TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

the illustrations of the edo period culture 5

2011-02-21 | art
Ikku shows how to put the comics on the market
***江戸文化の挿絵5―十返舎一九***
『的中地本問屋』も佳境に入ってきました。これまでの作業能率アップには薬を使っていましたが、ここに来て一九先輩策が尽きたか、何だか趣向が怪しくなっていきます。
        
難しい表紙掛けの作業を早くするような妙薬を思いつかなかった村田屋は、思いつきで太鼓を叩いて囃したてると、子供らは面白がって拍子(表紙にかけた)に合わせて夢中になって夜中まで仕事をした。
        
草紙を綴じるのは女の仕事なのだが、埒が明かないだろうと思った村田屋は思案して、中国の伝説にある七曲りの玉へ蟻を使って糸を通す方法を実験してみるが、それが机上の空論であることが解って、結局は口も八丁手も八丁(お喋りも手作業も達者)な女達に綴じさせ間に合わせた。  
        
草紙売り出しの日は、競(せり:品物を背負って歩く売り子)を使って江戸中の本屋へ卸させるが、この競の手合に、足の速い神様・韋駄天(いだてん)のお守りを持たせて走らせたところ、草紙を出すとすぐ売り切れるのでまた背負って走って…を繰り返して一日中江戸中卸して回った。
        
村田屋の店先はお客が大挙して訪れ、製本が追いつかず、自分で綴じるからそのままくれというお客もいる。
この左ページの上の余白が不自然で、文も「イヤ、今摺っております」と云ふに、「いや、摺らずともよふござる。そのまゝで下せへ」と で終わっていて尻切れなので、行事改め(検閲)で削られたのではないかと推測されています。では何が描かれていたのでしょう?構図から見て、削除されたのは明らかに文章でしょう。
この話の内容からピンとくるのは、1788年蔦屋から朋誠堂喜三二の『文武両道万石通(ぶんぶりょうどうまんごくどおし)』が発売された時の状況です。『文武両道万石通』は蔦重が黄表紙に初めて政治風刺性を取り入れ、飛ぶように売れた草双紙であると同時に、時の政権・松平定信の怒りを買った問題作でもありました。このことを匂わすような内容だったんじゃないでしょうか。
一九は1781年16歳で江戸の何某侯に仕えて、1788年24歳の時小田切土佐守に仕えて大坂へ移ります(一九は駿河の下級武士の長男)。『文武~』の発売は1788年正月なので、その時まだ一九は江戸に居てこの騒動を目の当たりにしたか、ひょっとしたら彼自身蔦屋で買い求めようとした輩だったかもしれません。
栄邑堂の日除けの手前の看板の一番右に「五十三次 馬士の歌袋 十返舎作 全五冊出来」とありますが、これは構想が変わってあの代表作『浮世道中膝栗毛』として発売されたと推察されています。『馬士の歌袋』は『旅眼石』の改題再板本のタイトルとして復活しているそうです。
本文に戻りましょう。
               
草草紙の発売日には蕎麦を食べて祝うのが慣例だったので、一九も村田屋へ呼ばれてご馳走に与った。好物なのでいくらでも食い放題で、今年から身代(資産)も蕎麦みたいに伸びるめでたい徴。
「版元もめでたい。おいらもめでたい」

おしまい。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

the illustrations of the edo period culture 4

2011-02-20 | art
Ikku shows how to put the comics on the market
***江戸文化の挿絵4―十返舎一九***
一九先輩の著作『的中地本問屋』の続きです。        
        
薬の効果で怠け者の一九が早々に傑作を書き上げたので、栄邑堂村田屋は早速版木屋へ持って行った。彫師がずるけないようにここでも予め策を講じてあった。太古の昔、富士山と琵琶湖が一夜にして同時に出来たという伝説に基づいて、宝永年に富士山が出来たときに湧いた近江の湖の水を酒に入れて、彫師に飲ませたところ、これもすぐ効いて一夜の内に彫りあげた。
        
今度は摺師の出番である。板行を摺る手合に、朝比奈(曽我の五郎の血気をとどめんと鎧の草摺を引き合った怪力)と景清(源平合戦で源氏の美尾谷[みおのや]十郎と戦って兜の錣[しころ]を引きちぎった平景清)にあやかって、二人の腕を黒焼きににしたものを酒に混ぜて飲ませたところ、板摺手合の腕が途方もなく力強く達者になり、一日に一人で何万枚も摺ることが出来た。
        
