TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

panda's exercise

2012-09-25 | prose

だらしなく寝っころがってるって?!


ボクだって腹筋くらいできるんダ。うんしょ、うんしょ。


ああ疲れた~。
赤ちゃんはいいよねぇ、ずっと寝てられて。

生後1ヶ月ちょっと。白黒はっきりしてきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

a day in panda's life

2012-09-21 | prose
 昔、上野動物園へパンダを見に行ったことがありました。当時はパンダ1頭だったかよく憶えていませんが、なんだか薄汚くてほとんど動かないパンダでした。隣りにレッサーパンダがいて、そっちのほうが可愛かったという記憶があります。
 あれから何年…今年8月10日に生まれた赤ちゃんパンダを見に、和歌山アドベンチャーワールドへ行きました。そこで見た、パンダたちの愛くるしい動きには、ほんとうに癒されました。

 哀愁を帯びた背中が印象的でした。
ああ、今日も仕事かよ。めっちゃうざいなぁ。
うぉぉぉ腹へった腹へった。早くメシ持ってこんかぃ! 

よしよし、わてコレが欲しかったんや。

 うひょうひょ、うんまいわぁ、たまらんな~。岸和田産の笹竹かぁ?

おっといかんわ。客が見とるで可愛く食べんとな。

    めはり寿司のような糞
食うたら、うんちして―

ZZZ・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

after reading 『Ikku's travels』

2012-09-15 | bookshelf
 十返舎一九が、1815年文化12年に名古屋の書肆・松屋善兵衛宅を訪問し、そこで執筆・出版された『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』を読み終えて、読む前は「記行」というタイトルから「紀行文」、つまり一九先輩が秋葉山と鳳来寺へ行った道中を綴った作品だと思っていたのが、全く思い違いだったと判りました。
 『一九之記行』は自序と跋に因れば、この年の7月(旧暦なので現代では秋に相当)江戸を出発、東海道を歩いて掛川宿から秋葉街道へ入り、秋葉神社へ詣で、その後鳳来寺へ参詣し、鳳来寺街道を下って御油の追分から再び東海道に入って、名古屋の松屋善兵衛の屋敷に10日程逗留しました。松屋から、秋葉山鳳来寺の記行を書いてくれと所望され、江戸から行く道順と逆の名古屋からの帰路に立ち寄るという筋書きにして欲しい、更に、『膝栗毛』の弥次郎・喜多八の俳語滑稽風な作品に、と注文を付けられます。尾張滞留中の急迫の仕事だった、そうです。
 ですから、本編は作者の一九が主人公ですが、全てはフィクションだったのです。
 弥次郎兵衛にあたるのが一九本人。喜多八にあたるのは、多分途中から道連れになった同国出身者・権八。そしてもう1人喜多八的存在として、一九の荷物持ち・清治がいます。
 一九は前年の1814年に『膝栗毛』の発端(弥次郎と喜多八が何者であるのか、旅に出るまでのいきさつを描く。もちろんこの頃は『膝栗毛』は完結し、『続膝栗毛』も五編めを出版しています。)を出版して、自ら江戸っ子じゃなく駿河者だと暴露しているので、『一九之記行』でも駿河出身だとしています。ですから、全てがウソではありませんが、途中途中で起こす騒ぎやしくじりは、一九の創作だと考えて間違いないと思います。
 一九が実際旅した道程を逆から書いていった話は、『続膝栗毛』がそうでした。また、『東海道中膝栗毛』や『続膝栗毛』の各宿場で起こった事は、必ずしもその宿場で起こった事ではなく、別の場所で起こった事や人から聞いた可笑しな話にヒントを得て、そこでのエピソードにしていました。『一九之記行』もこれと同じ手法が使われていると思います。そしてそのエピソードも、既作品の焼き直しばかりで、その件は一九も跋で弁明しています。
 それ故、『一九之記行』は紀行文ではなくフィクションの滑稽譚なのですが、『膝栗毛』の作者というイメージから、いかにも有り得そう…という気がしてしまいます。

