Ikku shows how to put the comics on the market
***江戸文化の挿絵5―十返舎一九***
『的中地本問屋』も佳境に入ってきました。これまでの作業能率アップには薬を使っていましたが、ここに来て一九先輩策が尽きたか、何だか趣向が怪しくなっていきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/6a/e4eab76c4379fe7dbf549e2aaae8432a.jpg)
難しい表紙掛けの作業を早くするような妙薬を思いつかなかった村田屋は、思いつきで太鼓を叩いて囃したてると、子供らは面白がって拍子(表紙にかけた)に合わせて夢中になって夜中まで仕事をした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/f7/d1e62af87d64b92ea099daa36a607651.jpg)
草紙を綴じるのは女の仕事なのだが、埒が明かないだろうと思った村田屋は思案して、中国の伝説にある七曲りの玉へ蟻を使って糸を通す方法を実験してみるが、それが机上の空論であることが解って、結局は口も八丁手も八丁(お喋りも手作業も達者)な女達に綴じさせ間に合わせた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/e2/e4fbb8fb6e546f519c93177292d372d4.jpg)
草紙売り出しの日は、競(せり:品物を背負って歩く売り子)を使って江戸中の本屋へ卸させるが、この競の手合に、足の速い神様・韋駄天(いだてん)のお守りを持たせて走らせたところ、草紙を出すとすぐ売り切れるのでまた背負って走って…を繰り返して一日中江戸中卸して回った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e7/9deb31ad798f9ace2a0878ba44d66a8f.jpg)
村田屋の店先はお客が大挙して訪れ、製本が追いつかず、自分で綴じるからそのままくれというお客もいる。
この左ページの上の余白が不自然で、文も「イヤ、今摺っております」と云ふに、「いや、摺らずともよふござる。そのまゝで下せへ」と で終わっていて尻切れなので、行事改め(検閲)で削られたのではないかと推測されています。では何が描かれていたのでしょう?構図から見て、削除されたのは明らかに文章でしょう。
この話の内容からピンとくるのは、1788年蔦屋から朋誠堂喜三二の『文武両道万石通(ぶんぶりょうどうまんごくどおし)』が発売された時の状況です。『文武両道万石通』は蔦重が黄表紙に初めて政治風刺性を取り入れ、飛ぶように売れた草双紙であると同時に、時の政権・松平定信の怒りを買った問題作でもありました。このことを匂わすような内容だったんじゃないでしょうか。
一九は1781年16歳で江戸の何某侯に仕えて、1788年24歳の時小田切土佐守に仕えて大坂へ移ります(一九は駿河の下級武士の長男)。『文武~』の発売は1788年正月なので、その時まだ一九は江戸に居てこの騒動を目の当たりにしたか、ひょっとしたら彼自身蔦屋で買い求めようとした輩だったかもしれません。
栄邑堂の日除けの手前の看板の一番右に「五十三次 馬士の歌袋 十返舎作 全五冊出来」とありますが、これは構想が変わってあの代表作『浮世道中膝栗毛』として発売されたと推察されています。『馬士の歌袋』は『旅眼石』の改題再板本のタイトルとして復活しているそうです。
本文に戻りましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/61/7a0a9ba671164b64414589c291dcac78.jpg)
草草紙の発売日には蕎麦を食べて祝うのが慣例だったので、一九も村田屋へ呼ばれてご馳走に与った。好物なのでいくらでも食い放題で、今年から身代(資産)も蕎麦みたいに伸びるめでたい徴。
「版元もめでたい。おいらもめでたい」
おしまい。
***江戸文化の挿絵5―十返舎一九***
『的中地本問屋』も佳境に入ってきました。これまでの作業能率アップには薬を使っていましたが、ここに来て一九先輩策が尽きたか、何だか趣向が怪しくなっていきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/6a/e4eab76c4379fe7dbf549e2aaae8432a.jpg)
難しい表紙掛けの作業を早くするような妙薬を思いつかなかった村田屋は、思いつきで太鼓を叩いて囃したてると、子供らは面白がって拍子(表紙にかけた)に合わせて夢中になって夜中まで仕事をした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/f7/d1e62af87d64b92ea099daa36a607651.jpg)
草紙を綴じるのは女の仕事なのだが、埒が明かないだろうと思った村田屋は思案して、中国の伝説にある七曲りの玉へ蟻を使って糸を通す方法を実験してみるが、それが机上の空論であることが解って、結局は口も八丁手も八丁(お喋りも手作業も達者)な女達に綴じさせ間に合わせた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/e2/e4fbb8fb6e546f519c93177292d372d4.jpg)
草紙売り出しの日は、競(せり:品物を背負って歩く売り子)を使って江戸中の本屋へ卸させるが、この競の手合に、足の速い神様・韋駄天(いだてん)のお守りを持たせて走らせたところ、草紙を出すとすぐ売り切れるのでまた背負って走って…を繰り返して一日中江戸中卸して回った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e7/9deb31ad798f9ace2a0878ba44d66a8f.jpg)
村田屋の店先はお客が大挙して訪れ、製本が追いつかず、自分で綴じるからそのままくれというお客もいる。
この左ページの上の余白が不自然で、文も「イヤ、今摺っております」と云ふに、「いや、摺らずともよふござる。そのまゝで下せへ」と で終わっていて尻切れなので、行事改め(検閲)で削られたのではないかと推測されています。では何が描かれていたのでしょう?構図から見て、削除されたのは明らかに文章でしょう。
この話の内容からピンとくるのは、1788年蔦屋から朋誠堂喜三二の『文武両道万石通(ぶんぶりょうどうまんごくどおし)』が発売された時の状況です。『文武両道万石通』は蔦重が黄表紙に初めて政治風刺性を取り入れ、飛ぶように売れた草双紙であると同時に、時の政権・松平定信の怒りを買った問題作でもありました。このことを匂わすような内容だったんじゃないでしょうか。
一九は1781年16歳で江戸の何某侯に仕えて、1788年24歳の時小田切土佐守に仕えて大坂へ移ります(一九は駿河の下級武士の長男)。『文武~』の発売は1788年正月なので、その時まだ一九は江戸に居てこの騒動を目の当たりにしたか、ひょっとしたら彼自身蔦屋で買い求めようとした輩だったかもしれません。
栄邑堂の日除けの手前の看板の一番右に「五十三次 馬士の歌袋 十返舎作 全五冊出来」とありますが、これは構想が変わってあの代表作『浮世道中膝栗毛』として発売されたと推察されています。『馬士の歌袋』は『旅眼石』の改題再板本のタイトルとして復活しているそうです。
本文に戻りましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/61/7a0a9ba671164b64414589c291dcac78.jpg)
草草紙の発売日には蕎麦を食べて祝うのが慣例だったので、一九も村田屋へ呼ばれてご馳走に与った。好物なのでいくらでも食い放題で、今年から身代(資産)も蕎麦みたいに伸びるめでたい徴。
「版元もめでたい。おいらもめでたい」
おしまい。