摺り上がった草紙を順に一枚ずつ揃える作業を丁合をとるという。挿絵では、左側の小僧が△の道具で山を作り半分に折っている。それを右側の男が丁合をとる。これも早く出来るように、東海道の小夜の中山の八打鉦(やからがね:沢山の叩鉦を腰につけて目まぐるしく打ち鳴らすもの)を黒焼きにして飲ませると、丁合いをとる者はちゃんちゃんちゃんとすぐに仕上げてしまった。
出来たものは重しを載せて積んでおく。中央に積んであるのは草紙ではなく一枚ものの浮世絵。村田屋の主人の後ろに分厚い帳簿があるので、この部屋は版元の処であるのがわかる。製本からは版元で使用人がやっていた。←この事実は重要ポイント

        
丁合の次は、上下左右を裁ち揃える作業がある。画のように包丁で切るのだが、これが裁ちにくいもので手間がかかる。そこで、祇園豆腐(京都の八坂神社の近くにある茶屋で売り出した絹漉豆腐。仲居の女にお金を渡すと豆腐の曲切りを見せたという。)の包丁を煎じて飲ませると、たちまち手が早くとんとんとんと切ってしまった。
さて、村田屋が悩んでいるのが次の工程、草紙の表紙掛け。表紙掛けは、ヘラで折目や筋目をつけたり糊付けをする難しい作業で、(難しいのに)これは子供がすることになっているから、どうやったら仕事がはかどるだろうかと思案している。

木版画の製作工程は、歌川国貞が1857年(安政4年)「今様見立士農工商職人(いまようみたてしのうこうしょうしょくにん)」に描いています。
        
彫り、摺りは職人が個々にやりますが、この絵は一図にまとめてあり、職人達の姿は美人に見立ててあります。手前中央の作業は、板木を摺る奉書紙に絵の具がのりやすいようにドウサを引く仕事です。江戸へ出てきた一九が蔦重に居候していた時していた仕事がドウサ引きでした。
        
1799年寛政11年北斎画「絵本東遊」の耕書堂の店先(一部)。確かに丁合をとる者や裁つ者の姿が確認できます。ここで疑問が生じます。製本は版元でやってたことは確かですが、刷り上るまでは専門職人が個々の仕事場で仕上げていました。それなのに、一九はどうして版元の蔦重の処で摺師がやるドウサ引きをやっていたのでしょうか?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

the illustrations of the edo period culture 3

2011-02-19 | art
Ikku shows how to put the comics on the market
***江戸文化の挿絵3―十返舎一九***
江戸後期のベストセラーで現代でも読み継がれている滑稽本『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九(1765-1831年:本名 重田貞一)の挿絵がartかどうかは脇へ置いておき、現代漫画の元祖・江戸時代のオトナの絵本黄表紙が売り出されるまでの製作工程を一九先輩のイラストを見ながら学習してみました。題して『的中地本問屋(あたりやしたじほんといや)』1802年享和2年刊・栄邑堂(えいゆうどう)村田屋治郎兵衛板。
               
地本問屋とは、上方(京都大坂方面)からの読み物に対して、江戸で独自に製作された絵本や戯作本、浮世絵など娯楽書の出版販売をする本屋のことで、蔦屋重三郎も最初は地本問屋でした。栄邑堂村田屋は『膝栗毛』を出版した版元です。
               
この本は、作画、筆耕(文字を書くこと)も一九がやっていて、序文は誤字が目立ちます。(といっても私には判別できませんが)
商売は草の種本。書けども尽きぬ、浜の真砂の洒落次第。金のなる木を彫って小刀細工の銭儲けは、作者の得意に。はまちもの(へそくりのこと)、趣向は書肆の金箱に。山吹色の黄表紙と。一寸祝って筆を執る。
*文字や句読点は現代風にしてあります。

「商売(本)の元となる種本(稿本)は、洒落やふざけ次第でどうとでもなる。版木を彫って金儲けをするのは作者が得意とするところで、作者が溜めておいた趣向は小判と同じ色をした山吹色の黄表紙にして版元の金箱を潤してあげようと書き始めた。」と言ってますが、実は一九はこの年同じ趣向の本を他に2冊書いていて、要はネタに詰まって戯作者内幕ものを書いた、ということですハイ。
この手の戯作者生みの苦しみを綴った本は、前に紹介した山東京伝の『作者胎内十月図(さくしゃたいないとつきのず)』がありますが、あれは一九がこれを書いた二年後に発売されたもので、京伝が戯作を完成させるまでのお話でした。
でも『的中地本問屋』は一九に限らず、当時の和書ができるまでをイラストで紹介した貴重な資料となるお話です。
               