 文庫本には解説が載っていますが、そこで解説者(編者)が「本作の場合は、その執筆依頼が急であること、しかも依頼された現地で短期間のうちに仕上げるという忙しい作品であったために、本作執筆のために、わざわざ実地踏査をした結果、成立したものではないようである。なんとなれば、本作に次のようなやりとりがある。」として、本作「嘉兵:ソレ見さつせへ。わてぃ六十七でや。わしよりかふたつうへだがなァ。そんじやァいこ、わかい人でや。一九:若くなくてどふするもので。ほんとうの所は、ことし四十八になりやす」をいう会話を挙げて、「この箇所が一九の実年齢をそのまま述べてるのであれば、48歳の時の作品であることになり、さもなければ、本坂越え(掛川~秋葉山ルート)を経験した時の年齢と考えられる。というのは、本作執筆時である文化十二年には、一九は五十一歳であるからである。」(本文部分省略)と推察していました。
 私はこれには「??」でした。なぜなら、一九は『続膝栗毛』で実地踏査なしで『金毘羅参詣』『宮嶋参詣』編を執筆しています。金毘羅も宮嶋も一九がまだ武士として大坂で勤務していた時期に(多分)仕事で行ったに過ぎず、記憶も曖昧ながらも書いたものでした。しかし、『一九之記行』では跋文に「予茲年(ことし)当山に参詣し。それより三州鳳来寺にいたるに。是亦無双の名刹にして。宝閣金塔眼をおどろかすの壮観たり。」と明記しています。当山とは秋葉山のことで、それから三河鳳来寺へ参ったと記しているのです。
 いくら文中での年齢(執筆時、本当は51歳でした。)が違っていても、一九が物語中で年齢のサバを読んだというのも有り得そうです。むしろ私は、文中の年齢の方が出鱈目だと思います。なぜなら、一九はフィクションを書いてるからで、そこでプロフィールを全て明かす必要はなく、ひょっとしたら若くみられたいと思って書いたかも知れませんし、読者からの反応を期待した悪戯心かも知れないからです。
 それに、この年、何故一九は名古屋へ行ったのかを考えると、ただ松屋善兵衛に招待されたから…という理由も首をひねります。東海道は何度も往復している一九のことです、歩いたことの無い街道、しかも当時頻繁に旅人が行き来していた古刹参詣の道を歩いてみたいと一九は考えたに違いありません。あるいは、秋葉神社と鳳来寺参詣が目的で、尾張へ旅した可能性も考えられます。
 推察としては、序と跋の他の記述を正しいとして、「今年当山に参詣し、それより三州鳳来寺にいたる」の部分だけを偽とするのも、おかしな事だと思います。

 素人の分際で偉そうな反論かもしれませんが、解説のその部分だけが凄く引っかかりました。

 『一九之記行』中、鳳来寺から秋葉山へ向かう宿場に、さい川を斎川と当ててますが、現在の地名表記は西川。また、石打は石内の間違いだと思います。秋葉街道は代表的なもので3ルートほどもあるらしく、信濃方面からのルートに石打という同じ音の宿場があります。一九先輩は、地名を地元民に聞いても、漢字があやふやだったのだと思います。それで執筆する時、当て字で綴ったのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ikku's Travels 6

