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2009-08-04 | art
            蔦屋重三郎 1750-1797 「耕書堂」書店店主

江戸東京博物館へ行ったのは、十返舎一九関係に触れたいが為だった。たまたま寄った特別展で「写楽ミステリー」にハマリ、一九ファンの私は「だったらいいな」予想で、写楽の正体は一九だった!と言いたかった。
ところがどっこい、調べていくと有力だと思われた「一九説」は、あっけなく沈没。代わりに浮上したのが出版側の蔦屋重三郎だった。

ネット検索では彼に関する詳しい情報が少なかったので、物的証拠(蔦重の描いた絵が残っているとか、趣味が浮世絵だったなどの記述)があるか否かが摑めず、後はつじつま合わせになってしまう。しかし「蔦屋重三郎説」は男のロマン説であるかもしれない、、、

写楽デビュー3年前、風紀取締りで罰金刑を受けた「耕書堂」店主・蔦重は、店の再起の為今後の事業計画を綿密に立てたことだろう。なんせ、生まれた吉原に小さな書店を開き吉原細見(遊郭ガイドブック)の出版販売からスタートして10年で日本橋に店を移転し、有力出版&書店の仲間入りを果たした敏腕青年起業家である。江戸文化のパイオニアとして様々な情報・流行に精通し人脈を張り巡らしていただろう。そして店の為に有益な事業計画を立てたに違いない。
最初に足がかりにした企画は、売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙本の刊行だった。売れっ子作家の廉価本なので売れたんだろう。
翌年喜多川歌麿(浮世絵師)をデビューさせている。これも成功した。その2年後に「耕書堂」をオープンし日本橋に進出。その後、耕書=書を耕すというコンセプト通り、才能ある浮世絵師や作家を発掘しデビューさせた。
しかし、彼はむやみやたらに新人をバックアップしデビューさせてはいなかった。どうやらとても堅実に出版業を営んでいたらしい。その甲斐あって耕書堂は5年後には絶頂期を迎える。
ところが年号が寛政になると幕府が「寛政の改革」を行い、耕書堂で販売されていた山東京伝の洒落本が風紀取締りで摘発され、京伝は手鎖50日の刑、蔦重は財産の半分を没収されてしまった。

蔦重にとっては初めての大きな痛手だったかもしれない。罰金刑の他に営業自粛などさせられたかもしれない。しかし、彼は山東京伝の弟子・曲亭馬琴を下宿させたり、翌年には歌麿の雲母(きら)摺りの大首絵、京伝作・春朗(北斎のこと)画の黄表紙を刊行し、処分2年後には馬琴を咄本でデビューさせた。資金繰りをどうしたのかは解らないが、馬琴にしても京伝のバックグラウンドがあるので売れないことはなかっただろう。こうして手堅い商売をするのが蔦重式であった。
それなのに、1794年5月から1795年1月にかけて全く無名で誰のバックアップもない新人の錦絵を売り出したんである。その絵が人々の心を惹くような素晴しい絵だったなら大ヒット間違いなかっただろうが、あいにく不評だった。美化しないで描かれデフォルメされた歌舞伎役者の似顔絵は、役者からもクレームがついた。にもかかわらず10ヶ月にも渡って刊行された。現代なら浮世絵は一枚数万円だが、当時は蕎麦一杯分の価格。錦絵を1枚製作するのに平均いくらかかるのかわからないが、資金が以前ほどあるわけではない財政状況で、手堅い商売を営んできた経営者が一発屋を出すとは考えにくい。失敗を覚悟してまでその錦絵を耕書堂で発売しなければならなかった理由…それは、蔦屋重三郎が死ぬ前に自分の絵を発表したかったからじゃないだろうか。

出版に携わって数十年、江戸文化には敏感だった彼だけに、洒落本書くのだって浮世絵描くのだって狂歌を詠むのだって義太夫だって唄だってセミプロ並みに出来たとしてもおかしくない。一流のアーティストとその作品に囲まれて生活してたんだし。ただ、本名で発表するのは「ダサイ」。そこで洒落た筆名をつけて、親しい人物には「内緒だよ」と念をして、実際に芝居小屋の楽屋へスケッチに行ったりはせずに、誰かの描いた似顔を真似て(写して)絵を描いたのじゃないか。
実際に見ていないから、1795年5月に描いた肉筆画では、役者を四代目を五代目と間違えて記してしまったのではないか。

「死ぬ前にやっておきたかったこと」
蔦重は写楽デビューから3年後に脚気で死亡する。脚気は江戸病といわれたくらい当時死亡率は高かったそうだ。脚気(ビタミンB1欠乏症)は日本や東南アジアに多く発症し、原因は精米された米を食べるようになりビタミンB1が欠乏するようになったからと云われた。昔は玄米など雑穀を食べるよう処方したらしい。蔦重もお金持ちになり贅沢な食事を続けていたのかもしれない。そして徐々に病気は進行する。脚気は心不全を引き起こす。心不全の症状は、運動時の息切れ・呼吸困難・顔手足のむくみ・夜間の呼吸困難・起座呼吸(横になっていると息苦しく、座ると楽になる)など。亡くなる数年前からそんな症状が出ていたのかもしれない。

1794年は蔦重45歳。江戸時代では決して若くない年齢である。死期を悟った人間、特に蔦重のように野心的に生きてきた人間にとっては、最後に自分の一番したかったことを実現してから死にたい、と思うんじゃなかろうか。
蔦重がティーンエイジャーの時大流行した錦絵。その美しい多色摺り版画に憧れ、自分でもそんな浮世絵を描いてみたいと夢みたが、一流になれるほどの画才に恵まれていないことを知り、裏方の仕事をすることを決心する。
少年は青年になり、ひとつずつ夢を実現していく。無名の絵師をデビューさせ成功させた。芸術家や作家の為に力を注いできた。江戸文化の成長に一役かうことができた。
やれることは、やった。

               残るは、少年時代の「夢」。


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