TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

De Humani Corporis Fabrica & Epitome

2013-05-27 | bookshelf
『謎の解剖学者ヴェサリウス』Vesalius,the founder of modern medicine
坂井建雄著 筑摩書房 1999年刊行

 先日読んだ、養老孟司氏の『解剖学教室へようこそ』でも触れていた、ヴェサリウスの『人体の構造について』という本が見たくて、図書館にでもないかと気楽に調べてみました。人体解剖云々ではなく、挿絵が見たかったからです。タッシェンのEncyclopaedia Anatomicaくらいの手頃な判にして書店で販売してるのかと思っていました。いや、とんでもない。復刻版でも10万-15万の値段だそうです。
 『人体の構造について』― 通称『ファブリカ』は巨大で重くて、世界でも所蔵している図書館は数館しかない、という貴重な書物だと知りました。『ファブリカ』そのものは入手困難なので、著者ヴェサリウスについて書かれた本を読みました。↑
 「謎の」と書いてありますが、特に謎が多い人物だった訳ではありません。ヴェサリウスが『ファブリカ』と『エピトメー』を出版したのが、28歳の時の1543年。そんな昔の事なので、消息がわからない時期もあるものです。しかし、本書の末尾掲載の年表を見ると、彼が生まれた1514年から49歳で亡くなる1564年まで、大体の消息は明らかになっているみたいです。因みに1564年は、ミケランジェロが没し、ガリレオ・ガリレイとウィリアム・シェークスピアが生まれています。
 アンドレアス・ヴェサリウス(現在のベルギー生まれ)は、本書のサブタイトルの英語にあるように「近代医学の立役者」、近代解剖学の基礎を築いた解剖学者・外科医でした。彼の生まれた16世紀ヨーロッパは、ローマ帝国(2~3世紀)時代のギリシャの解剖学の権威ガレノスの説に支配されていました。ヒトの解剖はローマ帝国で禁止されていたため、サルを解剖して著したガレノスの解剖学書が、ヒトの解剖と同じだと信じられ、中世の医師たちは人体解剖をほとんど行わないで、ガレノスの説に盲目的に従っていたそうです。
 宮廷医師の家系に生まれたヴェサリウスも、ガレノス説に出会い解剖学の道に進みますが、彼は実際にヒトを解剖して古い説の間違いを正しました。そして保守派から激しいバッシングに遭ったりもしますが、時代はヴェサリウスの味方でした。
 当時、医学の先進地だった北イタリアのパドヴァ大学へ入学し、22歳で大学の外科と解剖学の教授に任命され、翌年『解剖学図譜』を出版。28歳で『ファブリカ』を出版、同年皇帝カール5世の宮廷侍医になっています。その後も数回『ファブリカ』を手直しして、改訂版を出版しました。
左:『Fabricaファブリカ』  右:『epitomeエピトメー』
『ファブリカ』の大きさは42×30cm、重さは5㎏強 1冊の中で7巻に分かれている
『エピトメー』はファブリカより少し大判で、25ページの厚さ

 現在、『ファブリカ』の英語訳(原書はラテン語。当時ヨーロッパの医学はラテン語が公用語。)が完成したかしてないか…。『ファブリカ』の要約版(入門編)『エピトメー』は、英訳版と日本語訳版が出版されているそうです。とは言っても、内容が専門的かつ情報も古いので、日本語版があっても読む人は解剖学者くらいだと思います。どんな内容なのかは、『謎の解剖学者ヴェサリウス』にも書いてありますが、一般人は魅力的に感じないでしょう。
 むしろ『ファブリカ』の魅力は文書ではなく、その精密な挿絵 ― なんと木版画! ― にあると思います。『ファブリカ』の扉絵は有名ですが、私はずっと銅版画だと思っていました(数多く出回った海賊版は銅版画)。木版でこれほど精緻に描けるとは、江戸時代の浮世絵版画(日本で木版画が誕生したのは17世紀にはいってから。)なぞ、及びもしません。
 とても精緻なので、人体解剖図はヴェサリウスが描いたものだと思っていました。しかし、さすがにダ・ヴィンチみたいな人は2人もいません。誰が描いたのかはわからないそうです。複数の画家によって描かれた、とも思われているそうです。とはいえ、画家も大変です。防腐剤もない時代、臭気に耐えながらスケッチしたのですから。
 『エピトメー』の方は単なる要約本ではなく、ヴィジュアルを重視した実践解剖学本で、内臓などパーツを切り抜いて、人体図に貼り付けられるようになっているということです。そのため、本は切り刻まれて現存する冊数が極端に少ないそうです。
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evaluation of the samurai and picture diary

2013-05-18 | bookshelf
「武士の評判記 『よしの冊子』にみる江戸役人の通信簿」
山本博文著 新人物往来社 2011年刊

 江戸時代後期の江戸城へ勤務するお役人さんが、実際どんな人物だったのか?という疑問に答えてくれる史料に、『よしの冊子』という書物があるそうです。これは、1787年天明7年、田沼意次の後任として老中首座に納まった松平定信が、江戸城内や市中での幕府役人、旗本、町人たちの噂話や発言などを集め、書き留めたものです。そんな情報を集めていた定信の政治は薄ら寒く感じますが、そのおかげで当時の役人の実態がわかるのですから有り難いです。
 しかし、『よしの冊子』を読もうとしても一般人には無理なことで、幸い解りやすくまとめた本が出ていました。調査の対象となっていたのは、定信当人から、老中、お奉行さま、譜代大名など。本の中で紹介されているのは、主だった人物たちだけですが、時代劇でお馴染みの「鬼平」こと長谷川平蔵や、一九先輩が仕えていた町奉行・小田切直年の名前もあって、興味を掻き立てられます。
 現代語に翻訳して紹介された『よしの冊子』の評判を読むと、曲りなりにも時の政権のトップが読む文書であるのに、ちょっとした笑いが交えてあり、ウィットに富んだ文になっているのに驚かされます。例えば、老中の人事について戸田氏教(37歳)が有力候補だと噂されている、として、現職の鳥居忠意(65歳)は役に立たないが、老中が若手ばかりでは「若者中」になってしまうので、鳥居は飾りにでも置いておかないと、「老中」の老の字の甲斐がないと言う者もいる、と記しているのです。確かに人の噂話ですからそういうおちゃらけは言ったでしょう。でも現代なら、報告書にする段階で削除してしまうと思います。そういう事まで「~という噂です。」と締めくくって書いてしまえる世の中だったのですね、江戸時代後期は。そして、お役人の実態は、現代においてもほぼ変わっていないことがよく解ります。
「幕末下級武士の絵日記 その暮らしと住まいの風景を読む」
大岡敏昭著 相模書房 2007年刊
 では、もっと下っ端のお侍さんはどんな暮らし振りだったのでしょうか。大田南畝(下級武士階級)などは、閑な時間に本を読んだり歌を詠んだり遊廓に行ったり酒宴を催したり…と裕福ではないけれどゆったりした生活を送っていたことがわかりましたが、↑現・埼玉県行田市に住んでいた忍藩下級武士・尾崎隼之助(石城)の「石城日記」という絵日記全7冊から、1861年文久元年からの幕末の中下級武士の赤裸々な生活が、ヴィジュアル付きで知ることができました。
 忍藩は江戸から60キロほど離れた小さな城下町で、筆者は安政4年(安政の大獄の前年)に上書して藩政を論じたことで蟄居を申し渡され、中級武士から下級に身分を下げられてしまい、養子先にも居たたまれなくなって、妹夫婦宅に居候している33歳からの1年間を絵入りで綴ってます。石城(隼之助のあざな)は、文才と画才に優れた人物で、知り合いや寺の僧侶から画などを頼まれ、そういうもので生計を立てていたようです。
 なので、日記の絵もシンプルだけれどもリアリティ溢れる絵になっています。一般に、「男子厨房に入るべからず」という言葉があるように、特に武士なんかは料理なんてしないと思っていました。ところが、石城は寺へ遊びに行った折、僧侶の寄り合いの料理を小僧が1人で作っていたのを見かねて手伝ったり、妹夫婦と正月の準備をしたり↑(右の絵)、寺にお泊りした時は、僧侶(友人)と一緒に食事を作ったりしています。食事をするときも↑(左の絵)、家族と和気藹々と食べています。
 また、時代劇など見ていると、冬でも障子開けっ放しで、小さな火鉢くらいでよく耐えられたなぁ、と不思議でしたが、実際はコタツもあって、そこで食べたり飲んだり本を読んだり、寝たりしている絵が描いてあって、やはり寒さを凌ぐにはコタツにもぐりこんでいたんだなぁ、と江戸時代の人々が身近に感じられました。コタツも現代の机式のものでなく、もっと背が高いものも描かれていました。
 では暑いときはどうしてたんでしょう・・・これも現代と同じです。襦袢一枚で、ごろごろ。暑くて脚を出していたり。↑左の「襄山」というのが筆者・石城の別号。仁右衛門は石城が信頼している壮年の先輩武士で、少々髪が薄く描かれています。手前の甫山という人が、石城の一番の親友ということです(著者談)。その甫山の目のあたりが黒くなっているのは、ちょうど彼の家で流行り目になってしまい、眼帯をしているからです。
 日記では、石城はよく外出をし、町内の2、3の寺や友人宅(中下級武士)へ遊びに行き、よく飲み酔っ払い、外出先で泊まったり、料理屋での宴会に参加したりと行動的です。ここで知る限り、中級武士と下級武士、町人や寺の僧侶たちは、とても親密に交流しています。また、武士の妻や料亭の女将などとも、一緒に酒宴で騒いだりしています。江戸時代も末期になると、中級以下の武士たちは、身分などに捉われてはいなかったように思われます。そんなのどかで平和な日常の中で、社交的で誰からも慕われている石城でも酒に酔った勢いで、寺の襖や家具をめちゃめちゃにするほど暴れてしまうこともありました。蟄居中の身で、彼にもいろいろと鬱積するものがあったのでしょう。後にこのことで、自宅謹慎処分を受けてしまいます。そんな時も、友人や僧侶たちがお見舞いに来てくれる様子が書かれています。
 日記は、日付順に紹介されているのではなく、自宅の風景、友人宅の風景、などと著者がカテゴリー別に抜粋しているので、時系列でわかるようにはなっていません。著者は住宅環境が専門の工学博士で、石城日記も江戸時代の住宅を調べる史料として読んだようです。なので、住宅の間取りのことなどに詳しくページを割いていて、本来の日記を読み解く、という文学的アプローチを期待する者にとっては、物足りなく感じました。
 持病があって病気がちな親友の甫山が、身持ちの良くない女と何故か結婚すると言い出し、石城は反対するも結婚してしまった(ようだ)けど、その後どうなったのか、自宅謹慎中の石城を甫山は見舞いに来ないで手紙だけよこしたのは、何か意味があったのだろうかとか、好奇心を刺激させられる日記ですが、内容を追っていないので、わからずじまいなのが残念です。
 『武士の評判記』の著者は、日本近世史の文学博士で、1982年から十数年東大の史料編纂所に勤めていたそうです。史料編纂室なんて、どんなお宝が埋もれてるんでしょうか。『よしの冊子』みたいな面白い史料がいっぱいあるんでしょうね・・・。
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alley cats

2013-05-15 | photo
まるで狛犬のような野良猫くんたち

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welcome to an anatomy room

2013-05-12 | bookshelf
『解剖学教室へようこそ』養老孟司 著
2005年筑摩書房(ちくま文庫)刊行 1993年出版
本書に最初に登場する、東京大学医学部解剖実習室の写真

 解剖だとか人体だとかいう文字を見ると、どうしても手に取ってしまう性分のため、パラパラとページをめくってみたら、ややや、のっけから解剖室の写真。16世紀ヴェサリウスの時代のヨーロッパの人体解剖図、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図、東洋医学の解剖図、ターヘル・アナトミアと解体新書、江戸時代の解剖の風景、もちろん河鍋暁斎の骸骨画も載っています。半額だったので買いました。
 養老孟司氏の本は初めてで、本業の解剖学の事を書いているのだから難しいのでは、と思いましたが、学校の教室で初めて学生に教えるような、講義っぽい話し口調の文章なので、理系はサッパリの私でも面白く読めました。
 養老先生は、解剖が好きだから解剖学者になったんだ、ということがよくわかります。「解剖が面白い」などと言うと、人は眉をひそめたり、気持ち悪がったりする、というのもよくわかります。人は何故「解剖」するのでしょうか?単に体の中の臓器や仕組みを知るためではありません。過去に解剖に携わった人たちは、医者ばかりではありませんでした。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ。東京藝術大学には、美術解剖学という部門があるそうです。
 古くはギリシャ時代から行なわれていた解剖ですが、ローマ時代に禁止され、中世にキリスト教が学問の中心になると、医学とか実際の事を扱う学問の発達がスローダウンしてしまったそうです。ルネッサンスに至る以前から、アラビアに伝わっていたヨーロッパ医学を逆輸入して、13世紀に解剖が再開され、その約百年後にレオナルドが現れて、人体を遠近法で正確に描写しました。そして、それはアンドレアス・ヴェサリウスというベルギー人医師に受け継がれ、『人体の構造について』という本が出版されました。ヴェサリウスが29歳の時に著したそうで、絵についても天才です。
 そんな感じで、解剖の歴史から自然科学への歩みが語られ、西洋人が人体をどんどん細かく切っていって細分化するのは、アルファベットを使う民族だからだ、という面白い観点から説明されます。これが実にナルホドなのです。西洋と東洋の根本的な考え方・観念の違いを巧みに説明しています。記号の組み合わせで、世界を表すことが可能だから、人体を細かく切って名前を付けていくことができます。でも、小腸と十二指腸はどこからどこまでと正確に切れることができるのか、というとそう簡単ではないらしいです。
 最終的に、「心とからだ」という哲学的な話もでてきます。これは宗教的な問題でもあるので、考え方は人それぞれだと思いました。途中に水木しげる氏の描いた図版(同氏著『あの世の事典』の中の1ページ)が挟まれているのですが、げげげの鬼太郎でお馴染みの、あの絵とは全く違った「天に昇る大名行列」の絵を見た時、涙が溢れて止まらなくなりました。人は死ぬとどこへ行くのか―それが解剖の始まりだったのではないでしょうか。
 解剖なんて・・・と思っている人には、「あとがき」で先生からガツンとやられます。
「解剖は残酷だ。いまでもそんなことを言う人がある。そういう人でも、舗装道路を残酷だとは言わない。でも地面にコンクリートをひいたら、どれだけの生き物がすみかを奪われ、死んでしまうか。
 つまりは、知らないだけなのである。」― ナルホドです。

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a poet and a politician in the Edo Period

2013-05-08 | bookshelf
『青雲の梯 老中と狂歌師』 高任和夫著
講談社 2009年刊

 私が日本史の授業を受けていた時代は、田沼意次政権よりも次の松平定信政権の方を詳しく教えられたような気がします。気がする、というのは、当時日本史の授業は寝てるか落書きしてるか、くらいいい加減にしか聞いていなかったので、記憶が曖昧だからです。
 『東海道中膝栗毛』を読み、写楽の謎に翻弄され、蔦重にハマったりした後、改めて江戸時代中期の歴史を振り返ってみたら、1700年代後半、田沼意次は悪老中で失脚、松平定信は悪政を立て直すべく老中になった偉い人、と思い込んでいたのは、歴史の授業の刷り込みだったのかと気づきました。歴史は常に勝者のものなんですね。そういうことは教科書には載ってないので、子供だった自分には仕方のないことなのですが。
 徳川家康が生きている時代や坂本龍馬が活躍する幕末は、人気がありますが、江戸時代も後半に入ると将軍も影が薄くなり、テレビでは大奥ばかりが取り沙汰されてしまう時代に突入します。私は時代小説はほとんど読んだことありませんが、江戸時代のお侍さんを主人公にしたフィクションは、この辺りの時代が多いのではないでしょうか。「ぬしも悪よのお」とか、仕官できない下級武士が内職してるとか。
 明和・天明・寛政(1760年代~1790年代)は、後の文化文政期の江戸庶民文化最盛期の礎になった時代で、そういう時代をもたらしたのが田沼意次政権でした。そして、その時代の波に乗ったのが、平賀源内であり大田南畝(四方赤良。後の蜀山人)といった下級武士の文化人でした。もちろん、杉田玄白、前野良沢、桂川甫周、恋川春町、朋誠堂喜三二、蔦屋重三郎、山東京伝、歌麿もいましたし、大黒屋幸太夫も漸くロシアから帰国できた時代でもありました。つまり、解体新書の出版で日本の医学が発展し、出版物の発達で庶民の娯楽が盛んになり、海外からの圧力で外交や貿易の大きな転機になった時代でした。また、伊豆大島三原山や浅間山の噴火、大洪水など天災による大飢饉、内政の悪化も酷いものでした。
 当時の江戸幕府は、それらにどう対処したのでしょうか。興味深いところは、授業では教わりませんでした。それに、政治と文化は分けて教えられます。でも実際、政治は文化に大きな影響を与えます。
 『青雲の梯 老中と狂歌師』の老中は田沼意次、狂歌師は大田南畝のことです。同じ下級武士の身分から、一方は総理大臣級の身分まで出世、もう一方は文人として名を馳せた人物。この2人、プライベートには何も接点がなかったと思うのですが・・・。
 そこは、時代小説。私は資料を調べたことはないので、どこまでが史実でどこからがフィクションなのかわかりませんが、田沼意次の部下が南畝と同門の平秩東作(へずつとうさく:煙草屋。狂歌師。戯作者)を北海道調査へ派遣したり、意次の配下・土山氏が南畝のパトロン的存在だった事実を踏まえて、平行して進んでゆく2人の人生を通して、この時代の全体像を理解することができました。
 日本史の年表に、「1784年佐野政言、田沼意知(36)を刺殺」と細い字で書いてありますが、なぜ意次ではなく息子が刺殺(暗殺)されたのか、佐野政言とは何者なのか、忠臣蔵はお芝居になるほど有名なのに、どうしてこちらは死人が出たのに有名じゃないのか?という疑問を解決してくれる説明は、書いてありません。
 本書にはそのいきさつが書いてあり、とても興味深く読みましたが、果たして事実かどうかは私には判断できませんでした。事実なら、まさしく「ぬしも悪よのお…」です。また、意次が南畝を屋敷に呼んで対面する場面がありましたが、本当なのでしょうか。南畝の手記にでも書いてあるのなら、興味深いことです。
 
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clusters of wisteria

2013-05-03 | photo
pink

deep&light purple

verduer of Japan in May

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