2012-09-13 | bookshelf
一九(右)と褌を洗う権八
挿絵には描かれてないが、下手で清治が顔を洗っている

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』下編

 鳳来寺から秋葉神社へ向かう山道の途中、神沢(かんざわ)宿を過ぎた一九ら一行は、しゃべりながら歩いていく地元民の話を耳にします。40年掛けの無尽の話を聞いた一九は驚いて、思わず声を掛けます。すると、田舎は江戸より長生きをするといって、長寿自慢をされました。お前は幾つだと聞かれたので、一九はからかって「69」と言いましたが、実年齢は48歳だと明かしました。(この話執筆時は51歳。)
 おしゃべりしている内に石打へ着き、地元民は脇道に去っていきました。一九らは、さい川宿まで行き、そこで泊まることにしました。入った宿屋はとっ散らかって、絵も逆さに表具してあるようなむさくるしい部屋でしたが、崖に建ってる家なので、下にはさい川の枝川が流れ素晴らしい景色でした。聞けばこの川では鮎が捕れるといいます。夕食と風呂も済みくつろんでいると、宿の亭主が縁側に掛けてある鮎を捕る網を外していくのを見て、3人も夜網を見ようと亭主の後に付いて行きました。
 崖の下まで降りた清治は、綺麗な水を見て、顔を洗い口をすすぎますが、上流で褌を洗っている権八を見つけて、「イヤおまへわしをとんだ目に合わせた。どおりで、水があぶら臭くておかしな匂いがすると思った。アア汚ねへ汚ねへ。」権「ハハハハハ。わし金玉の油が頭(づ)ないで、その水を飲んだらさぞ旨からずいやァ(旨いだろうなぁ)。」清「ヱヽペッペ。私も褌を洗おうと思って、外して柳ごりの後ろに置いて、忘れて来やした。」
 それを見て笑っていた一九ですが、亭主を見失い、寒くもなってきたので帰ることにしました。帰り道に柿畑を通り、月夜に柿の実がたわわに実っているのを見て、こっそり取って懐に入れた所で、番人に見つかり3人は慌てて逃げ出します。木に登って取っていた一九は、木から落っこちながらも逃げ隠れました。逃げ遅れた権八は、畑にあった新しい肥桶の中に飛び込んで、難を逃れました。
 しばらくすると辺りが静かになったので、権八は桶から出ようとしますが、声がするのでまた肥桶の中へ隠れました。その声は一九と清治でしたが、権八は気付きません。清治が柿はどうしたかと聞くと、一九は木から落ちた時に全部落としてしまった、と言いつつ肥桶の前に立って小便をしました。権八は追っ手だと思っているので、背中に小便がかかっても息を殺して小さくなっていました。
 「コウ清治、アノ権八はどうしたの」と一九と清治の話し声を聞いた権八は、むっくと起きて一九の着物の裾に跳びつきました。驚いた一九と清治は、きゃっと言って一目散に逃げて行きました。

 権八は桶から這い出て、近くの川で着物の背中を洗って、裸のままぶるぶる震えて宿の部屋へ戻りました。その様を見た一九と清治が、どうしたと問うと、権八が事の次第を説明して二人は大笑い。それもこれも、褌を洗った水でうがいをさせたお前が報いだ、と清治が言うと、権八は、褌が洗えたことだけが幸いだった、と言います。
 ところが、実はその褌は、洗おうとして外しておいた清治の褌を権八が間違えて持って行ったものでした。一九と清治は大笑いですが、権八は可哀相に、南無秋葉大権現どうぞわし国元まで恙なく帰れるようにお守りください、と拝んでいる姿も滑稽でした。
 それから3人とも寝ますが、山寺の鐘に驚いて起きると、既に夜明けなので支度をして宿を出ました。
 小便をしかけられたる顔つきはしぶしぶ恥を柿の盗人
斎川の渡しを越えて(現代の地図に斎川はないが、遠江西川という地名がある。斎川は天竜川のことだろう。)
 朝夕にところの人は落鮎をつくりてくふらん飯のさい川
そこから山坂道をたどって戸倉宿(現代も秋葉山の麓の地区名)を打ち過ぎ、秋葉山へ登って行きました。
 ○次編には、秋葉山で「通夜とまりの滑稽」「国々の同者交えての話の間違いからでた災難」「犬居宿の喧嘩」「四十八瀬の急難」「森町(静岡県)で落馬したおかしみ」など草稿が出来ていて、来年春出版する予定なので宜しくお頼み申し上げます。
『一九之記行』終

※文末に予告した「秋葉山編」は、どうやらボツになったようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ikku's Travels 5

2012-09-10 | bookshelf
『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』下編
 
 秋の日は短いので急ぎ足で歩き、多喜川(不明)の渡しを越えて門谷に着いた頃は、暗くなっていました。一九ら3人は、相応の宿を探し入ると、そこはお客も少なくて思いの外よい宿でした。お風呂も入り夕食もすんだ所で、宿の主の婆が挨拶にやってきました。
 その婆は、自分の娘を見合いさせようと思っていたら、念頃(ねんごろ)にしていた男と駈落ちしてしまったので、困っていました。一九が若くて美しい器量の娘かと尋ねると、歳は57で、目がかんち(片目)で三ツ口の疵があるという。それでも娘は自分から見れば若いし、駈落ちした男に女郎にでも売られたらと心配で堪らない、と婆が言うので、一九達は「そんな心配はいらない」と言って笑います。
 そこへ、男に顔を斬られた娘が近所の人に運ばれて来ました。医者が呼ばれましたが、婆は気が動転して泣くばかり。命に係わるほどでなく、医者が疵を縫って膏薬を貼って処置しました。それを覗き見ていた権八が、「わしハイ、尻にねぶと(おでき)ができて、やぶせったい(駿河弁?)から、医者どんに膏薬はってもらはずいやァ(もらいたいなぁ)」と宿の人に頼んでもらい、医者に診てもらいました。
 医者は膏薬が24文で張替え用が50文になる、と言って権八に尻を捲らせて診察します。
医「コリャでかい膿じゃ。針で突いて吸い出さにゃならん。商売だから吸いもするが、いこ汚いケツでや。先ず根太を針で突こう。」権「アイタアイタ」。
 それから、吸いやすいように肩の方へ尻を突き出させ、吸出しにかかります。
医「エエ見りゃ見るほど、むさい尻でや。そしてゑらい毛むくじゃらでなァ。(尻毛が鼻に入り)ハアくっしゃみくっしゃみ。」
 と、権八可笑しくて噴出した拍子に、尻からブウゥゥゥと屁をひります。
医「エエコリャひどいめにあわせる。わしの鼻先へまともにやったな。アアくさいくさい。」
と顔をしかめるのを見て、一九可笑しくて皆大笑い。
 お療治のお手際見えて根太なるうみもろともに屁をもすひ出す
一九のこの狂歌に腹が痛むほど大笑いして、医者も笑いながら帰って行きました。その後皆寝て、翌日、煙厳山(えんかんざん)鳳来寺へ詣でました。
 荘厳な御宮諸堂を見て、3人は行者越(ぎょうじゃごえ)と云われる道を50丁下って、板敷川(現・宇蓮川)を渡り大野宿(JR飯田線に三河大野駅がある)に出ました。隙そうな髪結い床を見つけて、一九は月代を剃ってもらう事にしました。
       田舎の床屋さんはこんな風
 ところが、この髪結い、剃刀と間違えて煙草包丁で剃ろうとしたり、刃が減るのをケチって研いでない剃刀を使い、一九は痛い思いをします。
 月代もそらぬ旅寝の枕もと髪のはへたる虫やなくらむ
 辟易していると、「髪がねばってるから、とろろはどうでや」と髪結いが聞いてきたので、一九が「ナニとろゝ汁かね。ソリャァ大の好物さ」と言うと、「お好きなら、髪につけましょうか」と言います。一九は「とろろは飯にかけて食うものだ」と笑うと、髪結いに「飯にかけたらねばついて食えたもんでない」と笑われます。一九が「とろろ」を見ると、それは鬢かづらと云うもので、この地方ではそれを「とろろ」と云い、食べ物の「とろろ」は「芋汁」と云うのでした。鬢かづらの事を江戸では美男かづらと言いました。
 鳶とんだまちがひなれや鬢かづらつふりにつけるあふら揚とは
 髪結い床から出て、宿はずれの茶屋で待ち合わせしていた権八・清治と落ち合って、保曽川(細川)を過ぎて三河と遠江の境、巣山宿へ到着しました。
 3人は茶屋で鮎と飯を食います。すると地元人が、突然やって来たお役人に出す料理を作ってくれと頼みに来ました。店の者はドジョウがあると言います。居合わせた分別面した親仁が、細江(静岡県)のお爺がドジョウの頭と尾を切って調理して出したら、お役人が喜んだ、と話すと、店の者はドジョウの頭と尾を切りそろえようとしますが、ドジョウはぬるぬるして大騒ぎ。それを見ていた一九が「イヤはや御丁寧なことだ。感心しやした。」と言うと、店主から「前に江戸から来たお客に、猪を泥亀(すっぽん)煮にしてくれと言われて、庄屋殿や党と相談したが判らなくて、お寺に浜松から来ていた彫り物師に頼んで、猪の腿肉をスッポンのように彫刻してもらって煮て出したら、いい細工だとお客は上機嫌だった。」という可笑しな逸話聞かされました。
 それから3人は此処を出て、大平を過ぎてかんざわ(神沢?)宿にやって来ました。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ikku's Travels 4

2012-09-09 | bookshelf
『一九之記行』 十返舎一九著 51歳 1815年文化12年刊 松屋善兵衛板
立場で一服する一九(中央)と荷物持ちの清治

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』上編

 藤川宿を出立し、一九ら3人は早くも赤坂宿、御油宿まで来て、追分から鳳来寺道に入り、大木という所で茶屋を見つけたので休憩することにしました。(大木:現・県道21号豊川新城線を北上、陸上自衛隊日吉原演習場がある一帯)
 中へ入ってみると、狭い家なのに玄関口から人が大勢集まっていて、百万遍(という祈祷念仏。木曾海道膝栗毛にも登場する)を始めていました。一九達が煙草盆やお茶の催促をしても全くお構いなしで、挙句に一緒に百万遍を唱えなさいと言われます。すると連れの権八が「これも不思議な巡り合わせだ」と言って、百万遍の輪の中に入って「なもあァみだァぶつ」。「ハハハハ、こいつも洒落だな」とお供の清治が側へ立ってしばらく見てましたが、やがて座って念仏を唱え始めました。呆れた一九が「もう行こう」と2人を促していると、坊主が気付いて話しかけます。
 この坊主は宗旨が違うのに、頼まれれば百万遍も唱えるし、宮寺の普請の手伝いもすると言います。念仏を唱えていた1人が、久しぶりに坊主の木遣り(材木を運んだりする時に唄う歌)が聴きたいと言い出し、木遣りの合唱が始まる始末。
 唄い終わって念仏も終了したので、一九は親仁に蕎麦かうどんを所望します。すると、親仁はそんなものはない、と答えます。ないものをどうして障子に書いているのかと問うと、その障子は隣りのだと判明。ちょうど境目に建ててあったから茶屋と間違えて入ってしまったのでした。とんだ番狂わせでした。しかし、この先茶屋もなさそうなので、隣りの茶屋に入ってうどんで腹を膨らまして出発しました。やがて清井田という所へ来ました。(清井田:新城市国道151号に清井田交差点というのがある。)
 「かどや」で宿泊しようと計画していましたが、夕方になったので一九はここで泊まろうかと提案します。しかし、権八はまだ明るいから行こうと言います。地元民から「かどやに着く前には暗くなってしまう。この辺は山犬がでるから止めた方がいい。」と助言されますが、権八が「自分の田舎でも山犬はでるが、山犬に出会ったら土下座して、訳を言って助けて下さいと頼めば、聞き分けてくれるという言い伝えがある。嘘みたいだが不思議な獣なんだ。」と言うので、かどやまで行くことにしました。
 ここから道は山道になり、早足で歩いていると、ちょっと小高いところに大きな赤犬がいるのが見えました。一九は恐々犬に向かって両手をついて、「コレハあなた山犬さまでござりますか。はじめておめにかかりました。わたくしこのたび国元の親父の法事に参るものでござります。どうやらあなたは、お心よさそうなお犬さまだ。お聞きわけなされて、早くどっちかへお出なされてくださりませ。」と長口上を言っていると、木陰から草刈の小僧が出てきて、「あかよコイコイ」と呼びました。犬は尻尾を振って駆けて行きます。
 それを見ていた権八と清治は、一九を馬鹿にして笑いますが、一九は山犬でなくてよかったとほっとため息をつきました。
 山いぬとおもひつめつゝよつばひに這ふて詫たることのくやしさ

『十返舎自身記行』上冊終

※「かどや」は鳳来寺参道手前の「門谷」という集落。現在も旅館や、自然科学博物館などがある。
 清井田の近くには徳川家康本陣跡があり、北上するとすぐ長篠城があります。しかし、一九はひとことも触れていません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ikku's Travels 3

2012-09-07 | bookshelf
鳳来寺と秋葉神社の位置
当時はこの2つの古刹を詣でる為、間にある険しい道を往来したそうな。
また、通行手形を持たぬ者が東海道を避けて通る道でもあった。
鳳来寺から左斜めに下ると、長篠古戦場がある。

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行』上編

 東海道藤川宿で一泊することにした一九ら3人は、ある宿屋へ入りました。お供の清治がすかさず宿に美しい飯盛(女郎)を見つけます。途中から道連れの権八も嫌いな口じゃなさそうです。ところが後から伊勢参詣の団体さん30人がやって来て、一九たちは奥の座敷に追いやられ、うるさくてゆっくりできなくなりました。夕食時は、隣りの座敷から宴会の騒音が聞こえてきます。「(口三味線)トッチリトントン。信州の川中島に御鎮座まします、善光寺の如来様は、難波の池よりありがたがって、善光(よしみつ)善光とお呼びなさるも知らずに、うかうかと本田善光振り返って、河童が出たかとびっくりして目を回す。フレフレまだまだチッテトッチンシャン」(善光寺縁起 元善光寺)と出放題の浄瑠璃や潮来の声に聞き覚えがあると、清治がふすまを開けて覗くと、一九の知り合いが数人いました。
 知り合い達が一九らを招くので、一九も「これは忝(かたじけ)ありま山」(当時の流行言葉:おやぢギャグ)と機嫌よく応じます。生酔いのおやぢの一人が、講のようにお金を出し合って女郎を買い、お酌をさせて楽しんだ後、くじを引いて当たった者が女郎と夜を共にするのはどうだ、と妙案をだします。おやぢ達は大賛成。早速くじを始めます。
 残念ながら一九らは外してしまいました。ところが当たった一人が淋病で、当たりくじを売ってやると言い出しました。百文で買うという声が上がりましたが、それでは安すぎると売らなかったので、一九が二百文で譲り受けました。さて、女の手をとって自分の部屋へ行って布団を敷いて寝ようとしましたが、そこには既に大勢が寝ていて一九達を寝かせてくれません。弱った一九は、寝巻きの裾をからけ、箱枕を2つ手拭で括り右手に持ち、左手で女郎を引っ張りあっちこっちウロウロキョロキョロ。
     挿絵は本文と逆になっている
 たのしみはとかく呑くひなれはとて上戸酒もり下戸はめしもり
 このままでは二百文棒に振ることになるので、知恵を絞って宿の女に相談を持ちかけます。そして宿の者が寝る場所に寝かせてもらうことにしました。そこは、2階にある納戸に急造された寝床でしたが、この期に及んで何処でも構わぬと、布団を敷きます。
 他の女も寝るらしく、下男の瘡かき男が夜這いに来た時の用心に薪ざっぱを枕元へ置いていました。少し話しをしているうちに女達はいびきをかき始め、一九も旅の疲れもあって寝入ってしまいました。ある女の足が横腹に乗っかったのに驚いて、一九が目を覚ますと女郎の姿はなし。女郎にかつがれたと思った一九は、憂さ晴らしに他の女に手をかけます。女は跳ね起きて、瘡かき男が夜這いに来たと勘違いして、薪ざっぱで一九を叩きます。一九は抵抗するも、女に馬鹿力で突き飛ばされ、腐りかけた床を踏み抜いて下に落ちてしまいました。しかし下には鶏の鳥舎があって、一九はその中へ尻餅をつき、鳥舎のむしろが切れてそのままかまどの前に落ちて、腰骨をひどく打ちつけ「イタイイタイ」鶏「ケエコゝゝゝ」「イタイイタイ」「ケエコゝゝゝ」。
 この騒ぎに宿の主人らがやって来る気配がしたので、一九は早く逃げようとしますが、腰が痛くて這って行こうとすると、何故か鳥舎を吊っていた縄が一九の首に纏わりつき、外そうとしてまごついている内に主人に見つかってしまいました。亭主は首吊りと勘違いして肝を潰しわめき散らします。仕方なし、一九は「手水へ行こうとして間違って鳥舎の中へ落ちた」と出任せの弁明をしました。主人が建物を壊されてぶつぶつ文句を言うので、しょげ返っていると、女が事の次第を説明してくれたので、果ては大笑いとなり、みんな寝ました。
 翌朝、一九ら3人も伊勢参詣の団体と一緒に大一座となって朝食をとりました。膳も半ば、下男が古ふんどしをつまんで持ってきて、「鳥舎の中にこの褌が落ちていたので、おおかた貴方のでござりましょう」と言って一九の前に置きました。みんな食べていたご飯を残らず一時にブッと噴出し、そこらじゅう飯だらけとなって、大騒ぎになりました。一九は独り、さすがに顔を赤らめてましたが、なんだか可笑しくてたまりませんでした。やがて食事も済み、一九はみんなと別れて権八らと宿を出ました。
 くらやみの恥をあかるみ所(どこ)でなし天井ぬけしことのうたてさ
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ikku's Travels 2

2012-09-05 | bookshelf
一九先輩が実際参詣した鳳来寺の場所

『秋葉山 鳳来寺 一九之記行(いっくがみちのき』上編
 一九は本編に入る前「附書」にて、この物語を執筆するに至った理由を述べています。それに因ると、秋葉山(神社)へは江戸からだと、東海道を掛川(静岡県)から行くのが順当だけれど、名古屋から江戸への帰路のついでに行くようにしてくれと書肆に頼まれたそうです。(板元は名古屋の書肆だから、尾張三河を描いて欲しかったのでしょう。)
 しかし一九は、宮宿(名古屋市熱田神宮)から御油宿(愛知県豊川市)の追分までは端折って、東海道を外れて鳳来寺道を歩く道すがらの様子を詳しく書く、と記しています。

 1815年文化12年の東海道は、高貴安富の通行人が行き交い宿場は繁昌。特に宮宿は七里の渡しがあるので旅人が足を止める場所なだけに、繁華街でした。名古屋から歩いてきた一九とお供(兼荷物持ち)の清治は、宮宿の柳屋という店で名物饂飩(うんどん)を食べます。(名古屋城下町から熱田神宮のある宮宿までは徒歩2,30分くらいある)
饂飩の辛子はきゝて旅人の今も目をふく柳屋の見世
(柳屋は実在していたのでしょうか。うどんに薬味の辛子を入れすぎたんでしょうか。)
 それから戸部村笠寺(観音がある)、宮の湯あみ地蔵辺りから、駿河府中に住んでいる権八という男と道連れになりました。(湯あみ地蔵は、戸部村の手前あたりに今もあり、願いが叶うとお礼に湯をかけるお地蔵様だそうです。)
 一九は自分も同じ生国なので、意気投合して鳴海宿の茶屋で一服します。(つまりここでも一九は自分の出身地は駿河藩府中だと明言しています。)この茶屋で3人は酒と肴に黒鯛を注文して、勘定は割りカンに決めます。すると権八は手酌で酒をどんどん飲むので、一九は「このおやぢは人よりよけいに飲もうとする、しわん坊(ケチな奴)だ。それならオレは魚を食わせないようにしてやろう。」と算段し、権八と清治に、「この黒鯛というのは美味い魚だが、船頭が糞をたれる辺りにかたまっていて糞を喰ってるから美味いはずだ。」(当時の有機肥料・人糞で育った農作物は美味しいとされました。)と言います。すると2人は本気にして気持ち悪がります。みんなが食べないので一人で鯛を食い散らかす一九。すると鯛の腹から黒いタワシのような塊がでてきました。「そりゃ船頭が尻を拭いた藁を、糞と一緒に鯛が喰ったんでしょう」と権八と清治が言うと、さすがに一九も胸が悪くなりゲェゲェ。それを見て大笑いする2人。「何もおかしくねへの」と真面目顔する一九も笑いがこみあげてきて一首。
黒鯛をひとりくはんと船頭の糞のやうなるめにあひにけり
 それから茶屋を後にし、池鯉鮒(ちりふ:ちりゅう)を過ぎ岡崎で馬に乗って藤川宿に到着。ここで宿をとって宿泊します。