版元・栄邑堂村田屋治郎兵衛が今年は一発当ててやろうと工夫をこらし、先ず怠け者の一九を呼び寄せて酒を出す。実はこの酒の中には、作のよく出来る薬がはいっている。その薬は干鰯(鰯の脂を絞って干したもの)・馬糞・鋤・鍬(全て田畑を耕すときに使うもの)を百姓の脂肪を絞って練り合わせ丸薬にしたもの。馬の糞を入れて飲まされているとは知らない一九は「これはいい酒だ。銚子で馬鹿を尽くしたことは『旅眼石(たびすずり)』という本に書いたよ」などといい気になってさり気なく宣伝。一九は前年銚子で妓楼に泊まって遊び続け、金が無くて揚げ代の代りに狂歌を詠んだという。そんな逸話も入ってる鹿島・香取・息栖三社詣をした紀行をまとめたのが『旅眼石』で同年発売されている。
頭を掻いているのが一九(36歳)。薬の効果はてきめんで、途方もなくよい種本ができあがった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

going to snowy country to eat 1

2011-02-16 | trip
        
この旨そうなラーメンは、右が富山市の新しい名物グルメ「とやま黒らーめん」。東京のラーメン大会で2年連続優勝したものだそうです。
富山へは寒ブリを食べに行ったのですが、旅行計画を立てている時ガイドブックにこのラーメンが載っていて、どうせだから食べようと駅前にあるラーメン屋へ入りました。
ハーフサイズ500円というのがあったので、塩らーめんと両方食べてみました。
        
ブラックらーめんは、焦がし醤油のほのかな苦味と芳ばしさで、見た目と違って醤油のしょっぱさはありません。塩は白エビが入っていてあっさりした味。どちらも魚介出汁が効いていて美味しかったです。私はクラシックな東京らーめんの味が好きなので、この魚介出汁はヒットだったです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

going to snowy country

2011-02-13 | trip
雪国富山へ行って来ました。
2月に入って少し寒さが緩んだかなと思ったのも束の間。
東京でも吹雪いた日が出発日。
ところが、太平洋側が荒れ模様なのに反して、
北陸は青空なんかでて好い天気。
途中、雪山がきれいだったので車窓からパチリ。
         
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

the illustrations of the edo period culture 2

2011-02-08 | art
***江戸文化の挿絵2―勝川春朗(北斎)***
 葛飾北斎(1760-1849年)と聞いて、大抵パッと頭に浮かぶ絵は「富嶽三十六景 凱風快晴」(通称:赤富士)でしょうか。私は北斎85歳の時完成した「怒濤図 女波」のブラックホールさながらの浪の渦絵が一番好きです。
 90歳まで生きた北斎はあらゆるジャンルの絵画を描いています。6歳から絵を描くようになり、14歳で木版彫刻術(彫り摺りのコツ)を学び、貸本屋の小僧として働きそこで絵を独習したそうです。
 19歳で彫師より画工になることに決めた北斎は勝川春章に入門し勝川春朗と号しました。20歳代の春朗(北斎)は、2流戯作者の挿絵を描いたり、春町や京伝と同じように、自らも戯作することに熱中していたそうです。しかし、春町や京伝はたまた馬琴や一九などのように戯作の才能はなく、下手だったようです。そして浮世絵の方に天職を見出し家業を譲って絵師を職業にします。
          
 これは、山東京伝作『昔々桃太郎発端話説(ももたろうほつたんばなし)』1792年蔦屋刊の挿絵で、描いたのは32歳の春朗時代の北斎(36歳で二代目宗理を襲名)です。
 このお話は「舌切り雀」がベースになっているので雀が擬人化されて描かれています。人物はあまり魅力的ではありませんが、動物はさすがに上手いです。後ろの衝立の画には京伝の弟子・鬼武の署名があります。
          
 そして北斎といえば、妖怪画も有名ですが、ここにでてくる化物妖怪はまさしく北斎タッチの化物妖怪たちです。春町、京伝、清長、歌麿などと比べると春朗(北斎)の挿絵は明らかにタッチが異なっていて、今風に云えば劇画っぽいと思います。
 この頃は、「江都両国橋夕涼花火之図」など江戸名所図も手懸けていて、風景版画の出発点の時期でもありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

the illustrations of the edo period culture 1

2011-02-07 | art
***江戸文化の挿絵1―鳥居清長***
山東京伝の草双紙の挿絵を担当した絵師は、既に師匠の北尾重政のように超一流画工もいれば勝川春朗と名のっていた若かりし北斎なんかもいて、肉筆画や錦絵(多色刷り木版画)と比べると,単色なだけに「美しい」とか「芸術的」だとかいう感覚とは違う見方ができるので、絵草紙の挿絵は細かく見ると絵師の個性がよくわかって興味深いです。
             
山東京伝作『九界十年色地獄(くかいじゅうねんいろじごく)』1791年鶴屋刊の挿絵を描いたのは、天明期の美人画界を風靡した鳥居清長(1752-1815年)。
この戯作はタイトルからわかるように、遊廓での女郎の生活を描いたノンフィクション問題作(暴露本っすね)。上の画像は、遊廓に身売りした少女が主人(閻魔さまの姿をしている)に吟味されている図。可憐な乙女の嫌そうな表情がよく出ています。
               
晴れて花魁になっても、辛いことはいっぱい。暑い最中の花魁道中では、ししどの汗が流れます。時代劇ドラマでは夏でも冬でも花魁は同じような出で立ちだし涼しい顔しているので、どうだったんだろう…と思ってましたが、やっぱり現実は今も昔も変わりなかったのです。
汗さえなければ、良い美人画になるだろうに。
         
恥ずかしがって「水揚げ」を嫌がる娘は、遣手婆(やりてばばあ)が折檻して面の皮を剥ぎます。う~こわ~い。
               
小刀針を持った遣手婆に追っかけられることも。でも逃げる女郎の表情は怖がってません。実はこの女郎は仕事でズルしてたのを見つかった為折檻されそうになっているのです。でももう慣れっこになっているから「これから供部屋(客のお供が控えている部屋)へ逃げ込もう」と企んで平気で逃げているのです。遣手婆はいつも損な役。
          
ズルしたりサボったりするのうらく者はどこの世界にもいるものです。
色と酒に溺れて借金地獄になった女郎のところへ借金取りたちが押し寄せます。しかし女郎は裸ひとつで支払えぬ首でも持って行けと開き直ってキセルをぷか~。借金取りも呆れるその姿で「これでも体中を顔だと思えば平気さ。おまんまの代わりに風邪薬を食べれば風邪もひかない」とどこまでもふてぶてしい。
遊女は稼いでもなんだかんだと出費も多いので、常にお金が欲しいと思っています。そんな彼女たちは梅が枝(浄瑠璃『ひらかな盛衰記』に登場する遊女)の真似をして欲しいものを願います。
     
静岡県掛川市にある無間山観泉寺の鐘を撞くと、来世は無間地獄へ堕ちるが現世では金持ちになれるという伝説があり、『ひらかな盛衰記』四段目に登場する遊女・梅が枝は、この鐘になぞらえて手水鉢を打つと、三百両の金が落ちてくるという場面がこの当時有名だったようです。前出の『箱入娘面屋人魚』でも人魚が梅が枝の真似をする場面がでてきます。京伝お気に入りの場面だったのかもしれません。
この絵は清長らしい美人画の雰囲気が漂っています。彼は鈴木春信や北尾重政(京伝の絵の師匠)から美人画の作風を学んでいたそうで、恋川春町のキャラと同じくふっくらしたとぼけた表情が好きです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

edo

2011-02-03 | Edo
blogに江戸江戸と書いていたら、意外な人から江戸情報をもらいました。
名古屋市博物館で売っている幕末 城下町名古屋復元マップ(明治元年頃写)なる3枚1セットの地図。幕末の尾張(名古屋城南~東くらいの範囲)を西部・南部・東部に分けて詳しく記してあるのですが、貸本屋大野屋大惣は載ってないよと言われましたが、譲っていただきました。載っていないので、所在地が載っている地図をコピーしてくれていました。江戸時代の住所を頼りに行った場所から少し離れていましたが、だいたい同じような感じの地区で、現在は駐車場だそうです。まぁ、仕方ないです。よっぽどの重要文化財じゃない限り保存などしてませんからね。何も残っていなくても、嘗てそこにそれがあったこと、そして江戸人たちがそこへ来ていたことを想像してみると、見えてくるんです。着物を着て髷を結った人々が忙しそうに行ったり来たりする姿が。もっと妄想力を働かせると当時の匂いも嗅ぐことができます。
大野屋大惣の載っていた地図には、もうひとつ重要な場所が記してありました。大野屋大惣の斜め下に永楽屋東四郎の文字が!こんな近いところだったんだ~。
私ひとり興奮してその後古地図を眺めること数時間。名古屋市博物館、あったかくなったら行こ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

the ume blossoms

2011-02-01 | photo
               
                  人はいさ 心もし
                         らず
                  ふるさとは
                      花ぞ
                       むかしの
                  香に
                     にほひける

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする