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2015-10-26 | ancient history
朱雀門から平城宮を望む

 鸕野讃良(うののさらら=持統天皇)は、天武天皇との間にもうけた草壁皇子が早世したため、草壁と阿閉(阿陪とも)皇女の長男・軽皇子を天皇にしようと、苦肉の策を練りました。自ら女帝となって、孫が皇位を継いでもおかしくない15歳になった時、「譲位」という異例の業をもって孫の天皇即位を成し遂げ、自分は太上天皇と称して後見役になったのです。その間に大宝律令を完成させ、国際的に通用しうる律令国家を確立させました。そして、文武天皇(孫の軽皇子)と藤原宮子(不比等の娘)の間に長男・首皇子(おびとのみこ)が生まれ、持統上皇は翌年702年58歳で崩御しました。
 自らの血脈を繋ぐべく画策したにもかかわらず、持統崩御の5年後に文武天皇が25歳という若さで亡くなってしまいました。首皇子はまだ幼いので、ここでもまた文武天皇の母・阿閉内親王が元明天皇として即位します。
 この女帝は、左大臣の石上麻呂、右大臣の藤原不比等、大納言の大伴安麻呂、中納言の小野毛野、阿倍宿奈麻呂、中臣意美麻呂、左大弁の巨勢麻呂、式部卿の下毛野古麻呂らを呼んで、「卿らは心に公平を保ち、百寮に率先して努めている。思うに卿らがこのようであるから、天下の平民に至るまで、朕が手をこまねき、襟をゆったり開いたままでも、永久に平和でいることができる。また卿らの子々孫々も各々名誉ある地位を保ち、次々と継承して朝廷に仕えるであろう。この朕の心を体して、各自努力して欲しい。」というような事を言って、阿倍宿奈麻呂・下毛野古麻呂・中臣意美麻呂・巨勢麻呂を昇格させたと『続日本紀』にあります。この時、皇族で呼ばれたのは二品の穂積親王(知太政官事)のみ。つまり、皇族よりも高級官僚の豪族を頼りにしていたと思われます。
 政治の仕組みと法律が整い、次に首都機能を確立するために藤原宮からより広い平城宮に都を遷すための造営事業や、諸国の管理や地方への道路整備など実務的な仕事が多いので、即戦力となる氏族の方が優勢だったのでしょう。
※『続日本紀』で、工事中に古墳が発見されたら、放置せずに埋め戻して、酒を注いで祭り死者の魂を慰めよと命じられていた事が明記されていました。当時既に埋れていた古墳が数多くあって、その上に町を造ったということが解ります。宮だけでも広大な敷地の下に、今でも誰かの古墳が埋まっているのですね。
 平城京が国の首都として機能し、その頂点に立つ「天皇」の権威は更に高まりました。諸国の豪族たちの中には、なぜヤマト政権の大王が「天皇」と名のり権勢をふるうのか、一体何者なんだ、と不満を持つ者がいたのでしょう。特に畿内から遠い場所、九州の南・薩摩国の隼人(はやと)と呼ばれる民族は、素直に中央の法令に従わなかったようです。諸国を統治するには、法令や武力では及ばないものがあって、その国の人々を納得させる何かが必要だと考えたと思います。その「何か」が、天皇の正当性を記した歴史書『日本書紀』なのではないでしょうか。
 『続日本紀』に記述はありませんが、712年に太安万侶が『古事記』を元明天皇に献上しています。翌年『風土記』の編纂が命じられます。『続日本紀』では、郡内で産出する鉱物や生息する動植物、土地が肥沃かどうか、山・川・原野の名称のいわれ、古老が伝承している旧聞や変わった事柄を報告する命令が出されています。この報告書は、年貢の取り立てなどに利用する為だったのかもしれませんが、『日本書紀』の資料になった可能性もあると思います。
 いつ、舎人親王が元明天皇から『日本書紀』の編纂を命じられたのか、『続日本紀』には書いてありませんが、私は713~14年辺りだったのではないかと思います。というのも、藤原不比等など豪族が牛耳っていた朝廷に、少しずつ皇族の力が盛り返してきたような記述がみられるからです。
 和銅六年(713)四月二十五日に、「人物の才能を評定し、優劣によって上げたり降したりするのは、式部省の任務であり、その責任は他の省よりも重い。式部長官が不在であったなら、そのことを議論してはならぬ。」と天皇の制する言がありました。式部卿は、天武天皇の孫・長屋王。翌年714年正月、長屋王は百戸の封戸、二品の長親王・舎人親王・新田部親王と三品の志貴親王に二百戸ずつ封戸が与えられています。
 さらに注目は、二品の氷高内親王(元明天皇と草壁皇子の長女、後の元正天皇)が食封千戸を賜っているところです。また、この年の六月には首皇子(後の聖武天皇)が14歳になり元服。翌年の正月の朝賀に、初めて礼服を着て出席した、と書かれてあります。知太政官事の穂積親王は一品に。三品の志紀親王は二品に。そして、氷高内親王は一品(皇族の最高位)になりました。彼女は、同年九月に実母の元明天皇から譲位されて元正天皇となります。(弟の首皇太子がまだ15歳のため)
 さて、舎人親王は、というと・・・
 715年に、長親王(たぶん舎人親王の異母兄)と一品知太政官事・穂積親王が相次いで死去。
716年には、天智天皇の息子・志貴親王(舎人親王より年上)も亡くなります。※太安万侶(従四位下)が氏長(うじのかみ=氏上)に就任。
 しかし、次の知太政官事の任命は記されていませんし、舎人親王の名が再び登場するのは716年、舎人親王に一品が授けられたという記事のみです。
 知太政官事には任命されませんが、719年に新田部親王とともに首皇太子(18歳)の護衛と補佐を任されます。元正天皇いわく「歴代天皇を考えてみると、大きな事業を継承するのは、まさに皇太子である。そして皇太子が意のままに成務にのぞむには、補佐する人材があって運行を安定させることができる。そこで舎人親王・新田部親王は、城の磐石のような重みを国家に加えてくれる。清廉・正直を発揮して、大切な子孫を助け、仁義を扶助して幼年の皇太子をたすけるように。両親王はこの立場をよく考えて慎まなければならぬ。今、この二人の親王は、皇室の年長者でもあり、朕にとっても重要な人物である。まことに褒賞を加えて、優れていることを表彰すべきである」。この年舎人親王は43歳。天皇の「清廉 正直を発揮して」という言葉が意味深に聞こえますが、とにかく彼らは天皇に従いました。
 翌年、720年五月二十一日、勅を受けていた日本紀の編纂が完成し、天皇に奏上しました。約二ヶ月半後、正二位右大臣の藤原不比等が亡くなります。何故か翌日、舎人親王は知太政官事に、新田部親王は宮廷護衛軍の総括役に任ぜられました。
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finding hohodemi 3

2015-10-01 | ancient history
『続日本紀』全現代語訳 宇治谷 孟
講談社学術文庫 1992年刊

 『日本書紀』については、書紀に次ぐ六国史の一つ『続日本紀』に言及されています。
 『続日本紀』は、第42代文武天皇~50代桓武天皇の途中(西暦697年~791年)までの95年間の歴史を、40巻にまとめた勅撰史書で、794年から撰修が始められ797年に完成しました。撰者については、巻第一の冒頭に「従四位下の行民部大輔(ぎょうみんぶたいふ)兼左兵衛督(さひょうえのかみ)皇太子学士臣菅野朝臣真道(しんすがののあそんまみち)ら勅(みことのり)を奉じて撰す」と明記してあります。
 『日本書紀』の撰者・舎人親王は、誕生が676年なので、文武天皇即位の年は21歳になります。亡くなったのが735年ですから、舎人親王の半生は『続日本紀』の中に含まれます。故宇治谷先生の現代語訳本は、全40巻の内容を文庫3冊にまとめた本で、舎人親王が登場するのは上巻のみです。『日本書紀』の編纂を完成させる19年前に、新しい行政法に基づいて官名と位号の制を改正がありました。701年の3月、対馬島がヤマト朝廷に金を貢いだので、元号を「大宝」に改めました。『続日本紀』には、「初めて新令(りょう)に基づいて、官名と位号の制を改正した」と書いてあるので、新令(=大宝令)は大宝年以前に制定されていたということなのでしょうか。
 親王(天皇の兄弟or皇子、皇女は内親王)に与えた等級は一品(ぽん)~四品(ほん)、その他の皇族(王)は正一位~従五位下、皇族の位階は合計十八階とするとなっています。舎人親王はこの時25歳。何品だろうか、と探すも出てきません。代わりに「三品の刑部親王(おさかべしんのう:天武天皇の第九皇子。忍壁皇子?)」というのが目立ちます。
 氏族では「正三位の藤原不比等」。文武天皇の時代ですが、前天皇の持統もまだ健在だった大宝元年、不比等の長女で文武天皇の夫人・宮子に首皇子(おびとのみこ:聖武天皇)が誕生したりと、不比等全盛期だったことがうかがえます。
 次に出てくるのが「二品の穂積親王」。この親王は、天武の第五皇子で母方が蘇我系、715年に一品・知太政官事という高い地位で亡くなりますが、享年40代前半ではないかと云われています。これが本当なら舎人親王と年が近いので、位号の改正時、舎人親王は最低三品はもらっていたのではないかと推測しました。702年に持統天皇が崩御しましたが、天武の第三皇子・舎人親王(血は繋がらないが甥にあたる)の名は出てきません。「親王以下百官の人たちは…・」に含まれているのでしょう。
 703年には、「正六位下の藤原房前(ふささき:不比等の次男)」の名が冒頭に挙がっています。三品の刑部親王は太政官の長官(知太政官事)に任じられました。天智天皇の第七皇子・志紀(志貴)親王は四品ですが、鉄鉱石のとれる場所を賜ったり、御竈(みかまど)を造る長官に出世する記載が見えますが、舎人親王の名はどこにもありません。
 その名が初めて登場するのは、704年の正月に品位(ほんい)のある親王に封戸(ふこ)を増加した箇所です。そこには、二品の長親王・舎人親王・穂積親王、三品の刑部親王・新田部親王、四品の志紀親王の名が挙げられていました。この時、舎人親王は27歳。同じ品位の穂積親王より先に名前が書いてあるところを考えると、年齢が下でも出自が良い(生母の地位が高い)のかと思い調べてみました。
 年齢順だと、刑部親王・志紀親王・長親王・穂積親王・舎人親王・新田部親王だと思うのですが。舎人親王の母は、天智天皇の娘・新田部皇女で、筆頭に挙がっていた長親王の母も、天智天皇の娘・大江皇女。母親が同じ天智系であるので、ここは年齢序列。舎人親王より少し年上に思われる穂積親王の母は、氏族・蘇我赤兄(そがのあかえ:蘇我馬子の孫。19歳の有間皇子を陥れたり、壬申の乱で大友皇子側につき、大海人皇子軍と対決した時敗走し、大友皇子を死に追いやった。)の娘なので、同じ二品の中でも3番目なのでしょう。
 官職では一番高い位についている刑部(忍壁)親王が三品なのは、母が有力ではない氏族出身だから。この中で唯一天智天皇の皇子・志紀(志貴)親王が四品からスタートしているのは、天智系という理由でしょうか。『続日本紀』には、各親王に第○皇子と番号がついていますが、これは第一子、二子…という意味ではないようです。
 天武天皇の皇子は長男が高市皇子、次男が草壁皇子、三男は大津皇子、そして天智天皇崩御後、天武天皇(大海人皇子)が鵜野讃良(うののさらら:後の持統天皇)たちを率いて吉野へ隠棲していた時、一同の結束を図るため皇子たち(その中に天智天皇の皇子もいた)に誓わせた中に、忍壁(刑部)皇子と志貴(志紀)皇子がいた事から、四男は刑部親王だったと思います。この時舎人親王は3歳のはずです。
 『続日本紀』中での第○皇子表記は、『続日本紀』の記録が始まる697年時点で生存している親王で数えたのでしょうか。それにしても、705年に刑部親王(この箇所だけ"忍壁"表記になっている)が死去した箇所に、第九皇子と書いてあるのは謎です。
 知太政官事だった刑部親王が亡くなったので、二品の穂積親王が任ぜられました。しかし、穂積親王はあまり力がなかったのでしょうか、翌年「知太政官事・二品の穂積親王の季禄(春秋の現物給与)は右大臣に準じて支給すること」にされてしまいました。707年の章には、不比等を褒め称えるような記述があり、文武天皇が崩御し、文武の母親・阿閉皇女(あえのひめみこ)が元明天皇として即位すると、藤原不比等が右大臣に出世します。その後、品位のある親王の記述がぐっと減るので、藤原氏が皇族勢を抑えていたのかと推測できます。皇族で唯一頑張っているのが、長屋王(親王ではないので、位階は従三位。天武天皇の長男・故高市皇子の息子)で、710年に式部卿に任じられています。親王たちに封戸が与えられるのは、714年までなかった模様です。
 
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