最初の小噺は、一九先輩お得意の下ネタ。弥次喜多と同レベルの卑小な狂歌も好調好調。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ikku's Travels 1

2012-09-03 | bookshelf
『江の嶋土産 付、一九之記行』中山尚夫編<十返舎一九集3> 古典文庫451
『秋葉山 鳳来寺 一九之記行(いっくがみちのき)』十返舎一九著 自画
1815年文化12年秋刊行 板元:大坂 河内屋太助、尾州 松屋善兵衛、江戸 鶴屋金助

 題名ズバリ『一九之記行』なので、一九先輩が語る紀行文かと思い翻刻版を探して読んでみたら「紀行文」ではなくて『膝栗毛』亜流の滑稽道中記でした。その前に影印版(原書コピー版)を見ていてよかったです。翻刻版の漢字が誤字だと確定できました。
      ←「私」の字が誤字
 影印版の十返舎一九膝栗毛文芸集成は、高価な上、簡単に読めないので研究者用なのでしょう。↑古典文庫シリーズは、そんな江戸変体仮名や漢文で書かれた書物を現代語に直した、手ごろな厚さの文庫本です。『一九之記行』がオマケみたいに収録された『江の嶋土産』は1982年発行。非売品と印刷されていて価格はありません。やはり学校とか図書館用に発行されたものなのでしょうか。私は古書店で入手しました。
 本文の後に、編者の解説が載っているのが嬉しいです。膝栗毛文芸集成と編者が異なるので、解説文も若干違いがありその辺りも興味深いです。        旅装束の一九先輩
 『一九之記行』は以前このblogにも書いた、一九と尾張名護屋の書肆や文人たちとの交流から生まれた滑稽本で、1815年文化12年の7月に江戸を発ち、名古屋の書肆・松屋善兵衛宅に10日間逗留した際、松屋の求めに応じて執筆し同年秋に出版されたそうです。黄表紙は正月に出版されるのが常ですが、イレギュラーな出版もありました。中山氏の解説に因れば、この話は一九が名古屋滞在中に執筆したものだそうで、だとしたら数日で仕上げた作品になります。
 といっても、完成本は前編の「鳳来寺編」のみでした。後編にあたる「秋葉山編」(静岡県の天竜川上流ある秋葉神社)は出版された形跡がないそうです。
 鳳来寺編がさしあたって急ぎで出版されたのは、この年の正月『木曾海道続膝栗毛六編』(大井宿<恵那>、中津川、馬籠、妻籠…と尾張&三河に近い地域編)が出版され、尾張・三河地方で一九人気が盛り上がっていたのに便乗しようとした意図もあったでしょうし、一九側からは、松屋での宿泊やおもてなしを受けた謝礼の意味もあったのだと思います。『膝栗毛』ブームに乗っかったタイムリーな発売だったので、これは売れたに違いありません。名古屋の板元以外に、江戸と大坂からも出版されてはいますが、果たして名古屋ほど売れなかったと思います。なぜなら、内容が膝栗毛で使い古されたネタで、新鮮さがなく目新しさも見受けられないからです。
 後編の秋葉山編は、一九としては予定していたにも係わらず執筆されなかったのは、書肆に求められなかったからでしょう。流行作家といえども、当時は板元の要求がなければ出版は不可能だった(鈴木牧之の例)ようです。―もっとも一九先輩は他の執筆も多数抱えていたから、ポシャっても何とも思わなかったでしょうが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする