山形に蔦の葉」なのですが、蔦だから植物の蔦の葉をロゴにするのは不思議なことではないですが、実はこの「蔦の紋章」には代表的なものが2種類存在します。蔦の葉が丸い、ただの「蔦」、それと蔦屋のロゴに使用されているギザギザ葉の「鬼蔦」。紋章は、「三葉葵」は徳川、「割菱」は武田…というように氏を表しています。因みに私は「源氏車」なので墓石にこのマークが彫り付けてあります。
で、蔦重が自分の蔦を何故「鬼蔦」にしたんでしょうか。この件について著者は疑問を抱かなかったみたいで追求してませんでした。
ただの「蔦」は藤堂、蔦重の使用した「鬼蔦」は松平です。松平といえば田沼失脚後老中となって倹約令を発した松平定信。この時、風俗取締りを受けて蔦重は厳罰に処せられています。蔦重と松平家は血縁関係は全くないと思われますが、蔦屋が見せしめ的に処せられたのは「鬼蔦」の紋章も関係していたのかも…なんて私は勘繰ったりもしてみます。

ネットでざっと調べた後では、総じて目新しい事実が浮かび上がった訳ではなく、目的としていた「蔦重に絵を描く趣味があった」という事実はついにどこにも発見できませんでした。ただ、蔦重は「蔦唐丸(つたからまる)」という名で狂歌を詠んだり自ら執筆した本を出したりしていたそうなので、浮世絵に関しても全く描けなかったということはなかったんじゃないかな、と可能性は捨て切れません。
しかも、本の中に挙げられていた蔦唐丸の狂歌は素人がみても「ヘタ」。どうも下手の横好きだったみたいですが、それでも器用にこなす蔦重のこと、浮世絵だってヘタなりに描いたかもしれないじゃないですか~。

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a chronological table

2009-08-22 | bookshelf
遂に入手した「蔦屋重三郎」本。同時に日本史年表も買ってきた。

 その「日本史年表」は、一見中学や高校の日本史の副教材で使ったような横長の冊子だが、教材で使ってたのと違って、年代と時代と西暦と年号が並列してしていて、日本の政治・外交・経済・社会生活・文学・思想・教育・科学技術・芸能・宗教など時代に合わせて分類した事柄を並列し、最後に東洋史(中国・露)、西洋史(欧米)が見開きで表にしてあるのです。
それを見れば、西暦何年の日本社会がどうで、世界は何時代でどうだったか、どんな文学があったのか、誰が何を発明(発見)したのか…等など一目瞭然となるのです。例えば1600年、日本は(慶長5年)関ヶ原で天下分けめの戦いをしている時、大英帝国はインドに東インド会社を設立していて、オランダ船リーフデ号は豊後に漂着、ウィリアム・アダムス(三浦按針)などが江戸にやって来た年だった・・・という塩梅。

 単に「歴史事実」をなぞっているだけだが、使いようによっては「歴史に葬られた謎解き」の資料にもなる。
私が「日本史年表」なんて退屈なもの購入したのも、それが狙い。
ターゲットは年表には記載されていない。直接の関係者の名すらない。もちろん事件は太字で書いてあるし、当時は日本でもトップ企業(人物)だったにもかかわらず。それが政治家であっても。
すみずみまで、関係のないカテゴリーまで細かい字を追ってみたが、記載されていない。まるでなかったこと、後世に残したくないから敢えて触れなかった、という感じがする。

 日本の歴史(後世)に残したくない事柄を削除できるのは、国家しかないよね。
まぁ、国家→権力を持った人物=政府の実権を握った人物かなんかだけど。

 以前、作家・故星新一氏が書いた父の伝記小説を読んで、当時一流企業だった星製薬という製薬会社が存在していたことを初めて知って、その会社が国家権力によって盛衰する様を読んで「ひどいなぁ」と思ったが、今読んでる城山三郎の「鼠」という小説が、米騒動で焼き討ちにあった「鈴木商店」のお話で、「星製薬」と「鈴木商店」という米から船舶まで扱う貿易商とは何の繋がりもないようだったが、両小説に出てくる共通の人物名がちょっとひっかかった。
政府の大物人物なので、年表で見ればわかるかも知れない、、、
「星製薬」の名前はないが、父星一は野口英世の友人なので野口の名前は1919年「黄熱病原体の研究」と年表に載っていて、経済のカテゴリーを見ると1918年に「米価暴騰 米騒動」と太字で書いてあった。この時代の政治のカテゴリーを縦に見てゆくと面白い政権展開が見られる。そして大物政治家の名前は見当たらない。

 なかなか興味をそそられる問題を見つけて、また夜な夜な妄想ふくらましている。

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53 stages of Tokaido-akasaka-

2009-08-20 | trip
                東海道三十七次赤坂宿<大橋屋>

東海道五十三次、37番目の宿場「赤坂」は、吉田宿→御油宿→赤坂宿と続く街道中とても栄えた宿場町のひとつです。ここには、1715年頃建てられてから現在も営業している旅籠『大橋屋』があり、町指定有形文化財になっています。入口が開いていたので中を見ることができました。ちょうどお盆中でご親戚が帰省していたのか、お孫さんの自転車やサンダルがあって、いかにも「現代でもちゃあんと営業してますよ」といった雰囲気が出てました。
この板の間の右手奥に仏間があり、お坊さんがお経をあげていました。江戸時代もこんな風にお経の声や線香の香りがしてたんでしょうねぇ。

広重の浮世絵の旅籠の内部の様子は、この大橋屋が江戸時代に称していた『伊藤右ヱ門 鯉屋」をモデルにしていると云われています。絵の中には当時珍しい蘇鉄が描かれていますが、この蘇鉄(だと言われてる)は今も大橋屋の近くのお寺の本堂前にあるそうです。私はそのお寺・浄泉寺には行きませんでしたが、この近辺にはいくつもお寺があり、ちょっと覗いたお寺は、聖徳太子立像が安置されていると境内にあるお宝リストに記してありました。誰もいなかったので中には入らず外から見てみましたが、それらしい像は見えませんでした。そんな目に付くような場所には置いてないでしょうね。

それから車で旧東海道をしばらく走り、再び国道1号線へ出ましたが左側(西に向かっていたので左手に東海道が平行している)をちらちら見ながら、ちょっと宿場っぽい場所があったら左に入ろうと運転してましたが、赤坂の次の藤川宿は、小さな傾いた杭のような木に「藤川宿」と書いてあるのが茂った雑草の蔭に一瞬見えて、「あ」と言う間に通り過ぎてしまいました。前に走っていた乗用車はためらいもせずその細い道へ入って行ったので、多分宿場を目指していたんでしょう。
藤川には、特になにかあったわけではないのでそのまま通り過ぎました。

帰宅後、本で見てみたら「平成の東海道」と呼ばれて、建設省の東海道ルネッサンス・プロジェクトで整備されていたそうです。やっぱ走っとけばよかったかも…。
東海道五十三次とは関係ないですが、徳川家康が子供の頃修行したと伝えられる法蔵寺が近くにあり、そこには新撰組隊長・近藤勇の首塚があるそうです。京都・三条大橋にさらされていた首を同士が盗み出してそこに葬った、と本には書いてあります。写真も載ってますが、塚の背後に後年作ったと思われる近藤勇の石の胸像があります。新撰組とか血気盛んなのには興味ないので、私にとってはどうでもいいことなのですが、藤川駅付近には、問屋場跡、高札場跡、旅籠、脇本陣門跡が残っていて無料資料館もあると書いてあるので、藤川宿も範疇に入れておけばよかった、、、と後の祭り・・・

「東海道中膝栗毛」には、

みほとけの誓ひと見へて宝蔵寺 なむあみぶくろはこゝのめいぶつ

と喜多八が詠んでいます。宝蔵寺は正しくは法蔵寺。阿弥陀にゆかりのある編み袋が名物だったそうで。名物の「物(ぶつ)」には「仏(ぶつ)」も含められています。弥治北の通った棒鼻(ぼうばな:宿場の境界を示す榜示杭という杭を立てる場所)は、広重の藤川宿に描かれ、現在も絵と同じように1本の杭と高札2本が立っています←本に写真が載っていた。やっぱり行っときゃよかった、、、


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the paintings from Manchester

2009-08-15 | art
豊橋美術博物館開館30周年記念展    ターナーから印象派へ-光の中の情景-

7月3日から8月16日まで、愛知県の豊橋美術博物館でマンチェスター市立美術館収蔵の絵画が日本で初めて公開されるというので、見に行ってきました。

特にイギリス絵画が好きなわけではないですが、憧れの「マンチェスター!」てこととターナーの絵が見れるというので、遠いですが足を運びました。

会場のある場所自体が歴史ある東海道の宿場で、広重の浮世絵にも残されているという魅力もありました。美術博物館のある公園の散策は後にして、まずは展示会へと向かいました。

植民地時代にはインド人を酷使して綿花を生産させ、その綿を持ってきて綿織物工業が栄えた工業都市・マンチェスター。(しかし、英国人はマンチェスター製の綿製品は品質が悪いと云っていた。その後綿製品は日本製が出回り英国はインドの綿畑を閉鎖、インドの農民は路頭に迷うことになった。)
芸術のような華やかなイメージのない都市の絵画は、いったいどんなものなんだろうか…展覧会のフライヤーにはターナーの絵を中心に美しい風景画が並んでいます。絵画には詳しくありませんが、1830年代から50年代までのロマン主義~写実主義の絵で、フランスのミレーやコローやクールベなどの有名画家から比べたらやはりレベルは劣るかなぁって印象も否めない作品もありますが、多分日本では余り知られていない画家で、掘り出し物がありました。
ウィリアム・ヘンリー・ハント「イワヒバリの巣」
展示室入って迎えてくれたのがこの一枚。ウィリアム・ヘンリー・ハントという画家の水彩画でした。次の絵もこの画家の「プラム・グリーンゲージ・ブラックベリーとローズヒップ」という水彩画で、タイトル通りの植物が道端に置いてある静物画でした。「プラム~」はフライヤーに載っていましたが、「イワヒバリの巣」の方にとても魅了させられました。この展覧会を訪れた多くの方がこの作品に釘付けにされたことでしょう。とても水彩画とは思えないほど緻密で色彩も美しい。小さい画像だから写真のように見えるのではなく、実物を間近で見ても写真と見紛う絵でした。油彩と違って絵の具の厚みもないし。

メイン作品のターナーの「エーレンブライトシュタイン」はやや印象薄くなってしまいました。(この絵の中にターナー自身が描き込んであることくらいか)
他にも聞いた事のない名の画家たちの作品がたくさんありましたが、パリの画家たちと違ってどことなくもたっとした素朴な感じがして、全体的に飾り気がなく誠実で気取ってない作風が気に入りました。

実は、マンチェスター市立美術館出展よりベリ美術館出展作品の方が質がよかったと思いました。一応マンチェ美術館蔵のゴーギャンなどの大物印象派画家の作品もあったのですが、どれもイマイチな作品でした。ハントの作品もベリ美術館蔵です。この美術館については詳細がわからないのですが、とても質の高い美術館だと感じました。

日本で有名でない美術館収蔵の日本で馴染みのない画家による作品展というのは、新鮮な発見があって楽しいですね。
ManchesterArtGallery

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53 stages of Tokaido-yoshida-

2009-08-14 | trip
                東海道三十五次 吉田<吉田城址鉄櫓>

 歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の35番目の宿場「吉田」とは、愛知県豊橋市のこと。広重の浮世絵に描かれた風景は、吉田城(現豊橋公園となっている)の櫓の外壁を塗りなおしている左官屋さんの1人が、高く組んだ足場からすぐ下を流れる豊川に掛かる吉田橋(現豊川橋)を渡る大名行列を眺めている、というもの。

 豊橋公園は豊川市から豊川橋を渡ってすぐの所に位置し、現在は当時の石垣や堀も部分的に残っているのみで、水も枯れていますが、唯一復元されている鉄櫓(くろがねやぐら)の傍から川と橋(国道1号線)を臨むと広重の世界に浸れます。

 この吉田橋(豊川橋)は、江戸時代でも長さが約216㍍あったそうですが、現代でもなかなか渡り応えのある橋です。
 東海道中最長の橋が、39番目宿場・岡崎(家康生誕の岡崎城所在地)の矢作川に掛かる矢作橋で、374㍍あったそうです。広重の時代は真っ直ぐな橋ですが、今では途中くねっていて信号もあったりします。

 広重の画中で左官屋さんが足場に登っていた鉄櫓は、決まった開放日があって中に入れるみたいです。

 旅人をまねく薄のほくちかとここも吉田の宿のよねたち
 
 吉田宿は「吉田通れば二階から招く、しかも鹿子の振袖で」と唄われるくらい、客を招く宿の遊女が多かったそうです。この歌を踏まえて、「東海道中膝栗毛」の喜多八が詠んだ狂歌です。「招く」から「薄(すすき)の招く」→「薄の穂」、「穂」から「ほくち(火口:火をおこす道具で吉田の名産だった)」にかけて、薄の穂のゆれる様子を遊女が手で招く有様に例えてあります。




 
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53 stages of Tokaido-narumi-

2009-08-10 | trip

               東海道四十一次鳴海宿ヨリ一里-有松村-

2007年に用事があって訪ねた“有松絞り”で有名な有松。
東海道五十三次の41番目の宿・鳴海宿から約4キロで、近くには桶狭間古戦場もあります。国道1号線から少しそれているので、旧街道の街並みが保存され観光地化していますが、特にイベントがない時は観光客も人通りも多くはないので、江戸時代を偲んでぶらぶら散策するにはもってこいです。

最近、ある人と話していて、その方が有松に関係している方だったので、有松絞りの始まりについて貴重なお話をきくことができました。それは現代の内輪噺しなので書けませんが、、、。
有松絞りは、何もない村の「村おこし」として京都へ視察に行って開発した産物だということを私はその時始めて知りました。地場産業として発展した有松絞り染めは、江戸時代中期には既に全国に名高い名産品となって、東海道を旅する人々特に女性に人気だったそうです。

もう10年近く前に、絞り染めの工程を「有松絞り会館」で見学したことがありますが、完全分業制の細かい職人業でした。当時何も知らなかったので、「絞り」作業をしているおばあさんに、「染めるのもやるのですか?」と質問して、90歳だかの彼女は手を休めることなく「わしはずっとこれだけ」とおっしゃっていました。
それだけにお値段も高いのですが、有名百貨店で売られているのよりは地元の方が格安です。


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syaraku's dream/final

2009-08-05 | art
                 葛飾北斎画「絵本東遊」(寛政11年:1799年)

写楽の浮世絵はブレイクしなかった。
以降、写楽の名も作品も忘れ去られた。時が流れ、写楽を知る人々もこの世にいなくなってしまった。

日本人にとって浮世絵は芸術品ではなく、大衆絵の枠を出なかったため欧米に流出していった。
100年以上経って、日本美術の研究をしていたドイツ人牧師ユリウス・クルトが写楽の浮世絵を激賞した。「西洋に追いつけ追い越せ」と考えていた大正時代の日本人は驚いた。芸術大国の欧羅巴人から「スバラシイ」と絶賛された写楽の浮世絵って、ナルホドよく見ると斬新な構図といい表情といい素晴らしいじゃないか!
…で、写楽って誰よ?

江戸大衆文化の開拓者であったがゆえに、時代の先取りをしてしまった「写楽仕掛人」蔦屋重三郎。
雲の間からその様子を眺めて、満足げに微笑んでいることだろう。


*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
城山三郎の「官僚たちの夏」と「辛酸-田中正造と足尾鉱毒事件」を読んだ直後に書いたので、いささか「男のロマン」に陶酔してしまった。あはは。
写楽に関する書物を読んでいないので、同じような展開のストーリーはどこかにあるかもしれない。
ちょっとした「寄り道」が大層な「道」になってしまったが、大いに愉しめた。
蔦屋重三郎に関する書籍は読んでみようと思う。

私の好きな浮世絵は歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」。広重は蔦重が死去した1797年に誕生し、62歳で死去。死因はコレラ(!)だったそうな。


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syaraku is ・・・

2009-08-04 | art
            蔦屋重三郎 1750-1797 「耕書堂」書店店主

江戸東京博物館へ行ったのは、十返舎一九関係に触れたいが為だった。たまたま寄った特別展で「写楽ミステリー」にハマリ、一九ファンの私は「だったらいいな」予想で、写楽の正体は一九だった!と言いたかった。
ところがどっこい、調べていくと有力だと思われた「一九説」は、あっけなく沈没。代わりに浮上したのが出版側の蔦屋重三郎だった。

ネット検索では彼に関する詳しい情報が少なかったので、物的証拠(蔦重の描いた絵が残っているとか、趣味が浮世絵だったなどの記述)があるか否かが摑めず、後はつじつま合わせになってしまう。しかし「蔦屋重三郎説」は男のロマン説であるかもしれない、、、

写楽デビュー3年前、風紀取締りで罰金刑を受けた「耕書堂」店主・蔦重は、店の再起の為今後の事業計画を綿密に立てたことだろう。なんせ、生まれた吉原に小さな書店を開き吉原細見(遊郭ガイドブック)の出版販売からスタートして10年で日本橋に店を移転し、有力出版&書店の仲間入りを果たした敏腕青年起業家である。江戸文化のパイオニアとして様々な情報・流行に精通し人脈を張り巡らしていただろう。そして店の為に有益な事業計画を立てたに違いない。
最初に足がかりにした企画は、売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙本の刊行だった。売れっ子作家の廉価本なので売れたんだろう。
翌年喜多川歌麿(浮世絵師)をデビューさせている。これも成功した。その2年後に「耕書堂」をオープンし日本橋に進出。その後、耕書=書を耕すというコンセプト通り、才能ある浮世絵師や作家を発掘しデビューさせた。
しかし、彼はむやみやたらに新人をバックアップしデビューさせてはいなかった。どうやらとても堅実に出版業を営んでいたらしい。その甲斐あって耕書堂は5年後には絶頂期を迎える。
ところが年号が寛政になると幕府が「寛政の改革」を行い、耕書堂で販売されていた山東京伝の洒落本が風紀取締りで摘発され、京伝は手鎖50日の刑、蔦重は財産の半分を没収されてしまった。

蔦重にとっては初めての大きな痛手だったかもしれない。罰金刑の他に営業自粛などさせられたかもしれない。しかし、彼は山東京伝の弟子・曲亭馬琴を下宿させたり、翌年には歌麿の雲母(きら)摺りの大首絵、京伝作・春朗(北斎のこと)画の黄表紙を刊行し、処分2年後には馬琴を咄本でデビューさせた。資金繰りをどうしたのかは解らないが、馬琴にしても京伝のバックグラウンドがあるので売れないことはなかっただろう。こうして手堅い商売をするのが蔦重式であった。
それなのに、1794年5月から1795年1月にかけて全く無名で誰のバックアップもない新人の錦絵を売り出したんである。その絵が人々の心を惹くような素晴しい絵だったなら大ヒット間違いなかっただろうが、あいにく不評だった。美化しないで描かれデフォルメされた歌舞伎役者の似顔絵は、役者からもクレームがついた。にもかかわらず10ヶ月にも渡って刊行された。現代なら浮世絵は一枚数万円だが、当時は蕎麦一杯分の価格。錦絵を1枚製作するのに平均いくらかかるのかわからないが、資金が以前ほどあるわけではない財政状況で、手堅い商売を営んできた経営者が一発屋を出すとは考えにくい。失敗を覚悟してまでその錦絵を耕書堂で発売しなければならなかった理由…それは、蔦屋重三郎が死ぬ前に自分の絵を発表したかったからじゃないだろうか。

出版に携わって数十年、江戸文化には敏感だった彼だけに、洒落本書くのだって浮世絵描くのだって狂歌を詠むのだって義太夫だって唄だってセミプロ並みに出来たとしてもおかしくない。一流のアーティストとその作品に囲まれて生活してたんだし。ただ、本名で発表するのは「ダサイ」。そこで洒落た筆名をつけて、親しい人物には「内緒だよ」と念をして、実際に芝居小屋の楽屋へスケッチに行ったりはせずに、誰かの描いた似顔を真似て(写して)絵を描いたのじゃないか。
実際に見ていないから、1795年5月に描いた肉筆画では、役者を四代目を五代目と間違えて記してしまったのではないか。

「死ぬ前にやっておきたかったこと」
蔦重は写楽デビューから3年後に脚気で死亡する。脚気は江戸病といわれたくらい当時死亡率は高かったそうだ。脚気(ビタミンB1欠乏症)は日本や東南アジアに多く発症し、原因は精米された米を食べるようになりビタミンB1が欠乏するようになったからと云われた。昔は玄米など雑穀を食べるよう処方したらしい。蔦重もお金持ちになり贅沢な食事を続けていたのかもしれない。そして徐々に病気は進行する。脚気は心不全を引き起こす。心不全の症状は、運動時の息切れ・呼吸困難・顔手足のむくみ・夜間の呼吸困難・起座呼吸(横になっていると息苦しく、座ると楽になる)など。亡くなる数年前からそんな症状が出ていたのかもしれない。

1794年は蔦重45歳。江戸時代では決して若くない年齢である。死期を悟った人間、特に蔦重のように野心的に生きてきた人間にとっては、最後に自分の一番したかったことを実現してから死にたい、と思うんじゃなかろうか。
蔦重がティーンエイジャーの時大流行した錦絵。その美しい多色摺り版画に憧れ、自分でもそんな浮世絵を描いてみたいと夢みたが、一流になれるほどの画才に恵まれていないことを知り、裏方の仕事をすることを決心する。
少年は青年になり、ひとつずつ夢を実現していく。無名の絵師をデビューさせ成功させた。芸術家や作家の為に力を注いできた。江戸文化の成長に一役かうことができた。
やれることは、やった。

               残るは、少年時代の「夢」。


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the name of syaraku

2009-08-03 | art
 東洲斎写楽→東洲の斎で写すことを楽しむ

 東洲は東都(江戸の町)、斎は「物忌みや読書などをする部屋」という意味がある。物忌みとは、祭りや凶事に際し身を慎み不浄を避けること。
 繋げると「江戸で凶事などがあった為身を慎み不浄を避けて、読書などする部屋の中で絵など写して楽しんでいる」。

写楽は何かよくない事をして謹慎中かなにかで、部屋に閉じこもって絵を描くくらいしか楽しみがなかったんじゃなかろうか?
では、「江戸の凶事」とは何か。

写楽の登場する3年前の1791年は寛政の改革で風紀の取締りが厳しくなった。そんな中、蔦屋重三郎が出版した山東京伝の洒落本や黄表紙が摘発され、蔦重は財産の半分を没収され、京伝は手鎖50日の刑を受ける。日本橋通油町に耕書堂をオープンして約9年、蔦重には大きな痛手だったろう。資金が減り、思い通りに出版も出来ず、今後の方針・事業計画に頭を悩ませていたかもしれない。
同年、彼の処に京伝からの紹介で曲亭馬琴(1790年に京伝に入門)が下宿する。

東洲斎とは、風紀取締りで摘発された直後の「耕書堂」を指してるんじゃなかろうか。もちろん写楽作品は全て蔦屋が版元であるから、写楽が「耕書堂」で下絵を描いていても不思議じゃない。
その写楽がデビューした1794年5月時点に「耕書堂」に居た人物が馬琴。そしてその年の9月、馬琴と入れ替わりに十返舎一九が下宿しているのである。馬琴は書簡の中で「一九とは深く交り不申候へども(一九とは深い交流はないが)~」と前置きして、一九の人物像を記述している。そんな馬琴が何故写楽について一言も触れていないのか?彼が写楽だからか?

私の推理はNO。
馬琴は物書きになりたかったんである。事実下宿して2年後の1793年咄本でデビューを飾っている。浮世絵製作なんかにうつつを抜かしてる場合ではなかったと思う。では、写楽がデビューした4ヵ月後に下宿人として住み込んだ一九はどうなのか…これも却下。
浮世絵版画が完成するまでには、数々の工程がある。まず、版元が企画した内容を浮世絵師(画工)に依頼し、具体的な版行計画がまとまってから版元が画工に作品の作画を発注する。注文を受けた絵師は絵組みを考え、ラフな画稿から始めて決定稿である版下(版画用の黒の輪郭線のみの下絵)を仕上げ、版元や行事のチェックを受ける。その後彫師に送られ主版となる墨版が出来上がる。主版は彫師に摺られ絵師にチェックしてもらう。ここで絵師は色指定して彫師に返す。これによって複数の色版を作成する。彫りが完成した主版と色の枚数だけある色版が摺師に渡され、幾重もの重ね摺りが施されて錦絵はようやく完成する。
ぽっと来て、ささっと出来るものではない。

一九は自作「東海道中膝栗毛」作中に十返舎一九本人を登場させる程自己顕示欲が強い人物だ。そんな彼が自分と関連のない筆名(一九は静岡生まれ。因みに弥治北は静岡から江戸へ流れてきた設定)を使用して絵など描く必要があっただろうか。
下宿した翌年、一九の黄表紙が刊行されている。やはり絵なんか描いてる閑はなかったろう。

自分の作品のせいで蔦重の財産を半分にしてしまった浮世絵師でもある山東京伝はどうだろうか。償いの為に無償で下絵を描いてやることは出来る。しかし当時役者絵などはブロマイドと同じレベルで価格は蕎麦一杯分くらいだったそうだ。それで資金を補填する気なら、無名の新人で発売するより正体を明かした方が儲かるじゃないか。金儲けが目的なら「変名」は意味がない。

同じ理由から、1795年(写楽活動中)に二代目俵屋宗理を襲名した北斎(1798年には独立して北斎と号する)も、写楽名義で出版する理由がない。
ついでに1781年に蔦重がデビューさせた喜多川歌麿も。
そうして残ってしまったのが、絵師でも作家でもない「写楽仕掛け人」蔦屋重三郎だった。東洲斎写楽の雅号の意味にはぴったりの人物。「蔦屋」は彼の親・喜多川(養子先)の屋号であるから蔦屋重三郎は本名であるといってよいだろう。
蔦重が東洲斎写楽という画号で浮世絵師デビューを図ったのだろうか???
それは何故?

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who is syaraku?

2009-08-02 | art
「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」1795年5月写楽作

1794年5月から1795年1月までの間に28枚の大首絵を含む約150点の錦絵(全工程カラー摺りの浮世絵版画)を発表後存在が消え、「東洲斎写楽」という名以外出生不詳の絵師の「肉筆画(扇子に描かれた直筆画)」が2008年ギリシャで発見された。
詳細は公式webサイトで→写楽 幻の肉筆画マノスコレクションより

謎の天才浮世絵師として、その正体を推理され続けている写楽の、活動終了4ヵ月後に描かれた肉筆画が発見された事実によって、数々ある「写楽説」の中から「写楽死亡説」が淘汰される。それから、この絵には加古川本蔵の台詞の一部の前に「五代目松本幸四郎」と記してあるが、これは似顔の特徴から明らかに四代目の誤りであるとされている。ということで、「写楽役者説」も現役役者がこのようなミスは犯さない、と思うので可能性が薄まる。

写楽が誰かの変名であってもそうでなくても、真相に近い人物を探ってみるのが一番近道だと考え、写楽の浮世絵を発表した版元・蔦屋重三郎の書店「耕書堂」に1794年前後出入りしていた人物に当たりをつけてみた。

蔦屋重三郎(1750-1797東京吉原生まれ、本名:喜多川重三郎。出版業者&出版プロデューサー、「耕書堂」オーナー)
葛飾北斎(1760-1849東京墨田区生まれ、本名:川村?鉄蔵。「富嶽三十六景」など描いた浮世絵師)
山東京伝(1761-1816東京深川生まれ、本名:岩瀬醒<さむる>。戯作家・浮世絵師。曲亭馬琴の師)
十返舎一九(1765-1831静岡生まれ、本名:重田貞一<さだかつ>。「東海道中膝栗毛」を書いた作家)
曲亭馬琴(1767-1848東京深川生まれ、本名:滝沢興邦<おきくに>。「南総里見八犬伝」を著した作家)

この5名は、少なくとも写楽に会ったことあるか存在は知っていたにちがいない。
出版元の蔦重は説明いらないが、北斎(当時は師事していた絵師の一派の号勝川春朗<しゅんろう>と号していた)は馬琴(山東京伝に師事し蔦屋から黄表紙本など発表)の挿絵を描いていたことがあったから、蔦屋に出入りしていた。事実絶頂期の耕書堂の浮世絵を残している。山東京伝は蔦屋から洒落本など出版。京伝の弟子・馬琴は1794年まで蔦屋に下宿していたことがあり、彼と入れ替わりに下宿したのが十返舎一九だった。
この中で絵師でない人物がいるが、一九も馬琴も錦絵こそ描かないが本の挿絵くらいならプロ並みの腕前である。

さて、この5名の絵もしくは筆跡が写楽のそれと一致すれば事は簡単に解決する。
写楽の絵の特徴は「耳」だとテレビで専門家が言っていた。確かに写楽の大首絵の耳、肉筆画の耳を見るとどの人物も同じである。耳たぶに線が一本ある、ややふっくらめの耳たぶだ。ただ、こういう比較は、理由あって変名で描いたものについては当てにはならない。何故ならわざと特徴を隠したり変えて描くからだ。サインについても同様。写楽の落款はお手本のように整っている。

写楽がこの5名の誰かなのか、別の人物なのか…1765年に鈴木春信が錦絵を開発し、「絵暦交換会」で錦絵が大流行してから蔦重が死去した1797年を中心に調べているとき、曲亭馬琴のペンネームの由来を見つけた。曲亭馬琴を別の読み方にすると「くるわでまこと=廓で誠」で、「遊郭でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男」という意味だそうだ。江戸時代の町人は「洒落」と「粋」が身上。ペンネームにはそれなりの意味があるはずだ、と思い「名まえ」から写楽の人物像を想像してみた。
山東京伝は「江戸城紅葉‘山’の‘東’に住む‘京’屋の‘伝’蔵」だそうだ。

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enjoy looking the ukiyoe

2009-08-01 | art

写楽に興味はなかったが、行ったらたまたまやっていたので折角なので見てきた。

看板には「幻」「世界初」「初里帰り」「写楽の肉筆画」という文字が躍っている。なにやらすごい浮世絵展らしい雰囲気が伝わってきたが、「東洋かぶれの外国人の浮世絵コレクションか」くらいのお気楽な気分で会場へ足を踏み入れた。
「写楽 幻の肉筆画」とでかでか書いてあるので、「写楽」作品を中心とした展示会かと思いきやそうではなく、アジア美術コレクターのギリシャ大使・マノス氏が19-20世紀初頭にかけてパリやウィーンで収集した美術品をギリシャへ持ち帰り、コルフ島にあるアジア美術館に保管されていた美術品群で、1世紀以上経ってようやく日本の調査団がはいり、その質と価値の高さを発見してめでたく日本で公開とあいなったそうだ。北斎や歌麿、豊国など日本史教科書にも載ってる有名絵師の浮世絵などが所狭しと約120件、歴史的資料としても貴重なコレクションだった。

その中でも目玉だったのが「写楽の肉筆画」。どうして「幻」なのかは、写楽自体が謎の人物であることから始まって、木版画(錦絵)ではなく、肉筆画であったこと、その肉筆画が写楽が忽然と存在を消してから描かれたものであることからきている。
そもそも、その肉筆画(扇子に描かれた絵)が本当に写楽によるものなのか、という鑑定から始まるが、それは7月18日テレビ東京系「美の巨人」で放送されていたので、多分ほぼ間違いなく、写楽の肉筆画だと思われる。

それまで「写楽」の浮世絵は好みでなかったから、興味もたなかったが、「謎の人物」というキーワードに突き動かされて、専門家素人多くの人が取り憑かれている「写楽とは誰だ?!」ミステリーに私なりに妄想してみた。

写楽ミステリーに関するwebサイトも数多くあるが、分りやすかったのが↓のサイト
謎の浮世絵師・東洲斎写楽

写楽は写楽という独立した絵師ではなく、著名な絵師や作家の変名だ、という推理が一般的なようだ。私も調べれば調べるほど感情移入してしまって、写楽が活躍した10ヶ月間に係わる人々のうちの誰か、だと(おもしろいよなー)思い始め、夜な夜な史実と浮世絵史をちょこっとずつ調べて、妄想しながら眠りにつくような日々を送っている。←バカ

ということで、これからwho is syaraku? を書いていこうかと思う。
長くなるかもしれないので、今回はここまで。
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